魔の月の生活
魔の月は、教団で重要な意味合いを持つものだ。
現実としても、宗教的な意味においても。
教徒はこの間、あらゆる意味で身を慎み、只管神の許しを乞うのである。
食事はほぼ毎食、そして身分を問わず質素な粗食で統一する。
飲み物も水以外は自粛し、嗜好品の類も全て断つ。
必要時を除き、会話すら殆ど行わない。
そしてそれが明けた後に新年を祝うのだ。
この一月を魔の月、もしくは大攻勢、極夜などと呼ぶ。
千年以上前、『黎明』によって一度魔獣は撃退された。そう伝えられている。
しかしそれは殲滅ではなかった。
今から七百年ほど前、冬が終わりかけた頃のことだ。
再び魔獣が出現し、人類に襲いかかった。
その時は三日ほどの襲撃と混乱で済んだ。
だがそれでは終わらなかった。
徐々にその期間は長引いていき、周期も狭まっていったのだ。
そればかりか二百年前を境に攻勢は更に勢いを増し、年中魔獣はうろつくようになった。
そして特に大規模な襲撃が来るのが一年に一度、約一月の間だ。
魔の月という呼称はそれに由来している。
「………………頭痛い……」
重い瞼を上げると、覚えのある室内が見えた。
五日しか使わないはずだったこの部屋にもそろそろ慣れてきてしまっている。
もそもそと起き上がって、寝ぼけ眼で朝の支度を始めた。
月が変わってから、何だかんだ数日が経った。
ここのところは辺りが静まり返っている。
先月まではやれ晩餐会だお披露目だとお祭り騒ぎをしていたベルンフォード家でさえ、殆ど城から出ない日々が続いていた。
顔を洗って着替えて寝癖を直して、そうしている内に段々頭がはっきりしてくる。
とは言え今日一日の予定は、寝ぼけ眼でもこなせそうな気がしないでもないが。
魔の月間の教徒の日課は単純だ。
食べて、祈って、寝る。それだけだ。
と言うか何かしらの特殊な職務などがないのなら、緊急事態でも起きない限り、それ以外はしてはならない。
勿論、魔獣が攻め寄せてくれば壁の内側から、砲台始め各種投擲武器で対処することになるが……
しかし教団にとってこの期間の最大の意義は、籠もって祈りを捧げ、神の天秤を傾けることなのだから。
そういうわけで、辺りは静まり返っている。
誰もが神妙に過ごしており、シノレも当然それに参加する義務があった。
思えば教徒としてこの季節を迎えるのは初めてだ。
本来は人にも極力会わず、自室に籠もって過ごすのが正しい形だが。
「おはよう。来たよ」
「シノレ……おはようございます」
部屋を訪れたシノレに、聖者は顔を上げた。
これが聖者の望んだことだった。
魔の月の慣例は承知している。
だがどうしても、一日に一度でもシノレと一緒に過ごしたいと。
それだけが、エルフェスの逗留にあたって聖者が望んだことだった。
大窓越しに、広大な湖が朝の光に浮かび上がっている。
もう朝食は来ているようだった。
机に乗せられた小振りな器の中には、干し魚の入った粥が入っていた。
傍らには水瓶と杯も添えられている。
「……早めに来てくれて良かった。
冷えない内に頂きましょう。
貴方には物足りないかもしれませんが、一ヶ月だけ堪えて下さい」
「いや全然。腐ってない食べ物に文句なんてつけようがないよ」
シノレとしては、少なくても安定した食料と綺麗な水があるだけで楽園だ。
寧ろこれが粗食とか本気か、というのが本音だ。
腐った食べ物干からびた食べ物、時には食べ物ですらないようなものまで食べてきた自分からしたら、充分御馳走に見える。
……先月の晩餐会に出ていたようなのはあれだ、何か異次元の物体だ。




