厄災と福音
外で、扉が動く気配がする。
どうやら聖者が帰ってきたようだ。
少し考えてから、徐ろに起き上がって扉を叩いた。
「聖者様、ちょっと良い?」
「……シノレですか。入って下さい」
返ってきた声は疲れたものだったが、構わず入室する。
聖者は椅子にかけ、ぼんやりと宙を見つめていた。
シノレが入っても動く気配はなく、ただ置物のようにじっとしている。
すたすた踏み入り、ずしりと重い机の水差しを手に取った。
やはり、朝に補充してから全く減っていない。
水を汲んで聖者に差し出した。
「水、飲みなよ。
朝もさっきも、全然飲んでなかったでしょ。
ていうか最近寝てすらいないでしょ。
いい加減倒れるよ」
禄に食べないのは百歩譲って良いとしても、水くらいはきちんと飲んでくれというのがシノレの意見だった。
水分は生死に直結する。
脱水など起こされては堪らない。
聖者は全く自分の体のことに構わないが、それを気に掛ける人間は大勢いるのだ。
この局面で聖者が倒れたりしようものなら、いよいよ周囲は混乱するだろう。
水を汲んだ杯を持たせようにも、指が震えて動かせないようだった。
仕方ないので口元に充てがうが、それでも飲もうとしない。
拒むでもなく、ただ虚ろに動かない。
青い、恐ろしいほど深く澄んだ瞳が見つめている。
その奥から何かが鳴り響いている。
その深奥ではもっと大きな、今のシノレには知覚さえできないような、悍ましいほどの力が渦巻いている気がした。
やや気圧されそうになるが、今は気にしていられない。
「……飲んで」
心此処にあらずな聖者に、何度かそう促すが、ぼうっとした様子で流される。
流石に怒ろうかと思った時、
「心配を、なさらずとも」
そんな投げやりな声が聞こえる。
聖者は顔を上げ、一瞬酷く荒んだ笑みを浮かべた。
「……私は生半なことでは倒れませんよ。見かけよりも丈夫ですから」
「…………」
シノレはそれに、思い切り顔を顰めた。
気分が悪い。言葉が見つからない。
中の水が零れるのも構わず、杯を叩きつけるように置く。
視線を彷徨わせる。
そこで目に留まったそれを咄嗟に鷲掴み、聖者に突きつけた。
「この文鎮、大事にしてくれるって言ったよね。
自分を大事にできないくせに良く言うよ。
埃被ってるし、自分で言った言葉に責任持てないの?」
「…………それ、は」
文鎮を突きつけられて、僅かに、聖者の目に生気が戻る。
我に返った様子で口元を隠し、「ごめんなさい……」と弱く呟く。
そこから暫し、言葉に詰まった様子で黙っていたが、やがて顔を上げて
「少し、手を握ってくれませんか」と言った。
「その前に水」
「……はい」
もう一度杯を渡すと、先程までが嘘のように大人しく口にした。
時間をかけて干した杯を置き、じっとシノレを見つめてくる。
その様子に深々とため息をついて、無言で手を取った。
握ると握り返される。
手荒れなど僅かもない白く柔らかい手は、極普通に温かい。
この聖者はおよそ人間味というものを感じさせないのに、ぬくもりだけは人並みだった。
体温とは別に、常に全身を巡っている力が流れ出して互いに溶け合っていく。
冷えて濁っていた流れがシノレのものと響き合い、温まって澄んでいくのが分かる。
聖者はそのまま暫くじっとしていたが、やがてぽつりと問いかけた。
少し顔色が良くなったようだ。
「……私が寝ていないと、どうして分かったのですか」
「毎朝部屋に来てるから。顔色とか寝具の状態とか見れば分かる」
聖者はそれに「そうですか」と苦笑する。
「シノレ」と再び呼ばれる。
「……ありがとう。貴方にとって、私は災厄だったでしょうが。
私にとって貴方は、確かに福音でした」
そう微笑んだ聖者の顔は、いつにもまして眩く尊いもので。
見慣れつつあるシノレですら、一瞬魅入られた。
そしてその笑みのまま、聖者は仰天するほど呆気なく眠りに落ちたのだった。




