その5
錬成会も終わり、剣道部は総体へ向けて稽古に熱が入る。どの運動部も一生懸命なのは同じだが、剣道部は全国大会出場などぼ実績がある。だからこそ、自分たちもその高みへ行きたい、その思いでいっぱいだった。
そんな、ある日。水曜日の昼休みだった。
「あれ、川中。珍しいね」
「え、あ、今日は神谷が当番か」
先週のかっちゃんと同じく、この三年間、一度も図書室で姿を見たことのない川中がやってきた。とはいえ、川中は言動からみるに、家ではそれなりに読書家らしい。男子のほとんどに共通な「学校の昼休み=外で友達と遊ぶ時間」という考えなだけだろう。そうでなければ、数々の日本史関係マニアック知識は、どこから拝借してきたというのか。
川中は私が当番だと確認した後、室内をきょろきょろと見回した。やはり初来室のようだ。
本日、私は当番制の昼休みの貸出当番として、図書室の受付に座っていた。といっても、昼休みの図書室にはほとんど人が来ない。まず図書室に来る絶対数が少ないし、そのほとんどは放課後に余裕がある部類なので、ゆっくり放課後に来る。
また、来ても貸し借りの手続きだけするのが普通で、読むために残る生徒はゼロに等しい。なんといっても昼休みは三十分、さっさと借りて教室や家でゆっくり読んだほうが時間の有効利用だろう。実際、私もいつもそうしている。
「何借りるの? 大抵の本の場所は、すぐに分かるよ」
「いや、別に……」
「?」
あれ、これはもしや「一人で静かに読書したいから邪魔するな」というアレか。なんてこったい。せっかく役に立てると思ったんだが。
「あー、じゃあ、借りたい本が見つかったら言ってね。手続きするから」
「わかった」
それだけ言うと、川中は本棚のほうへ向かっていった。つられて視線を向けたけれど、川中は特に変わった様子もなく、適当に本棚から一冊抜出し、パラパラとめくって読み始めていた。
(あそこは日本史関係、さすが川中)
数字で表記される本の配列方法がわからず、いくつも並ぶ本棚の前でおろおろする人物も珍しくないのだが。この分では川中は、学校の図書室は初めてでも、市の図書館なんかは常連なのだろう。
(ははっ、おもしれー)
と川中観察を続けていたら、図書室にいた唯一の生徒が借りる手続きをしにやってきた。川中観察は当然、一時中断だ。
三年間、部活のほかにやってきたもう一つの仕事――図書委員としての活動は、大抵がこの手続きだ。本の後ろのカードと、クラス別に分けられたカードにサインをし、今日の日付と返還期限を書き込む。
この当番をさぼる奴もたまにいるので、その時は自分自身で受付に回り、勝手に手続したこともある。もちろん、さぼった奴は次の委員会でシメた。委員長は昼休みに暇つぶしという名の見回りに来てますよというお知らせつきで。
「はい、これで終わりです。期限は守ってください」
慣れたもので、クラスカードもどこにどのクラスがあるか体が覚えている。いちいち引き出しの番号を覗き込まなくても分かるようになった。これは結構便利だ。
この生徒が手続きを終えて教室に帰ると、残るは川中一人である。
どうしたかな、と思って先ほどまでいたところに目をやろうとして――。
「あのさ」
「わっ!?」
すぐ近く、というか斜め後ろに立たれて本当にびっくりした。思わず大声を出してしまったが、運よく図書室にはもう他の人がいない。
驚かれた川中も驚いたみたいだが、やはりいきなり後ろから声をかけた奴が悪いと思う。
「わ、悪い。だけど、ちょっと聞きたいことがあって」
「ああ、いやいや、こっちも大きい声出してごめん。で、何?」
「…………あの、その、次の土曜なんだけど」
「ああ、練習メニュー? それなら部室に」
「いや、そうじゃなくて」
「?」
いわゆる「ゆとり教育」が始まってから、土曜日は授業がなくなった。以前は土曜日が午前授業、そのあとは帰宅して昼食をとってから再登校して部活、という流れだったらしい。
だが、今は大会前を除き、土曜日は午前だけの練習だ。その代わり、日曜日は弁当持参で一日ぶっ続けで通し稽古である。たまに近くの学校と練習試合もする。
練習メニューは顧問の池原先生が考案してくださっている。が、どの部活でも同じく、担任も持っている先生はずっと部活にかかりきりになれない。そのため川中や私が練習メニューを先生からあずかり、それをもとに生徒だけで稽古を進めることも珍しくなかった。
だから今回も、てっきりその相談だと思ったのだが。土曜は池原先生不在のことが多く、いつも担任である池原先生から私が練習メニューを預かるのだ。
「いや、だから、その……」
「??? 川中、どうしたの。珍しいね、そんなにきれが悪いの。具合でも悪い?」
「……。ちが、う。大丈夫、そういうわけじゃないから。……あの、これ借りたい」
「う、うん。わかった」
三年間を経て、結構何でも言い合える仲になったと思っていたんだが。そこは男女、やはり言いにくいこともあるんだろうな。
(よし、この川中の様子はあとでかっちゃんに相談しておこう。川中もかっちゃんになら話すはず)
そう心の中で決定して、川中が差し出した本を手に取った。その本のタイトルを見て、おや、珍しいと思いながら。
「はい、期限までに返してね」
「おう。……なあ、神谷って毎週当番やってんの?」
「いや、違うよ。委員全員で昼休みと放課後のローテだから。私は第一週の水曜と、第二週の金曜の昼休みが当番。部活入ってる子少ないから、私は優先的に放課後はずれてる」
「そっか。じゃ、ありがと」
「はいよー」
そういって図書室を出て行った川中が借りた本は、夏目漱石の文学全集の一つ。『夢十夜』だった。
日本史、とはいっても明治維新以降の近代にはあまり興味を示していないようだったので、近代文学を借りた川中には驚いた。かっちゃんとのマニアックな話にも、戦国武将や平安時代の文学者なんかは出てきても、明治以降の人物はほとんどいなかったように思う。
もしかして明治以前はすでにコンプリートして、近代にも手を出し始めたんだろうか。
(……ありうる)
きっとさっきの相談は、やはり何か本のことだったんだろう。
だが、だがしかし。いくら読書好き仲間の私とはいえ、君らとは方向性が違うのであまり期待しないでください。というか無理だって。
そんなことを考えつつ、昼休みは過ぎていった。
その、放課後。
「おーい、かっちゃ~ん」
今は七月、だいぶ日が長い。六時に部活が終わり、道場の外に出てもまだ明るい。
私は今日の昼休みの真相を尋ねるため、早速かっちゃんに相談した。かっちゃんと私は途中まで帰り道が一緒――と言っても次の信号まで――なので、ちょっとした話をしたい時にはありがたい。
「お、どうしたの神谷」
「いや、それがさぁ……」
今日の昼休みの出来事。それをかっちゃんに相談した。出来るだけ客観的に、分かりやすく簡潔に。
「ってことで、川中に話聞いてみてくれない?」
「……。あのさ、それって……」
「?」
かっちゃんは非常に言いにくそうに、頭をボリボリ掻きながら言葉を続けた。
「一応、話は聞くよ。だから、ええと……。その、川中とか他の奴には、もう何も言わないほうがいいかと思う」
「そっか、下手に心配されたら、色々と恥ずかしいよね。分かった、あとはかっちゃんに任せる!」
「……。うん、まあ、頑張る」
どうも会話が噛み合っていない気がしたが、かっちゃんは信号を渡ってしまったので、もう会話を終えざるをえない。
だが、かっちゃんは川中と話をすると約束してくれた。かっちゃんは約束は必ず守るタイプなので、もう心配はいらないだろう。
(あー、いいことした~)
と、思うのだが。同時に、何か大きな間違いをしでかした気がしてならない。
しかし、それが何かはわからない。
結局、その日は帰ってから暫くは頭を悩ませることとなった。――が、当然、夕食によって頭からすっぽ抜けたのである。
この出来事を思い出すのは、本当に思いもよらない形であった。それは翌週の金曜日。市内の総合大会を翌日に控えた日のことである。
(ついに明日か、頑張んなきゃな~)
この日、図書委員の仕事も一段落する。一学期の貸し出しは今日が最後で来週は総点検、のち未返却の奴らに返却を促すフルコースをくらわせてから、楽しい楽しい夏休み、という運びだ。
そんな中、数人の利用者の中に、再び川中の姿があった。
「あれ、川中。本返しに来たの?」
「おう。……よろしく」
一瞬の、間。視線を図書室内に向けたのがわかった。受け付けは図書質の入口を入ってすぐ。必然的に、図書室全体を眺めようとすれば受付の前で、ということになる。
前回は図書室の概要を確認するためだとして、今日は何が気になったのだろうか。
(……まあ、いいや。とにかくさっさと手続きしちゃお)
そうだ、先週の水曜日、川中は何か気になることを言っていた。それが何なのかは忘れてしまったが、その日の帰り道、かっちゃんに相談したはず。あれから報告はないが、かっちゃんなら上手くやってくれたはずだ。
川中の思いもよらぬ来訪――まさかまた私の当番の日に来るとは思わず、思い出すべきではないことを思い出してしまった。思い出せば、どうしたって気になってしまう。
「はい、終わったよ。……ねぇ、川中」
「ん、ありがと。……何?」
一瞬、言わないほうがいいのかな――とも思った。確かかっちゃんも、川中にも言うな、と言っていた。
かっちゃんはまじめな奴だから、大抵の言うことは正しい。アドバイスはとても参考になる。だから普段は、かっちゃんの意見を取り入れる。
でも、今は。なぜか川中にあの事を聞きたくなった。
「この前、図書室で何か言いかけてたけど、あれは結局なんだったの?」
「うっ……。そ、それは」
「かっちゃんに相談したらさ、うまくやっとくから川中に聞くなって言われたんだけど、本人が目の前にいるんだし。やっぱり聞きたいなと思って」
「……」
「……」
数秒の、無言。
重苦しい空気というわけではなかったけれど、何とも表現しがたい状態であったことは確かだ。川中は「それ以上言うな」というのでもなく「きちんと聞き出してくれ」というわけでもない。本人も迷っている、そんな様子だった。
これは困る。非常に困る。鈍い私でも、この先の事態は簡単に予測できた。
私は元来、こういったことが得意ではない。お悩み相談なんて、むしろ苦手な部類だ。川中の悩みは、勉強だとか部活だとか、そんな単純なことではない。いわゆる人生相談――中学生なら、気になる女の子ができた、というのが妥当だろう。
(ちょっと待て待て、私に恋愛相談とか何をとち狂ったんだお前ぇええええええ!!)
心の中で絶叫しつつ、もう一度川中を見つめた。
確かに一番身近で気心知れている女子は私だろうが、その分、私が恋愛なんてものと縁遠いのもよく知っているはずだ。純情ボーイな川中はその子が好きすぎて、藁にもすがる思いなのだろうが、いかんせん、すがったのは藁どころか泥舟の縁だ。そのまま水底へ直行である。
「あのさ――」
やっぱり、いいよ。そう言おうとしたのに、川中は迷いを振り切ったらしい。試合直前に見せる独特の表情で、しっかりとこちらをみつめてきた。
(――あれ?)
その表情にのまれたのか、それは分からない。ただ、何も言葉を続けられなかった。
「……言うよ。あの時、俺は、神谷の土曜日の予定を聞こうと思ってたんだ」
「よ、予定? 何でまたそんなの。部活に決まってるじゃん」
予想とは少し違った切り口に驚いたが、その内容にも驚いた。川中は一緒に部活をしているのだ、終わりの時間も当然一緒である。それに、川中は私が習い事を一つもしていないのも知っている。前にその話をして「塾とかないのって楽でいいな」とぼやいたのだから。
では、なぜ?
「あの日は、先生の都合で少し早めに終わったろ。それは前から分かってたことだし……」
じ、と川中が図書室の受付を挟んだ場所から私を見つめてくる。受付という境があるのに、なぜかとても不安な気持ちになった。もっと近い距離にいたこともある。二人だけで話し合ったことも幾度とある。
なのに、なんで、いまさらこんなきもちになるの。
(ちょっと待ってよ。川中の相談事って、いや、話って、まさか……)
かっちゃん、何って言ってたっけ。そういえば、前に当番の日を話したな。だから川中、わざわざ最後の日に来たのかも。
馬鹿馬鹿しいほど、頭の中がクリアになっていく。心は置いてけぼりなのに、こういうときだけ頭が全速力でフル回転してしまう。
「だから、どこかに誘いたかった。……俺、神谷が好きだ」
川中が言葉を終えるのを待っていたかのように、昼休みの終了を告げるチャイムが、二人だけの図書室に大きく鳴り響いた。