不安と焦燥
それから徐々に、外の影に蝕まれるように、城の静謐な空気は変化していった。
声もなく、水面下に漂っていた澱のようなものが、段々表出してきたというべきか。
力を張り巡らさずとも、足音や囁き声が聞こえてくることが増えた。
そこかしこで渦巻くのは、先の見えないこれからについての不安や焦燥だ。
魔獣による直接的な被害もさることながら、それに煽られた人間同士の諍いが起きればどうなることか……
その不安を鎮めるためにも、彼らはただ懸命に祈っている。
聖者も何度かウィザールに呼び出され、近況の報告や相談を受けることが増えた。
その度シノレにも、実体のない同道を無言で促してきた。
その日もそうだった。
執務を一段落させたウィザールと、呼び出された聖者は、机を挟んで静かに語らう。
瀟洒なカップに入っているものは、香り高い茶などではなく水であるが。
「魔の月も終盤に入ったというのに、静まる気配がありませんね。どうなることか」
「例年よりも襲撃が激しいと聞いています。
数日前からは特に……北部はどうなっていますか」
「相変わらずのようです。
総出で立て籠もり、防衛に当たっていますが……
特に、ファラードの領地であるリアドの近辺は、被害が大きく。
まあ主要な施設は移動させているそうですし、最悪あそこが破壊されても立て直しは利くでしょうが……
しかしあの辺りは聖者様が目出度くも来臨なさった聖地。
悲惨なことにはなってほしくないものですな」
「…………ええ、そうですね。懐かしいものです」
僅かに、聖者の声が沈み込んだ気がした。
だがすぐに通常の声に戻り、話題を変える。
「今回の襲来を機に、どこかと諍いが始まる兆しは出ているのでしょうか」
「……そうですね、南である程度の安寧を確保している騎士団は良いとして。
やはり楽団でしょう。
総帥争いの火蓋がいつ切られるかによって、我々の出方も変わります」
「……総帥争い自体は、絶え間なく行われているように思いますが……総帥の子らのことですね」
そこで、接続がふっと途切れそうになる。
意識が離れ、遠ざかりかけた末端を聖者に繋ぎ止められた。
糸を結び直すような感じとともに、意識の端が再び聖者に結び付けられる。
どうにか立て直し、暫く使っていなかった脳内地図を引っ張り出す。
楽団はシノレにとって古巣だ――良い思い出など何も無いが。
北のオルノーグと南のワリアンド。
この二つが楽団領を分かち、支配する二大勢力である。
北と南は数百年間仲が悪く、事あるごとに諍いをしては互いの力を削ろうとしてきた。
六大都市の他四つはそれを取り巻くように展開しており、それぞれ肥沃な地や何かしらの強みを抱えている。
楽団の抗争とは、主にこの六つの削り合い、奪い合いだ。
因みにシノレが育ち、人生の大部分を過ごしたのは北部――ツェレガの端の端、放棄された最西端の辺境である。
しかしそれはさておき、このような地理的事情から、教団は常に楽団の動向に意識を向けている必要がある。
そして楽団が大きく揺れ動くことと言ったら大抵は内部の勢力争い、その究極が総帥の座を巡るそれだ。
そのため教団は総帥に関連することでは常に情報網を広げ、あらゆる手法で探りを入れてきた。
「かの一族に四代目が誕生するか否かは、未だ定かではありませんが……」
曖昧に笑いながら、ウィザールはそう言葉を濁す。
何とも化け物じみた、下手な怪談より空恐ろしい話であるが。
楽団ではこの百年と少しの間、一つの一族が総帥として君臨している。
そしてこれまで、初代から三代目までが総帥の座に収まるまで、例外なく過酷な動乱を経てきた。
楽団の覇権を巡る熾烈な跡目争いは楽団領内部に留まらず、他勢力も巻き込んで、大陸中大荒れに荒れたのだ。
そして現在、六大都市の内四つは総帥とその子どもたちによって支配され、覇権を奪い合う状況が続いている。
いずれ必ず争乱は起きるだろう。
ウィザールはそう言っているのだ。
だが、それを言葉にすることはなかった。
「医師団も、北方だけあってかなりの被害を受けているとの報せが入っています。
あそこはあそこで不気味ですが、とにかく手の内が見えませんし……
本拠であるトワドラ以外の領地にさして執着しませんからな。
魔獣に荒らされようと人に侵略されようと、大して動きもしない。こちらとしては、隙を見せないようにするしかありません。
…………何にせよ、一日も早い大攻勢の終結を願うばかりです。
魔獣をやり過ごしながら、どれだけ余力を残せるか。
それは誰にとっても、死活問題なのですから」
「……どうか、ご無理はなさらず。
私もできる限り、祈りを捧げましょう」
聖者様がそう仰って下さるならば何の不安がありましょう。
ウィザールはそう笑ったようだった。




