忠告
辺りはもう薄暗く、ぽつぽつと明かりがつき始めている。
その幾つかは湖に光って、小さな花を咲かせていた。
城全体が夜に向かって沈んでいく。
帰り道は無言だった。
聖者がやっと口を開いたのは、部屋まで送り届けた後のことだった。
袖を引かれて顔が近づき、潜めた声が耳を打つ。
「シノレ。ウィリス様には、……少し、気を付けて下さい」
「……分かってる、ごめん」
危機感がやっと働き出した。
流されるまま随分と喋らされてしまった。
何だろう。自分でも上手く言い表せないのだが、気づいたら、何かいつの間にか乗せられていたのだ。
今更ながらそのことに気づいて肝が冷える。
教団で、特に使徒家の前で、迂闊な発言は命取りだというのに。
聖者は手を離し、やや気まずげに目を伏せる。
「……別に、言葉尻を捉えて陥れられるとか、そういう心配をする必要はないのです。
そのような方ではありませんから。
寧ろあの方自身は、本当にお優しく鷹揚で……
ただその分、引き際が見えない、と言うか。
境界が曖昧になりかねないと言うか……」
「うん何となく分かる、と言うか分かった」
ここに来てから何度も見た笑顔を思い出す。
あの顔には、本来あるべき境界線を薄めてしまうようなものがある。
敵意は一切感じないが、寧ろそれが厄介だった。
とにかく分かり辛いのだ。
逆鱗に触れてからでは手遅れであるし、本人が何かをせずとも周囲の人間がそうだとは限らない。
これまでも先程も、常に彼の周りには人がいて絶えず注意を向けていた。
一度口にした言葉は取り消せず、人の口に戸は立てられない。
高貴な者の尊大さというのはある種、こちらに保証を与える約束事のようなものなのだろう。
この範囲の中でこう振る舞え、ここから先は踏み込むな、そう振る舞え、それで良いのだと。
ウィリスにはそうしたものが無い。
慣例に囚われないと言えば聞こえは良いが、気付けばこちらの内面や手の内、出してはいけない本音まで持っていかれそうな不気味さがある。
(そういう手合は、今までいなかったな……。
まあ、そういうものと分かればそれはそれで。……考えておこう)
考え込むシノレをどう思ったのか、聖者が引き止めるように手に触れた。
「まだ行かないで」と、そう告げる声も夢のように朧気だ。
淡い金髪と白肌が薄暗がりに沈んで、夜に溶けて消えていきそうに儚い。
瞳の青だけが、僅かな光を捉えて浮き上がっている。
「……力は、問題なく使えていますか?」
「まあ。……比較対象がないから、何とも言えないけど。
特に問題はないと思うよ。ほら、護符もずっとつけてるし」
そうですか、そう呟いた聖者は僅かに視線を揺らし、シノレの肩口に額を押し当てた。
少しくぐもった、押し殺したような声が聞こえてくる。
「一年に一度。魔獣は……やがて静まるでしょう。
……一日も早く、一人でも多くが、魔獣の恐怖から解放されることを、私は願います」
自分に言い聞かせるようなその声は酷く重く、沈痛ですらあった。力なく手が落ちて、聖者がふらりと椅子に崩れる。
もう動けなさそうだ。
使用人を呼んで、自分ももう部屋に戻って休もう。
扉に向かい踏み出そうとして――ふと動きを止めた。
「……どうかしましたか、シノレ」
「…………いや」
何だろう。何か、悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
何となく壁際……北の方をちらりと見やり、すぐに目線を戻す。
それきり振り返らずに、気の所為かと、そう思いながら歩き出した。




