ローゼ=ヴェンリル
窓の向こうで、月が天空へ上っていく。
その位置は観測し始めた時よりも大分高い。
月は昔から好きだった。
この輝きだけは何も変わらない。
殊に冬は格別だ。
冴え冴えと澄んだ冷気の粒に磨かれて、凍てつくほどに美しい。
冷たい風が吹き付けるのも構わず、窓を開けたままただその景色に見入っていた。
飽きもせず見ていると、やがて上空で風が吹いたようだ。
雲が流れ去り、煌々たる輝きが辺りを照らし出す。
「姉上。いつまでそうしているのですか」
ローゼ=ヴェンリルは窓辺に掛けたまま、優雅に振り向いた。
薄暗い視界の中、最初に目に入ったのは黒髪の男の姿だった。
その数歩先には痣と血に塗れ、腫れ上がった顔の男が転がっている。
端正な顔もこうなっては台無しだ。
まあ、元の顔がどんなものだったか良く覚えていないが。
家具は引っくり返され、床は踏み荒らされ、部屋全体酷い有り様だ。
何人かはもう立ち去ったようだが、辺りにはまだ数人残っている。
それを認めて、ゆっくりと一つ瞬きする。
気怠げな瞼が持ち上げられ、赤みの強い紫の瞳が光を弾く。
「…………あら。終わったの?」
真紅のドレスが月明かりに濡れて、血に似た色で艶めいている。
黒髪を解いたしどけない姿のままで、童女のように彼女は微笑んだ。
今の今まで背後で起きていることなど完全に忘れ去っていたという顔で笑う。
「一体どうしたの、ルーク。
会いに来てくれるのは嬉しいけれど、もう少し和やかに来て欲しかったわ」
それは言葉だけなら優しく親しげだが、その声音は空疎で乾ききったものだった。
相対する男の表情も、僅かも緩む様子はない。
「……どうしてこのようなことをなさるのです。
あの兄上を支えることもせず遊び歩いて、父親ほどの男に媚を売って。
姉上御自身が母上の名を更に貶めるなど、兄上がご覧になれば何と嘆かれるか……
姉上はこれが口惜しくはないのですか!?」
「いいえ、全く。
……そして貴方たちが何を目論もうと、私に関係のないことだわ」
そんな男の都合を押し付けてこないで欲しい。
今もこうして勝手に押しかけて暴れて、勝手なことを捲し立てておきながら、何故自分の主張だけは通ると思えるのか不思議だ。
身内であればこそ、あんな有り様を見たくもないのだ。
一切の人間性を手放し、最早兄とは呼べないものになったその姿を思い出し、初めて彼女の心に漣が立つ。
勝手に暴走して、勝手に玉砕して、巻き添えを被るこちらの身にもなって欲しい――などとはもう思わない。
そんな配慮が彼らにあったなら、こんなことにはならなかった。
「挙げ句、私が何と言われたと思います。
姉上は女郎同然の女だなどと愚弄されたのですよ!?
当主様のみならず聖都中の人間がそう噂しているなど、姉上には恥を知る心がないのですか!?」
「――――……」
夫でない者、妻でない者と情を通じることを禁じたのは、教祖ワーレンその人だ。
教団では複数の妻を囲うことが認められるが、逆に言えば妻たち以外と関係を持つことは許されない。
それは忌まわしい、穢らわしい罪である。
まして売春など論外だ。
そのような秩序の元育った教徒の女にとって、娼婦に喩えられることはこの上もない恥辱と言えた。
だがそれでも、ローゼは曖昧な笑みを崩さない。
反論もしない。
この弟にはどうせ、何を言っても無駄だからだ。
まだまだ何か言っているようだが、もうそれは彼女の中で意味を成さなかった。
(ほんとうに、愚かな子)
母を同じくする、彼女たち二人の長兄が生きながらにして死んだのはもう何年も前のことだ。
この弟は未だにその時のことを忘れられず、リゼルドを憎み続けている。
その様は傍から見ると馬鹿らしいものでしかない。
復讐に燃え、藻掻き奔走し――それがリゼルドの掌中でしかないのだと、何故気付かない。
けれど彼女にそれを指摘してやる義理はなかった。
必要以上に話したくない。
関わりたくもない。
面倒な物事は全て、何の跡を残すこともなく彼女の心を過ぎ去っていく。
それが最善なのだと気づいたのはいつだったか。
霞んだような時間が、形を留めずに流れていく。
(……お兄様は壊れてしまわれた。
当主様に罰せられて。
もう、何も元に戻りはしない)
当主様。
その言葉を浮かべるだけで、その姿を思い出すだけで、胸に冷たいものが染み渡る。
それは彼女にとっては遠く、それでいて圧倒的な恐怖の象徴だった。
兄の崩壊で、彼らの全ては崩れ去った。
九年前と、三年前の、忌まわしい二つの事件。
それによって母は首を吊り、兄は生きながら嬲り殺され、残された遺児たちも雁字搦めに囚われて最早逃れる術もない。
所詮勝敗など生まれた時から決していた。
彼らの全ては生まれながらに終わっていたのだ。
それに気づいてからというもの、彼女はただ死期を待つだけの日々を送ってきた。
弟も、それさえ悟れば楽になれるのにと、ふと憐れみが心を掠めた。
次に気づいた時、そこには誰もいなくなっていた。
差し込む月光の角度は更に傾き、室内を違う色に染めている。
一人になった部屋で真紅の裾を踊らせ、気絶した男を抱き上げる。
赤子にするように頭を抱きかかえ、頭を撫でて歌うように囁いた。
「……お可哀そうなデール様。
災難でしたわね。
けれどどうか安心してね。
大丈夫よ。私がついておりますわ」




