表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
169/481

厄災と福音

 外で、扉が動く気配がする。

どうやら聖者が帰ってきたようだ。

少し考えてから、徐ろに起き上がって扉を叩いた。


「聖者様、ちょっと良い?」

「……シノレですか。入って下さい」


 返ってきた声は疲れたものだったが、構わず入室する。

聖者は椅子にかけ、ぼんやりと宙を見つめていた。

シノレが入っても動く気配はなく、ただ置物のようにじっとしている。


すたすた踏み入り、ずしりと重い机の水差しを手に取った。

やはり、朝に補充してから全く減っていない。

水を汲んで聖者に差し出した。


「水、飲みなよ。

朝もさっきも、全然飲んでなかったでしょ。

ていうか最近寝てすらいないでしょ。

いい加減倒れるよ」


 禄に食べないのは百歩譲って良いとしても、水くらいはきちんと飲んでくれというのがシノレの意見だった。

水分は生死に直結する。

脱水など起こされては堪らない。

聖者は全く自分の体のことに構わないが、それを気に掛ける人間は大勢いるのだ。

この局面で聖者が倒れたりしようものなら、いよいよ周囲は混乱するだろう。


 水を汲んだ杯を持たせようにも、指が震えて動かせないようだった。

仕方ないので口元に充てがうが、それでも飲もうとしない。

拒むでもなく、ただ虚ろに動かない。


 青い、恐ろしいほど深く澄んだ瞳が見つめている。

その奥から何かが鳴り響いている。

その深奥ではもっと大きな、今のシノレには知覚さえできないような、悍ましいほどの力が渦巻いている気がした。

やや気圧されそうになるが、今は気にしていられない。


「……飲んで」


 心此処にあらずな聖者に、何度かそう促すが、ぼうっとした様子で流される。

流石に怒ろうかと思った時、


「心配を、なさらずとも」

そんな投げやりな声が聞こえる。


聖者は顔を上げ、一瞬酷く荒んだ笑みを浮かべた。


「……私は生半なことでは倒れませんよ。見かけよりも丈夫ですから」

「…………」


 シノレはそれに、思い切り顔を顰めた。

気分が悪い。言葉が見つからない。

中の水が零れるのも構わず、杯を叩きつけるように置く。

視線を彷徨わせる。

そこで目に留まったそれを咄嗟に鷲掴み、聖者に突きつけた。


「この文鎮、大事にしてくれるって言ったよね。

自分を大事にできないくせに良く言うよ。

埃被ってるし、自分で言った言葉に責任持てないの?」

「…………それ、は」


 文鎮を突きつけられて、僅かに、聖者の目に生気が戻る。

我に返った様子で口元を隠し、「ごめんなさい……」と弱く呟く。


そこから暫し、言葉に詰まった様子で黙っていたが、やがて顔を上げて

「少し、手を握ってくれませんか」と言った。


「その前に水」

「……はい」


 もう一度杯を渡すと、先程までが嘘のように大人しく口にした。

時間をかけて干した杯を置き、じっとシノレを見つめてくる。


その様子に深々とため息をついて、無言で手を取った。

握ると握り返される。

手荒れなど僅かもない白く柔らかい手は、極普通に温かい。

この聖者はおよそ人間味というものを感じさせないのに、ぬくもりだけは人並みだった。

体温とは別に、常に全身を巡っている力が流れ出して互いに溶け合っていく。

冷えて濁っていた流れがシノレのものと響き合い、温まって澄んでいくのが分かる。

聖者はそのまま暫くじっとしていたが、やがてぽつりと問いかけた。

少し顔色が良くなったようだ。


「……私が寝ていないと、どうして分かったのですか」

「毎朝部屋に来てるから。顔色とか寝具の状態とか見れば分かる」


 聖者はそれに「そうですか」と苦笑する。


「シノレ」と再び呼ばれる。


「……ありがとう。貴方にとって、私は災厄だったでしょうが。

私にとって貴方は、確かに福音でした」


 そう微笑んだ聖者の顔は、いつにもまして眩く尊いもので。

見慣れつつあるシノレですら、一瞬魅入られた。

そしてその笑みのまま、聖者は仰天するほど呆気なく眠りに落ちたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ