白竜の咆哮
世界が罅割れるような龍の咆哮が響いた後も、空が落ちてくることはなかった。
頭上を覆う空は依然として暗いが、最果てには朝の気配が滲み始めている。
白竜の声が轟き、聖者が飛び起きてから数時間後だった。
エルフェスから北北西にずっと進んだ先の地点に、医師団の首府たるトワドラは存在している。
ここは世界でも有数の旧時代建造物群が立ち並ぶ都市であり、かつての大崩壊で奇跡的に大きな被害を免れた場所であった。
月に照らされて浮かび上がる建物群の影は、ある場所は細長く、ある場所は無骨で、用途の知れない形状や装飾に埋め尽くされていた。
それらは今日の建物、文明の在り方とはあまりにも乖離して、その佇まいは余所者には異様なものに映るかも知れない。
その闇の中を白尽くめの小柄な影が、滑るように移動していく。
小さな足が外床を蹴り、何度も高く跳躍を続けて空へ駆け上がるほどに、衣服同様に白い髪が空中を舞って浮き上がる。
その顔には猫を模した仮面を被っており、また足首につけられた鈴は身動きする度に小さな音を鳴らした。
幾らか上ったところで人影は足を止めた。
足元からまた鈴が鳴る。
透けるように白い、その小さな足が収まるほどの天窓の下で、何やら人の気配が集いつつある。
暗い室内だ。日中であれば光が差し込んで明るいだろうが、今は夜である上明かりを絞っており、広いだけに尚更暗い。
そこかしこに色濃い影が蟠り、目を離すと息づきそうだ。
華美なモザイクに彩られた床に端座するのは、部屋一つくらいは収まるだろう巨大にして荘重な円卓だ。
据え付けられた座席に人影はなく、代わりに掌ほどの大きさの水晶が鎮座していた。
あるものは光が灯り、あるものは陰っていく。
壁の一面を背にした、これまた華麗な装飾の扉から最も遠い席には、小石のような酷く小さな影がある。
その傍でただ一人起立している、痩身の人影があった。
書類を幾つかの束に分けて、一つを抱え、一つは円卓に置いて、空いている手に持った書類に目を落としているようだ。
目深に被った黒い頭巾から、赤い髪が零れる。
りん、と鈴が鳴った。
「…………開始します。着席がまだの方はお急ぎになりますよう」
その瞬間、曇ったまま残っていた水晶に光が灯った。
既に光っていたものを含めると、総和にして三十近い。
よく見ると三十の水晶は、水面のようにゆらゆら揺れながら人影らしきものを映し出していた。
その像は曖昧で、顔立ちや年頃などは判別できない。
ただ全員が、黒っぽい衣服を纏っていることだけが見て取れるだけだった。
惜しげもなく並べられた、術具の群れが光を放って揺らめく。
台座に埋め込まれているものは、見る者が見れば一目で上級の魔晶石だと分かるだろう。
「――数時間前に起きた変事について、被害状況をまとめました。
東部にて竜が出現したというのは間違いがないようで、各地は対応に追われています。
まず、出現場所の周囲の都市からは何の連絡も来ておりません。
位置的に、咆哮の音響や直接の襲来によって即死したものと思われます。
またそれによってファーグ山が崩れ、麓一帯が壊滅の憂き目に遭いました。
そこからは多少離れた都市群も、現在は恐慌状態に陥っている模様です。
この先土砂崩れや河川の氾濫といった二次被害も予想されます。
現在の竜の位置は東端の辺境。
幸い開拓も移住もなくほぼ放置されている地帯のため、想定される被害は然程でもありませんが、相手は空を駆ける魔獣。
いつどの方角から襲ってくるかも分かりません。
我々はこれを緊急事態と判断し、急遽壁の起動に踏み切りました」
「…………」
特段大きくはないはずの声は、何故か円卓の端まで良く届く。
ただ赤毛の進行役自身は、居並ぶ者たちというよりは、直ぐ側に座る老婆に話しかけているようだった。
老婆は皺だらけの瞼を動かし、目線を彷徨わせた。




