不安
竜の咆哮は南にいた聖者たちには、短い轟音で済んだが。
北の者たちにはそうではなかった。
近場にいた人間の中にはその声だけで即死した者もいたそうだ。
更に音の攻撃が大地を叩き伏せ、山一つ吹き飛ばされたのだという。
それから一日が経ち齎されたその報せに、城内は騒然となった。
魔の月をどうにか乗り越え、気が緩んだ矢先にこれである。
疲労と緊張、不平不満が破裂寸前まで膨れ上がるのは自然なことと言えた。
『こんなこと――……ああ』
喧騒と動揺が一段落し、二人きりになってから。
絞り出すように呻き、知らない言語の響きを連ねた聖者の声が耳から離れない。
白竜の出現から五日が経った。
その間聖者は部屋に籠もって一心不乱に祈り続け、周りの声がけにも反応しない有り様だった。
シノレはそんな聖者に付き添うため、この二日間部屋を移し居座っていた。
そこに新たな、招かれざる来訪者がやって来た。
「……何か御用でしょうか」
扉を開けながら、佇んでいた年配の女性にそう問う。
今日でもう十四回目だ。
うんざりしてくるし、酷く気力を削られる。
相手は血走った目に窶れた顔で、明らかに正気を欠いていた。
「……聖者様にお会いしたいのです。お通し下さい」
「それは叶いません。聖者様はもうずっと祈りを捧げておいでです。どうかそれを乱すことはご遠慮下さい」
もう何度も口にした口上を無機質に繰り返す。
言い聞かせて分かって貰える状況ではないが、有無を言わさず追い払うわけにもいかない。
「竜はどうなるのでしょう?
新たな託宣は下りましたか、聖者様は何か言っておられますか?
お願い致します、北部には親戚がいるのです」
「現時点で聖者様に変化はございません。
何か変事があったならば、速やかに共有するとウィザール様とお約束しています。
……竜の襲撃、そして予測されうる被害に、さぞ御心を痛めておいででしょう。
ですが地上に起こる全ては神の裁きであり、これが原罪の業なのであれば甘んじて受けねばなりません」
「教徒の在り方は重々分かっております、ですが……!!
二百年間我らは祈って参りました。
まだ足りぬのですか。
神は、聖者様は応えて下さらないのですか!?」
「……それほどに、かつての人類の原罪が重いということです。
神の尺度を人の身で推し量ろうなどとなさってはいけません」
そう答えながらも、シノレ自身もそれなりの不安を感じていた。
今のところは、人気のない僻地を旋回しているようだが。
いつ人の住む場所を襲撃してくるか分からない。
南寄りのここでもそうなのだ、北側の都市ではどれほどの恐怖が吹き荒れていることか。
「しかし、けれど、聖者様がいらっしゃるでしょう……?
だって、聖者様は神に遣わされた御方で、我らが少しでも許された証で……まさか、本当に教団が襲われるなどありませんよね!?
聖者様が、何とかして下さいますよね!?」
「っ!」
骨の浮いた手に、そぐわないほどの力で強く掴まれた。
下から異様な光を帯びた視線が覗き込んでくる。
見覚えのある顔つきだった。
自身の中に渦巻く、激しい感情に追い込まれた者の目だ。
それでもシノレを力尽くで排除し、聖者を引きずり出そうとしないのは彼らの懸命な自制であり、信仰なのだろう。
しかしその抑止も、時間が経つほどに弱っているのをシノレは肌で感じていた。
「聖者様は教徒のために、日々尽力しておいでです。
どうかそれを信じ、教徒の務めを果たして下さい」
それしか返す言葉はなかった。
戸口から離れられないまま往生していると、「もし」という声が新たに聞こえてくる。
聞き覚えのある声だった。
目を向けると廊下の向こうから、いつかの楽人が穏やかな顔で歩み寄ってくる。
顔見知りなようで、振り向いた女性の力がやや緩んだ隙に抜け出した。




