狼狽
(本当、教団は異世界だ……)
昨日の奴隷といい、ナグナといい、隣の男といい。
結局教団というところは、立場や血筋に死ぬまで縛り付けられるものの、そこから逸脱せず戒律を遵守する限りは教徒として庇護される。
そうした日常を送る教徒を守り、能う限りの静穏を与える。
教団は良くも悪くもその点に特化し、一貫しているのだろうと、それがシノレの結論だった。
ゆっくりと辺りを見渡してから、もう一度男を横目に見る。
昨夜は聖者の美しさを主題に一曲即興してみろとか無茶ぶりを言われていた。
奏でられた調べはそれは美麗なものだったが、どこがどう聖者の美しさに関わっているのかは分からなかった。
というか視覚的な美と音楽的な美は果たして結びつくのだろうか。
それとこれとは全くの別物としか思えないのだが。
「勇者様。どうでしょうか、このエルフェスは」
ぼんやりしていたところにそう聞かれて、つい驚いてしまう。
「はい、大変歓待して頂き恐縮です。
ウィリス様にご案内して頂くなど、身に余るほどのことと心得てございます」
「……そうですか?
何か足りないものやお気づきのことがあれば、気軽に仰って下さいね。
或いはウィリス様には言い辛いことでも、何かしら御力になれるかもしれませんから」
「まさか、この数日だけで、エルフェスが本当に豊かで平穏な街だと分かります。
それこそ……それこそまるで、楽園のように」
そう言いながら息をつく。
……こうしていても、町並みのどこにも陰りは感じられない。
見た目を取り繕えたとしても隠しきるのは難しい、饐えて病んだ暗い気配はどこからも臭ってこない。
代わりにあるのは健康な人間や動物の体臭、腐っていない食べ物や良く手入れされた植物の匂いだ。
その場所の本質を何よりも浮かび上がらせるのは、外観ではなく匂いだとシノレは思う。
「……勇者様は、楽団からいらした方とお聞きしております。
私はこの目ですので、人より物知らずでございますが、それでも環境が一気に激変したであろうことはお察しします。
或いは不運であったのかもしれませんが、教団を少しでも好いて頂ければと思うのです」
何を言っているのだろうかこの男は。
それが、真っ先に感じたことだった。
シノレは内心でかなり狼狽える。
そんな風に気にかけられたことはなかった。
楽団の奴隷風情が勿体なくも聖者様に拾い上げられたのだからありがたく思え、精々身の程を弁えろと、そう言われることが殆どだった。
直接言葉で言われたことは数え切れないし、無言の内にそう促されたことはもっとある。
「……はあ……そのお気持ちは、ありがたいですが。
本当に、不服などはありませんので。
というかその、余計なことでしょうが、不運などという言い回しは危ういのでは……」
「いえいえ、どのような形であれ変化は心に負荷をかけるもの。
ウィリス様も、そう仰っておいででしたよ。
……昨日、嫌なところを見せてしまったと。
あの方なりに気にしておられるようで、二日後のご出立までに、この街の美点を色々見せたいと言っておられましたよ」
当然のようにそう言われ、反応に困った。
そういうのは、どうにも腑に落ちない。
ウィリスとは三月前に会ったばかりで、まともに言葉を交わしたことすら殆どないのだ。
こういう対応をされても寧ろ身構えるし、警戒が沸き起こる。
構われるより放置される方が正直気楽なのだ。
(だって、価値観も感じ方も違いすぎるし。
何がきっかけでどんな不興を買うか分かったものじゃない……
でも、はっきりそう言うわけにもいかないよな。
……実際、悪意は無いんだろうし)




