夢の残響
「……おはようございます、聖者様」
「ええ、おはようございます……シノレ?」
挨拶を返した聖者は、案じるような目でこちらを覗き込んだ。
「……少し、顔色が悪いのでは。眠れなかったのですか?何かあったのですか?」
「…………別に何も無いよ。ただ、変な時間に起きちゃっただけ」
少し迷ってからそう誤魔化す。
何となく、あの夢のことは誰にも言わない方が良い気がしていた。
聖者もそれ以上追求せず、気怠げな仕草で食事をし始めるがすぐに手が止まってしまう。
青い目は焦点が合っておらず、どうにもぼんやりしているようだった。器を見てみると、半分以上残っている。
「……もうちょっと食べなよ。昨日も一昨日も残してたでしょ。それじゃ体保たないよ?」
「……もう喉を通らないのです。貴方は育ち盛りなのだから、嫌でなければ」
聖者はこのところますます食欲が落ちたようで、食事はいつも一口二口で匙を置いてしまう。
元々線の細かった体は、いよいよ吹けば飛びそうなそれになっていた。
あれ以来シノレに渡せば良いと覚えてしまったのか、しょっちゅうこうして勧められる。
シノレは別に構わないのだが、それで更に食欲不振を助長させるのもどうかと思うし、最近はどう対応するか決めかねていた。
(本当に、どうしたものかな……
いや、僕に何とかできることなんかないんだろうけど……)
けれど瞼を伏せた聖者があまりに儚げで、シノレも落ち着かない気分になることが多かった。
慢性的に続く鈍い頭痛と倦怠感に、溜息をつい吐き出した。
その日も同じ夢を見た。
流石にここまで続くと、ただの夢ではないんだろうと思えてくる。
だからといってそれが何なのかはまるで分からないのだが。
最初の頃は酷く不明瞭だった声は、段々と意味をなすようになってきた。
知らない言葉であるはずなのに、どうしてかそれが分かった。
闇の中で泣く誰かは、いつもいつも繰り返し、「かえして」と、そう言っているのだ。
それを悟った途端、堪らない気持ちが込み上げた。
なんて哀れなんだろう、何でもしてやりたい、命だって喜んで捧げる、この悲嘆が終わるのならば――
自分の意思も感情も、自我も、全てが塗り潰され、染め替えられていくような。
侵略にも近いそれに、体の芯が燃えたっている気がする。
凍りついている気もする。
吐き気が込み上げて、全てを跳ね除けるように叫んだ。
「――――鬱陶しい!!」
遂に堪忍袋の緒が切れた。
もう一月だ。
一月近く、毎晩毎晩この辛気臭い泣き声を聞かされて、辛気臭い思いをさせられて、ここ数日など禄に体が休まっていない。
日増しに大きくなる啜り泣きを朝が来るまで延々聞かされて、最近日中でも鼓膜がひりつくほどなのだ。
寧ろここまで、我ながら良く我慢した方だと思う。
ここで遂にそれも途切れ、込み上げた鬱屈を何者かに叩き付けた。
「泣いて何かが変わるわけがない!!
そんなに辛いならいつまでも泣いていないで、何か行動しろ!!!」
寂しい。悲しい。切ない。苦しい。どうして。かえして。かえして。かえして。
延々と聞かされたそれは、今や勝手に頭の中を廻り出す。
始点から終点へ、ただひたすら巻き戻り、繰り返し、同じところを巡り続けるだけの生産性のない悲嘆。
こんなものに理由も分からず巻き込まれて、被害を及ぼされる方の身にもなってほしい。
見知らぬ何者かにそう怒鳴り、溜め込んだ鬱憤を全て吐き出した。
ぴたりと、泣き声が止んだ。
背を向けていた誰かが、緩やかに動き出す。
光り輝く髪が揺れ動き、白い顔がこちらを見る。
光の屑を散らすように、長い睫毛がふわりと動き、堪っていた涙が滑り落ちて、涙に曇っていた瞳が露わになる。
その瞳は闇をも弾き返すような、あまりにも鮮やかな黄金だった。
発された声もまた、心ごとシノレの怒りを溶かすような甘やかなものだった。
『おかあさまをかえして』
その響きに頭を殴られたような衝撃を感じ、そして辺りは本物の闇に包まれた。
高い澄んだ音とともに、闇の世界がひび割れていく。
次から次へと、絶え間なく。
酷い頭痛と目眩を感じる。
全てが霞んでいく中でかろうじて、消えかけの、最後の残響が鳴り響くのが聞こえた。
はっと目を覚ますと、今や見慣れてしまった部屋が視界に入る。
荒い鼓動を宥めて息を落ち着け、体を起こす。
妙に耳の奥で響く鼓動が、騒がしく波打っていた。
机に置いていた護符が、朝の光に不似合いなほど鈍く光っていた。




