越えねばならない壁
(魔の月……やっぱり、随分早く来たな。
雪解けが早いと思ったら、こういうことも早いのか……)
暦で数えられる予定よりも十日ほど早い。
毎年訪れる大々的な魔獣の襲来と、暦の日付は必ずしも一致するわけではないが、それにしても異例の速さだった。
ちらりと窓越しに覗いた外の気候は春の色を帯びつつあった。
世界は厳しい冬を脱し、春が近づきつつある。
だが、完全にその恵みを享受するために越えねばならない壁が一つある。
寒さが緩まった後は、日は暖かく明るくなり、冬の間地中に籠もっていた草花は芽吹く。
人も冬を越せたことに安堵の息をつき、外の光を浴びようとして――
それを嘲笑うかのように、魔獣はやってくる。
幾重にも群れをなす魔獣たちが地を覆い、新たに育とうとする田畑が踏み躙られるその跋扈が、大体にして三十日ほど続く。
この時ばかりは、例え普段は村落で暮らしていたとしても、壁の中に籠もって過ごす。
育ちきっていない作物を、慌てて回収してだ。
それだから、春先に採れる野菜はあまりないし、あっても小ぶりなものばかりだ。
因みに楽団との休戦期間が切れるのも、この魔の月明けだ。
それ以降はいつどこに攻め込まれ、戦端が開かれるか分からない。
しかし魔の月の間は、魔獣の襲来によって大地がどうなるか、どこにどれほどの被害が出るか、こればかりは事前に読み切ることができない。
魔獣の虫の居所によっては、互いに内紛や復興に追われて戦どころではなくなることも起こり得る。
そういう場合はまた改めて休戦について交渉することになる。
各使徒家当主も、あらゆる場合に備えて各々の場所で待機している、もしくはこれからするはずであった。
だが暦よりも早く魔獣が来たとなれば、想定されていた日程もまるで違うものとなってしまう。
「本来は、魔の月に入る前に聖都にお戻り頂く予定でしたが……こうなると少々不穏です。
ここは大事を取って、是非こちらへお留まりになって下さい。
魔の月に入る故、その間豪奢な歓待はできませんが、可能な限り気を配ると当主様も仰っておりますので……」
「とんでもございません。
これから大変でしょうから、どうかお気遣いなく。
……お言葉に甘えます。
ご迷惑でしょうが宜しくお願い致します。
ウィザール様にも宜しくお伝え下さいませ。
私にできることがありましたら、遠慮なく仰って下さいますよう」
聖者の反応は静かなものだった。
家宰にただそれだけ告げて、深々と頭を下げた。
それからの十日ほど、月が変わるまでの日々は聖者に連れられて、街の人々に長期滞在の挨拶をして回ることになった。
住人たちは誰もがそれぞれ緊張や不安の浮かぶ顔をしていたが、聖者が滞在することに異存はないようだった。
寧ろ心強いと有難がる者が多かった。
当主を始めとする重鎮たちも事態の把握と対処、近隣住人への布告と収容などで、一気に多忙を極める日々に突入したようだった。
その手伝いも兼ねて、聖者も積極的に街に出て、住民の動揺や不安を鎮めるために励ましの言葉をかけて回った。
そうこうする間に外の事態に暦も追いつき、遂に魔の月を迎えた。




