諮問
これは、試されているということだろうか。
聖者の視線を感じる。
昼間ふと胸を掠めた思いつきが、ここに来て明瞭になってくるようだ。
「……僕如きの考えで使徒家の方のお耳を汚すのは、大変に不遜なことと心得るのですが……」
「良い良い。話せ」
「危ないのではないですか。早急に楽団を叩かなければ後手に回りかねないかと」
ウィリスはやや首を傾げ、ゆっくりと笑みを広げる。灰色の瞳が輝いた。
「どうしてそう考える?」そう問う声も密やかだがどこか楽しげだ。
シノレは考えながら、地図に目を落とした。
「ベウガン地方はここからずっと西の……ワリアンドと接する地域でしょう。
この一帯はまだ、教団領に組み込まれてから日が浅いと聞きました。
それはつまり、対処が遅れれば、楽団に呼応する可能性もあるということでは?
そればかりか……元々教団領は楽団との境界線が広く、守備しなければならない範囲は非常に大きい。
そのため、ワリアンドとブラスエガを分断し、必要とあらば他州も巻き込んで、一度に両方と戦う局面を避けること。
そのようにして、西側の安定を図ってきたと聞きました。
ですがこの場合……ワリアンドは早急に動けば、ベウガンを取り返すことができる。
ブラスエガとの決着がついていない状態でこれは良くない。加えて、この川です」
地図の上を走る川に指を這わせた。
川の流れは教団領の片隅から、ベウガン地方を分断するように流れ落ちていく。
「教団領の北から南へ、フィアレス川がこう流れています。
結構な規模の河川で、流通や軍事においても要所だと聞きました。
ここは教団領の南北を繋ぐ、一つの流通路です。
このままではここが脅かされる恐れがあります。
……ワリアンドがベウガンを再統合することがあれば。
もうここは、安穏とした河川ではなくなります。
それどころかこの辺りの、ここ数年でブラスエガから勝ち取った地帯が、挟み撃ちにされ奪い返される恐れがある」
フィアレス川から西側の教団領を示し、そのまま南へ指を下ろしていく。
続けて下った川の流れの、やや東の辺りを示した。土砂で塞がれたのがこの辺りだ。
孤立による連携の不十分を良いことに、ここまで楽団が迫ることがあれば――、
「そうさな。まさしくだ。……聖者様は実に、素晴らしい眼力をお持ちですね。
教育を受け始めてから一年足らずとは到底思えません。お見逸れしました」
「……恐れ入ります。何もかも教団の皆様のお導きあってのことです」
目を伏せて答える聖者を更に讃え、ウィリスが再び向き直る。満足げな笑顔だった。
「その通り。ベウガン地方を解放されてしまったら。
フィアレス川は流通の要所ではなく、楽団を防ぐ要害とならざるを得ない。
必然教団内での交易も制限され、これまでのような規模を保つことは難しくなるだろう。
僅かでも隙を見せれば、ワリアンドは教団へ雪崩れ込んでくる。
かと言って、五年前から引き摺ってきた因縁も放置してはおけん。
こうなってはさっさとブラスエガを黙らせる必要がある。
先だってのリゼルドの大言壮語を笑っていられなくなったということだな。
それに加え、ここに異教徒たちが参戦して来たらかなり面倒だ。
以前猊下が言及なされたワリアンドとロスフィークの共闘についても、早急な対処が必要となる。
……サフォリアとの連携も、より緊密に進めていかなければなるまいなあ」
「……魔の月間におけるサフォリアの被害は、どれほどのものなのでしょうか」
「南部だからな、そこまで深刻なものではないと聞く。
こちらの状況を知れば足元を見てくるかも知れんが……その辺はレイグが何とかするだろう。
積年の因縁もあることだし。
……まあ結局は、なるようにしかならんよ。
魔の月もどうにか終わったのだし、後は領民を戻してどうにかやっていくしかない」
「それはそうでしょうが、実際本当に魔獣の襲撃はもう止んだのですか?
ここから新たな襲来や二次被害が発生することは……」
そこに口を挟んだのは、黙って成り行きを見ていた聖者だった。
「……ウィリス様。申し訳ありませんが気分が優れませんので、今はシノレを連れて下がっても構いませんか。
お話は後日、改めてお伺いします」
「これは聖者様、大変失礼いたしました。
お疲れでしょうに長々引き止めて申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。このお詫びは必ず……シノレ、来て下さい」
そのやり取りをどこかぼんやりと聞いていたシノレは、聖者の声にはっとする。
同時に冷たいものが胸に広がるが、それに構っている場合ではない。
すぐにテーブルを回り込んで聖者の傍に行き、手を貸した。
聖者を伴って立ち去ろうとするその間際に「シノレ」と呼び止める声が響いた。
ウィリスは至って楽しげな、あどけないほどの笑顔を見せた。
「お前はここから、状況がどう動くと思う?また機会があれば聞かせてくれ」




