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満月の夜

 数時間が経ち、東の空から月が上り始めた。


ゆっくりと移動し、やや高い場所へ差し掛かった頃、聖者とシノレは塔の階段を登った。

その足取りも月と同じように、性急でない緩やかなものだった。

聖者の妙な雰囲気に押されて、シノレも同じようにゆっくり進んでいった。


 屋上に出た時、まだ東の空に月は輝いていた。

その方角にあるのは聖都だろうかとぼんやり思う。

聖者もそれに引かれるように二三歩踏み出し、シノレの前に出る形となる。

それから少しの間、互いに黙っていた。


 シノレ自身、薄々分かっていたのかも知れない。

ここから途方もなく重大なことが始まると。

自分でも把握しきれないその感覚に、気を呑まれて口を閉ざすしかない。

そんな感じも、初めて味わうものだった。


「…………最後に、確認をしたいと思って」


 月明かりに向かい背を向けたまま、聖者は最初にそう言った。

感情のない無機質なほどの声だと一瞬思ってから、違うと思い直す。

そうして何かを封じている。押し殺している。

考えをまとめるより先に、聖者はその先を継いだ。


「このまま私と来るのなら、貴方は二度と戻れなくなります。

過ちを犯した歴史、この世界が狂った因果の、……清算の戦いに、本当に巻き込まれます。

その争乱から貴方を護りきれるかどうか、その確信すら私にはありません。

或いは私も貴方も、ただ無意味に死んでこの濁流の中に消えるのかも知れない」


 聖者がゆっくりと振り返った。

月光を背にして、その表情は良く見えない。

ただ静かな声だけが微風に乗って流れてくる。


「勇者になりたくないと思うなら、これが最後の機会です。

…………私を置いて、ここから降りて行きなさい」

「――――……」


 そんな聖者に、シノレは一つだけ問うことにした。


「…………どうして、僕を勇者と呼んだの?

僕はただの、無力な奴隷で。そんな言葉から一番遠い存在だったろうに」


「見目は関係ありません。

勇者というのは、私が……ずっと前、もうずっと昔に希ったものです。

御伽噺のように、他愛もない理想をどこまでも広げて、そんな存在があればいいと願った。

そして貴方が見つかった。

気づいた時には勇者と、そう口走っていました。

私自身、そんな幼稚な願いはとうに忘れ去っていたのに。

けれど、私にとって貴方を表す言葉はそれしかない」


 言えない。そう返されると思ったのに。

思いがけず滔々と答える声には、気迫にも似た何かが滲み出ていた。

一気にそこまで並べ、疲れたように俯いた聖者の声が少し弱まる。

呻きに似た、苦悩と懇願のせめぎ合う声は、シノレの一番奥まで響いてきた。


「……私の、ただひとつの願いは。貴方にしか叶えられない」


 白い月光が華奢な輪郭を縁取っている。

反面体全体に影を落としながら、この世のものとも思えない青い目だけが浮かび上がっていた。

それに深く見入って、ああ綺麗だなと思う。

今目の前にいるのは人間ではなく、現世に迷い込んだ月華の精だと言われても、誰も疑義を挟みはしないだろう。

思えばシノレが生まれて初めて何かを美しいと思ったのは、聖者を見た時だった。

それは決して快いものでもなく良い思い出とも言えないが、心が大きく揺れたことは確かなのだ。


 暗く汚いものばかりの人生だった。

見えず聞こえず痛みも鈍り、無力な五感で唯一感じた、血と臓器と排泄物の入り混じる臭いが、今でもふとした時に蘇る。

強者の意向に流されて、何かとあれば踏みつけられ、自分でなければ駄目だと求められたことなどそれまで一度も無かった。

それが突然こんな別世界に引きずり込まれて、散々、本当に色々思ったけれど、きっとここに至るまでに答えは出ていた。

それはあっさりと口から溢れた。


「分かった。いいよ」


「――――……」


 結局シノレが返したのは、そんな単純極まりない答えだった。

それでも、それに聖者は微笑んだ。

近づいてきた聖者に手を伸ばされ、距離が縮まった分だけ表情が鮮明に見える。


 その笑みを何と言えば良いのだろう。

いつもの超然とした神々しさとは違う。

時々見せる張り詰めた、崩れそうなそれとも違う。

まるでただの童女のような、素朴な、それでいて胸の締め付けられるような笑みだった。


「…………ありがとう」


 そんな小さな囁きも月光に消えそうな、あまりにも静かな夜の中で、シノレは聖者の手を取った。

それは、奇しくも。シノレが聖者と初めて出会ってから、一年が経った日の夜のことだった。



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