漆黒の棺
「こうした曰く付きなので、誰かに見せるつもりはなかったのだが……
こちらの手違いで蔵から出してしまったらしい、申し訳ない」
ウィザールはそう言って、刺繍のされた手巾でこめかみの汗を拭う。
だが、それに一人が問いかけた。
「お話は分かりました。ですが聞く限り、見るだけならば無害なものなのでは?」
「ええ、開けようとさえしなければ問題はないはずです。ですが……」
「ならば、折角ですし見てみたいです。
曰く付きとは言え見事な細工物ですし……
こういう機会でなければ、見ることも叶わぬものでしょう?」
不気味さはあるが、それよりも好奇心が勝ったらしい。
そのような意見が多数を占めたので、そのまま鑑賞会が続けられた。
流石に誰も近づこうとはしないが、遠巻きにして物珍しげにしげしげと見物している。
けれど、シノレはそれどころではなかった。
(どうして?なんで――こんな、こんなもの、見たことは)
漆黒の櫃だった。
辺りに反射する光の全てを吸い込むように黒い。
磨き抜かれた黒い石――だろうか、詳しいことは良く分からない。
その上を覆っているのは、色とりどりの石が打ち込まれた、革の装飾だ。
それによって櫃全体が複雑な形に縛られ、雁字搦めのようになっている。
知らないもののはずだ。だけど。
(これは、棺だ――――)
目が離せない。釘付けになって、瞬きすらままならない。
心臓が激しく高鳴っている。体全体が、特に眼球が燃えるように熱い。
これは、これは、今まで感じたことのない――いや、違う。覚えがあるはずだ。
これは、聖者を初めて見た時の――咄嗟に隣の聖者を見やって、シノレはぎょっとした。
力の抜けた手から、食器が滑り落ちる。
それは床にぶつかり、高い音を鳴らした。
硬直したまま動かない手が、かたかたと細かく震えている。
青を通り越して真っ白な顔で、見開かれた目だけが爛々と輝いて。
(ああ、これは――初めて会った時の)
周りに大勢いた奴隷たちに目もくれず、ただ一人シノレだけを見ていた――
そして狂ったように駆け寄り、シノレを呼び寄せることに執心したあの目だ。
次に聖者が絞り出したのは、酷く掠れた、震えた声だった。
「すみません……少し、気分が。もう下がっても宜しいでしょうか」
「聖者様……誠に申し訳ない。
このようなものをお見せしてしまい、何か邪気に当てられでもしていたら、どう償いをすれば良いのか……」
「いえ、本当に……それのせいではないです。
胃の具合が良くないだけですので。
申し訳ありません、ウィザール様。どうか、お気になさらないで……」
そう返すのがやっとのようで、それきり聖者は苦しげに黙り込んだ。
放って置くわけにもいかないので、シノレも一緒に大広間を出ることにした。
ふらつく聖者を支えて、退出しようとした時だ。
「し、し、失礼致します――!!」
派手な音とともに、大広間に誰かが飛び込んできた。
身なりからして侍従のようだ。
この場に似つかわしくない蒼白な顔色と、慌ただしい挙動で広場に踏み入ってくる。
そんな彼に何事かという驚きや不審の視線が突き刺さる。
だが侍従はそのまま、人々の意識を覆す、全てを揺るがし得る異変を告げたのだった。
「北に大型の魔獣が現れました――大攻勢でございます!!」
馬鹿な、早すぎると。誰かが、掠れた声で呟いた。




