日影
店内には、ゆったりとした曲調のジャズが流れている。曲名は『Dissenting Lover』だったか。真夏の、ビーチのそばのカフェで流れるには、いささか渋すぎるな、と美波はかたり、とシャーペンを置く。
首のこりを解すように、彼女はゆっくりと首を回す。止めた息を吐き出して、ふと左の席に目を流す。
丁度、目頭を抑えた海斗も同じように首を回していた。
道の駅。その海側に面したカフェ。窓際のカウンター数席と、2人席のテーブルがいくつか並ぶ、こじんまりとした静かなカフェ。冷房の効いた店内で薄い冊子を広げる2人のほかに、客はいない。
彼女はここで週末2日のシフトを入れていて、バイト以外では滅多に来ることは無い。むしろ、バイト仲間に私服で会いたくないので、来たくない、が正しい。
夜のバーで流れそうなこの曲の名前は、先輩に聞いた時に知ったものだ。今日は、誰かがプレイリストの選択にミスをしたのだろう。
このカフェは、夜にもっとも混む時間帯がやってくる。夕日の沈んでいく水平線を見遣りながら、コップの水に墨を垂らしたようにゆっくりと侵食する夜を、静かに楽しむのがこのカフェ一番のレビューポイント。
──この曲は、ムーディな夜に流れる曲だ。
「ね。真夏のお昼に、浜辺で遊ぶ人を見ながら宿題をするって、なかなか季節感がないと思うんだけど」
2人とも休憩に入ったことを感じ、各々ストレッチをしながら、彼女は語りかける。その視線は真っ直ぐに浜辺で遊ぶ、同学年くらいの数人の男女に向けられていた。
「乙なもんだろ」
そういう彼は、外壁に満遍なく水滴のついたグラスを指でなぞる。それから持ち上げて、中のアイスコーヒーを口に含んだ。ミルクもシュガーも入れないブラックは、彼の舌をしびれさせる。
そんな彼を横目に見ながら、彼女は嘆息する。それは、呆れよりも自嘲が多分に含まれ、思わず彼女は口元を抑えるように手を当てる。
「──。静かで人気の無い海で、そこで泳ごう」
「別に、上を着ていればここで構わないのだけれど」
「それでも、ジロジロ見られるのは、ヤだろ?」
ことりと彼がグラスを置くのを見て、それから自分のを取って、彼女は既に中身がないのに気づいた。行き場を失った手が、グラスの氷をからん、と鳴らす。
手を挙げて店員を呼び、アイスコーヒーを注文する。店の看板メニューの、モカやラテの書かれたページの底。目立たない位置に、申し訳程度に書かれた、デフォルトメニューの脇役。
「俺は、こういう、ちょっと違うだろ、っていうの、好きだからな」
天邪鬼だからさ、と彼は目を細めて頬をあげる。
その表情が、あまりにも眩しくて、思わず顔を背ける。彼女の目の中では、大学生くらいの男女4人が、真っ白なソフトクリームを片手に、パラソルの下で笑いあっている。
お待ちどお、とアイスコーヒーがテーブルに置かれる。名前は知らないが、大学生くらいの彼女は、私たちと同じように思えた。
受け取ったグラスで、四角い氷が鳴る。
「──外、出てみない?」
咄嗟に、開いた口からこぼれる。真っ黒な液体とともに飲み込んだはずの羨望は、いとも簡単に舞い戻る。
「おう」
それを知ってか知らずか、がた、と椅子を引きながら彼は答える。お互い同じ色をしたグラスを片手に、窓の外に見えるテラスへ向かう。パラソルはあれど、燃えるような暑さのそこでは、優雅に茶する猛者などいなかった。
突風対策のためか、その重厚なドアを押し、夏の熱気に体を晒す。両手を湿らせたグラスの水滴も、あっという間に乾き上がった。そうして、また湿って手を濡らす。
目の前の真っ青な海からは、想像したよりも涼しい風が吹く。潮の香り。砂を孕んだしょっぱい息吹は、2人にこれでもかとぶち当たる。
思わず顔を背け、細目に隣を見る。
彼も、同じようにこっちを見て、はにかんだ。
風に乗って、小さな子供と大きな大人と、豪快な男性と黄色い女性の声が、2人の間を通り過ぎる。
「夏だって、いろんな過ごし方があるさ」
プラスチックの細棒をくわえ、先程よりも甘く感じる黒い液体を飲む。同時に、苦い空気を吐き出して、彼は呟いた。
波打ち際で砂のお城を立てていた家族を見ていた彼女は、ちらとその優しい顔を盗む。
「...そうね」
心に強く残る表情とそれが重なり、頬を僅かに染めながら、彼女は頷く。
それに気づいたのか気づいてないのか。彼は一層笑みを深めて、半分ほど飲み干したグラスを掲げる。アイスコーヒーは、真っ白な太陽を通さない。乾いて、再び垂れ落ちる水滴を目で追いながら、彼は
「俺たちの夏は、俺たちで。ゆっくり探せばいいさ」
そう言って、笑った。
その笑顔にもう一度心を震わせて、彼女もグラスを掲げる。
もう、氷は溶けていた。