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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鈍色の棺桶

作者: マヨねーず

「亡くなったら俺は野晒しにされたい」

それは白が全てを覆い尽くす季節。静かに、だが止むことのない雪を物ともせずただひたすら地面に寝そべり埋もれながら彼はそう呟いた。凍てつく寒さは生きている証拠である温もりを確実に奪っているにも関わらず彼は無抵抗で雪に沈んでいる。起き上がる気力さえ湧かないのか、はたまた自らの意思で地に体を預けているのかは分からない。

昼とも夜とも言えない時刻、天と地の境界線のない雪原、死んでいるように生きている彼、全てが不安定だった。そしてどこか不気味だった。まさかここで死ぬ気なのだろうかとも思った。髪にまで白が被さって来た時にようやく私は彼の腕を掴み引っ張り上げた。

「風邪をひくぞ」

口実だ。どうしようもないでまかせだ。このだだっ広い空間で彼が消えてしまったら今ここで誰一人として私という存在を認識出来なくなる。それは死ぬことと同義だ。無名の私は誰の記憶にも残らないまま人知れず死んでしまう。誰にも気づかれず。ひっそりと。

私の思考は瞬間的に恐怖一色に塗り彩られた。私の背後を巣食う闇から無数の手が身体に伸びる。私は動くことが出来ず、出そうとした声は音となる前に死散した。蟲のごとく蠢き纏わりつくそれらは腕を、胸を、腹を、顔を、足をと少しずつ喰い潰していき、その度に私の身体が虚無へと徐に消える様が脳裏に浮かびあがった。

これは私が独りで、気分が滅入っている際に時折起こる幻視であり、子供時代から続く陳腐な妄想の産物に過ぎない。だがそれ故に一度意識してしまうと頭にこびりつきなかなか振り払うことが出来なかった。誰か、私を私として確実に認識してくれる誰かがいてようやく私は現実に帰ってくることが出来た。だから彼を起こしたのだ。我ながら狡く勝手な人間だとつくづく思う。

「野に晒されて亡くなりたいんだ」

私の浅ましい考えなど彼は露ほども知らず、起き上がり身体や銃についた雪を払いながら同じ言葉を吐いた。

「土葬じゃ不満か」

私がそう言うと彼は答えが返ってくると予想していなかったのか此方を不思議そうにまじまじと見つめてきたが、続きを催促するような反応を示すと再び虚空を見つめて話し始めた。

「土葬が嫌、というより……棺桶に入りたくないんだ。あの無機質な冷たい箱の中で形が残されるのが嫌なんだ。なんだか人として、生物として扱われている感じがしない。……地面の上でひっそり……うん、ひっそりと。死肉を食われ、蠅にたかられ、微生物に分解され、ぐちゃぐちゃになって、形を成さなくなって、時間をかけて朽ちていって。それで何も残さず自然に消えていきたい」

素晴らしい自然の摂理だろう?そう言って私に小さく笑いかけた。

普段の明るい彼とは打って変わってどこかセンチメンタルに思えた。果たしてその願いが本当に人間としての扱いに当たるのかは分からない。だがそれは彼にとって間違いなく人間としての死に方であり、裏も表も無い、ただの純粋な願いだった。

「じゃあ火葬も駄目だな」

「そうだなぁ、燃えても残るし。確かその後は壺に入れられるんだろう。それじゃあ同じだよ」

深い雪に脚を取られながら着実に歩みを進める。場所によって雪は我々の腰近くまで届く。降り注ぐ雪と相まって私たちの体温はがんがんと下がっていった。既に長靴の中には雪が入ってしまい、歩くたびに靴下から滲み出る水の何とも形容し難い気持ち悪さが身体を襲い、何度も身震いをしてしまう。

疲れを意識しないようにするため私達はその後も取り留めのない話を続けた。

身体中が濡れに濡れ、体温もすっかり奪われてしまった頃にようやく基地に辿り着いた。外の寒気より幾分はましな空気が私達を囲む。

上官に報告を済ませると、濡れた帽子と外套を脱ぎ、暖炉の近くに身を寄せた。柔らかな火の温もりはゆっくりではあるが私達の身体に色を戻していく。

しばらくして手のかじかみがとれると、私は鞄の中から酒瓶を取り出し口に含んだ。独特な薬草と香辛料の匂いが鼻腔をくすぐる。度数の高い酒が喉を焼き、その熱がじんわりと体の中を血液に乗って全身に巡っていく。安物だがそれでも私の頬に赤を帯びさせるには十分だった。

そうして一通り体温が上がるころには思考の方も少しばかり重力の枷が緩み、ふんわりと地上を浮いているかのような感覚に浸る。脳が焼けたような気分だ。こうなると傍らにつまみか誰か語らえる者が欲しいところだが、あいにくそんな贅沢は出来ないうえに周りの者は既に寝始めている。私の耳には寝息と燃える音しか入ってこない。

『人として、生物として扱われている感じがしない』

彼の口からあんな言葉が出てくるとは正直思いもしなかった。棺桶に死体を入れたら後はそのまま蓋を閉じて土に埋める、これが普通であり、違和感を覚えたことなんて無かった。人間として死ぬのが彼の望みであるとするのであれば、一体彼は何を持って人間として生きているとするのだろうか。死に方にもこだわりがあったりするのだろうか。

ふつふつと頭に面倒臭い疑問が浮かんでいく。周りが静かだとつい考え込んでしまうのだが、答えなんぞ出てこない。

ふと横を見ると、彼はベッドにも入らず床に寝転がっていた。いくら部屋が暖かいとは言え地べたで寝るのは頂けない。明日の訓練に支障をきたしてしまうだろう。私より一回りは大きい男を持ち上げるのには苦労したが、なんとか寝床に押し込むことができた。目を覚ましたら文句でも言ってやろうと思ったが、あまりにも気持ちよさそうに寝ている姿を見ると思わず笑みがこぼれてしまい、そんな気も失せてしまった。

……安らかだ。嗚呼、何て安らかな一時だろうか。如何なる脅威にも脅かされることの無い、まるでこの場だけが世界から切り離され孤立しているかのようだ。時の流れさえこの空間内では停滞しているという錯覚すら覚える。

いつかは此処も死人ばかりの巣窟に変わり果てるのだろうか。嫌悪感と猜疑心に苛まれ気狂いになってしまったりはしないだろうか。

いつまでもこの穏やかな時間が続けば良いのに、などと私はらしくもない現実逃避をしながら目蓋をゆるりと閉じた。



あれからおよそ一週間後、私は先の戦争に向けて健康診断を受けた。戦争が間近に控えている今、最後の確認が行われているのだ。これを受けなければ名簿表に名前が更新されず、死亡者扱いになってしまう。すると後に怪我をしても治療が受けられないのだ。結果としては問題なし。

部屋を出、時間を確認すると丁度お昼時であった。食堂に足を運ぶと私を待っていたのであろう彼が椅子に座りながら手をひらひらと振ってきた。彼の手元には既に昼食が用意されていたが、手を付けた様子は無い。私は急いで配膳皿を持って食事を貰いに行った。

私と同じ様に診断後に食事を始めようとする仲間が思いの外多く、席に戻る頃には折角の彼の食事は冷めてしまっていた。私は無言で彼の配膳皿と自分のを入れ替えると席に着いて生温いスープを一口飲んだ。彼が配膳皿を三度見程してきたが無視した。

「熱いのは苦手だ。お前が食え」

嗚呼、まずい。口の中がじゃりじゃりする。味覚の悦楽を虐殺する様な暴力的な味付けだ。口直しにと他のものも食べてみるがやはりおいしくなかった。そもそも出来立てでもおいしくないのだ。それが冷たくなったものなんて食えたモノじゃない。カロリー摂取以外なんの役割も持たない食事は味など二の次なのだ。蛍光ピンクのフードペーストじゃないだけまだマシと言ったところだろうか。

無言で胃にものを詰めていると彼が少し笑いながら自分の眉の辺りを指さしていた。どうやら無意識のうちに眉間に力を入れてしまっていたらしい。

彼はしばらくの間私の顔を見て笑っていた。少し腹が立ったので私はフォークでどろっとしたタレのついた冷たい野菜を突き刺すと彼の口に押し込んだ。甘んじて口に招きこんだそれを彼はしばらく咀嚼していたがみるみるうちに顔をしかめた。ざまあみろ。

「それにしても、これが最後の食事なんだなあ」

彼はどこか感慨深そうに呟く。そう、明日から戦地に移動をしなければならない。戦争が始まる。ここでの食事はその戦争が終わるまではおあずけとなるのだ。全くもって好きにはなれない代物ではあったが、何というか、奇妙な事に食べれなくなるのかと思うと少し寂しい様な気もしてくる。

「これが最後の晩餐だぞ。よぉーく、味わっておけ」

無意識の内に片側の口端が吊り上がる。自分の顔を見ることはできないが元来の人相の悪さも相まってすこぶる嫌見たらしい表情をしていることだろう。他の仲間が聞いたら怒ったり嫌な顔をするであろう発言とセットにすれば相当の煽り文句だ。

「えーこれが?だったらもっと豪勢なのが食べたいよ」

私の意に反して彼は些か的外れな返事をした。期待していた反応は無く、ただただいつも通りの彼であった。変わらない彼に少しばかりの安堵の気持ちと夥しい残念さを抱く。

「……お前、他にいう事は無かったのか」

「だっておいしくないし。それにお前の皮肉にはもう慣れたよ」

それは残念だ、と言って残りを口に入れる。何となく、自分の発言に沿うつもりは無かったのだが味わうようにゆっくり噛んだ。独特の臭みがそれを消そうとして消しきれなかった香辛料と混ざり鼻を抜けていく。土と鉄の味は口一杯に広がり、下処理をしたのかどうか、いや、きっとしてないであろう雑味と酷い舌触りとが相まって噎せそうになる。無理矢理飲み込むと喉の奥からはその臭いと味に酸味を付け足したような曖気が帰ってきた。まったく、食えたモノじゃあない。

砂糖増し増しの紅茶で口内の気持ち悪さを洗い流し一息つく。

「よくそんなの飲めるね。身体悪くなるよ」

普段の、私が自宅で暮らしている時なら脳天を貫かれていたであろう甘さを誇るそれは、今となっては支給される食事の中で唯一の娯楽と化していた。味が安定しているし、予想できるから口に入れるたびに嫌な思いをすることもない。

決して私は甘党ではない。糖尿病まっしぐらな代物だがこの雪原地帯の、あまり暖房機能が働いてない空間では必要不可欠なエネルギー源となる。実際私はあの幻覚癖があることを除いては全くもって健康なのだ。

「おあいにくだが、私は健康だ」

先刻の診断でもらった簡単に結果の書かれた紙を見せる。私の名前の欄の隣には異常なしの文字が記されているのだ。こんなものは実のところ気休め程度の役割しか持たないが、現に私は身体のどこも痛くないし、違和感も無い。

彼からは中々返事が返ってこなかった。目の前に突き出した紙を少しずらし顔を覗くと、彼は口を軽く開けていた。

「俺……忘れてた」

口の周りについた食べカスが彼の顔を見事な間抜け面に仕立て上げており、それがまた台詞に合っているものだから呆れよりも笑いが込み上げてくる。

「ごめんっ、行ってくる!」

慌てて立ち上がると足を絡れさせながら医務室に向かって走って行った。私は彼の配膳皿を自分のものに重ねると、茶色い砂糖水を飲み干して席を立った。



「あんな簡単なチェックで何が健康診断なんだろう」

診断を受け戻ってきた彼はそう言った。他の仲間も同じことを言っていたが、彼の場合どことなく不満気な口調だった。

「あれじゃあまるで機械の点検だ」

そう零すのも尤もだった。少し身体を触られた後身体を捻ったり回したりするよう言われる。簡単に検査機で体内を見て問題が無ければそれで終了。本当に、たったそれだけ。進歩した医学は私達の健康の為には使われない。

「大事なのは健康かどうかじゃなくて動くかどうかだからな」

実際のところ私が言った通りなのだ。吐きそうだろうが何だろうが動く事さえ出来ればいい。いや、むしろ病気で死にそうな奴は積極的に前線も前線に追いやられる。診断などただの確認に過ぎないのだ。足が無いなら腕を使え、腕が無いなら口を使え、動けないのなら盾となれ、それだけで役に立つ。そう言われるのだ。

「俺らは人間だ」

「ああそうだ。私達は人間だ。だが上の奴らにとったら幾らでも替えが利く駒だ。武器よりも価値の無い道具だ」

何ともないように言ったものの、私は年甲斐も無く自分に苛立ち、そして同時に悲しくなった。軍人となった時点で私の命は私のものではなくなっていた。私は国の道具になり下がり、私の体は消耗品になり下がり、私のものだった命は単なる動力源になり下がった。

医学は発達した。発達しすぎた。腕が千切れようが足が捥げようが心臓が止まろうが、脳さえ無事なら人間を簡単に直してしまう。肉体の神経と機械を繋げる技術。つまるところ人造人間だ。あらゆる分野の中で異常なまでに発達したそれは命の単価をほんの数万、武器よりも価値の低いものとした。

私はそれを理解している筈なのだ。が、現実として受け入れる事がどこか出来ていなかったようだ。身体を失い、作り変えられた私は私だと言えるのだろうか。私は自我を保ったままでいられるのだろうか。

こんな事を考えてしまうのは気付かない内に精神的にキているのだろう。死にたくない、そう言ってしまった時自分の身体は少し震えていた。

「冗談だ」

動揺を隠すように慌てて言い繕った。弱った自分を見せたくなかったのだ。普段と違う姿はそれだけで私という存在がぼやけ曖昧になってしまう。不確定要素など不要。真面目だが皮肉的でぶっきらぼう、それこそが私であり私を構成する要素なのだ。そうでない私は最早私とは言えない。

ちらりと窺うように横を見ると彼は泣きそうな表情をしていた。あまりにも酷い言い訳は彼には何の意味もなさなかったようだ。

居た堪れなくなった私は視線を逸らし、立ち去ろうとした。だが出来なかった。彼が私の腕を掴んできたのだ。何か言葉を掛けようとして出てこなかったのか口をまごつかせている。いつもの良く回る口は一体どこに行ってしまったのだろう。まるで目的地を見失った迷子のようだ。

「……手を離せ」

つとめて冷静に、されど口調からは怒気が滲み出た。自分のみっともない姿を晒し続けたくも、彼の見たこともない姿を見続けたくもなかった。脅す様な低い声を出したつもりだったが彼はものともせず、私を掴む腕には一層力がこもった。

「嫌だ、嫌なんだ!」

駄々をこねるような悲痛な声に思わず身が竦む。感情的ながらも真剣な眼差しが私の双眸を捕らえて離さなかった。

「俺だって……怖い」

その言葉が何故だかとても恐ろしく感ぜられた。私の意識を超え、心の奥底に隠された本心まで見透かされたかのようだった。彼は私が言いたくなかった事をいとも簡単に言ってのけた。だからこそそれがどれだけ勇気のいる事なのかが痛い程分かる。自分の恐怖を、弱みを相手に見せることの何と難しい事か。告白を誤った先に待っているのは臆病者の烙印を押されることだけだというのに。

「は、……はは。何だそれは」

私には無理だった。どうしても認めるわけにはいかないと虚勢を張ることしか出来なかった。暗にお前は弱虫だと言われているようで、脆い自尊心には到底敵うものではなかった。

「同情か?私に同情か?……同情のつもりか!?」

「違う!」

「じゃあ何だ!」

腕を振り上げ、彼の手から逃れる。こんな抵抗も八つ当たりまがいの発言も無意味なのは分かっていた。だが、せずにはいられなかった。この身から溢れんばかりの憤怒と悲哀の激情は私を壊しかねない。自分には手に負いかねる癇癪の様なものはこの状況下で苛烈になっていた。

「っ……てて」

水でも浴びたかのようにぐらぐらと熱された思考は急激に冷めた。力を入れ過ぎたせいで彼を床に倒してしまったのだ。当たり前だがこんなことをするつもりは毛頭なかった。

「すっ、すまん!」

流石にやり過ぎた。そう思い彼の方に近寄って手を差し出すと今度は両手で手首を掴まれた。腕に痛みが走る。

「違うんだ。俺は……俺が同情してもらいたいんだ」

先ほどとは違って静かな、搔き消えるような声だった。もはや腕を振り払う気にもならない。ただ黙って話を聞いた。

「俺はお前と違って弱いから恐怖を隠す事すらできない。怖いものは怖いんだ。まだ戦争は始まっていないっていうのにもう身体が震えてる。自分が情けないよ。……こんな俺を笑わないでくれ、ただただ可哀想なやつだと憐れんでくれ。馬鹿みたいな男がいたって覚えてくれる、それだけでいい。お願いだ、頼む」

それはただの懇願、呆れ返るほどの我儘だった。わざわざこんなことを口にする馬鹿な男なんぞ彼以外にはいないだろう。

「分かった」

だがどうにもそれを拒絶する気にはならなかった。同情せずにいられるだろうか、この憐れな男を。私の代弁者を。

存外甘いのかもしれない。身内贔屓と言われたらそれまでだが、我々は決して強くない。英雄足り得ない我々は心に少しでも安寧が無ければ生きていけないのだ。

私の言葉に彼の張り詰めた表情も和らいだ。彼の手をゆっくりと手首から外すと、薄っすらと形が残った。

「あのさ、我儘ついでにもう一個お願いしてもいいかな」

おずおずと少し申し訳なさそうな顔で言ってきた。

「なんだ」

「その……もし俺が亡くなったら俺の事はここで覚えていて欲しいんだ」

彼は私の頭を指差した。

とても簡単で、単純で、当たり前のことをお願いしてきたのだ。

「……そこは普通心臓じゃないのか」

私は彼の指を自分の心臓の方に向けた。大切なことは心に留めるようにする、というのはどんな話でもつきものだ。

しかし彼は軽く笑った後、首を振って再び私の頭に指を持っていった。

「だって心だなんて。そんな不確かなものは駄目だ。ちゃんと俺という人間を海馬に焼き付けてほしい」

私には彼の言葉の意図がよく分からなかった。どこで覚えていようが同じじゃないのか。それとも彼なりに何かしらの意味があるのだろうか。

「よく分からないが、そんなことでいいのなら」

「そんなこと、じゃないよ。大切なことなんだ。絶対に忘れるなよ」

何故彼がここまで念押しをするのかはよく分からないが、それが彼の願いなのであれば快く受け入れよう。

ここで一つ疑問が浮かんだ。

「私が死んだらお前はどうしてくれるんだ」

そう聞くと彼は顎に手を添え少し悩んだ。しばらく答えは返ってこなかったが、不意に顔を上げると名案とばかりにこちらを見た。

「お前がどんな人間だったかこと細かく本に書いて自費出版してやるよ」

「やめろ!」

「冗談だ。ちゃんと俺の脳に刻んでおいてやるさ」

どちらも『死なない』なんて希望的観測は口にしなかったが、それでも幾分は明るい雰囲気に包まれた。

 


この戦いははっきり言って酷かった。前線に居た私の近くで沢山の仲間の身体が爆ぜた。重機による弾丸の嵐は胴体部分を両断し、まるで一斉に腹這いになったのかと見紛うた。戦車は装甲が貫かれ、燃え盛る火の手から逃れようと開かれたハッチには手榴弾が投げ込まれた。恐怖で敵前逃亡した者は狙撃手に撃たれ、頭が割れた柘榴のように弾けた。機甲師団に追い回された者は次々と轢き殺され、そのあとには血と肉の通り道が出来上がった。敵陣に近づこうとした者はそのかいもなく遮蔽物ごと破砕された。

辺りには生臭い血や焼け焦げた肉、古いオイルや火薬の匂いが立ち込めた。生きていると思い掴んだ腕が胴体の重さでぷつりと千切れた事が何度も起きた。敵も味方も区別などあったものじゃない。

沢山の人間があっけなく死んだ。情けない事に私は仲間の身体に埋もれたお陰で生き残った。私は虫の様に無様に地べたに這いつくばることしか出来なかったのだ。

あちこちに傷を負ったものの何とか五体満足で残った私は負傷したり破損した仲間を基地まで連れ帰った。

「もう嫌だ。帰りたい帰りたい」

一人の仲間が腕のあった部分を押さえながらうわ言のように言った。目線は何処にも向いておらず、顔面は青を通り越して白くなっている。何度も身体が痙攣し、時には暴れるので非常に運ぶのに骨が折れた。身体に負傷が生じた者は皆壊れたラジオのように同じ言葉を吐き続けた。

嗚呼、何と人間の脆い事か。たった一度の戦争は、大量の金と国債で作り上げられた地獄は一瞬にして人間を溶かした。身体も心も破壊しつくしたのだ。図らずも神経をすり減らしていた私は口を開きかけたが、ずたずたの理性がそれを何とか押し留めた。

『戦争が終わるまで私達は死に続ける』

この言葉は事実だがそれ故にあまりにも残酷すぎる。

仲間を部屋に連れて行った後、私は彼の姿を探した。何時も隣にいる彼が居ないのは違和感があるのだ。基地の中を歩き回ったが何処にも彼は見つからなかった。嫌な予感を覚えながら私は医務室に向かった。死体の部屋と化したその部屋にもはや生者の居場所は無い。

入る事は憚られたので、少し扉を開けて中を覗いた。開けた瞬間に冷たく重たい空気が私を襲った。戦場と違い煙くはないが、代わりに噎せ返る程の血の匂いが充満していたのだ。

皆一様に頭以外がズタボロだった。中には肩から腰にかけて身体の半分が無くなっている者までいた。不思議と涙は出なかった。痛々しい、とかあんな状態でも連れて帰られるのか、とかその程度の感想しか出てこなかった。

何とも哀れな死体達。技術が進歩し、倫理が退化したこの時代では死体だって道具だ。壊れたのなら直せばいい、そんな理屈が簡単に通ってしまう。

喉から渇いた嗤い声が出た。きっといずれ私も仲間入りだ。

次の戦いまで時間があるとは言え明日からはこの基地も大半が死体でごった返し闊歩するだろう。兎にも角にも此度の戦いは終わった。それを理解すると一気に緊張の糸が切れた。眼の奥が痛むし頭痛もする。吐き気まで催してきた。私は怪我人や医療班の邪魔にならない場所まで移動した。

次の戦いまでに少しでも多く英気を養わなければならない。部屋には火を焚いていた筈だったがそれでも寒かった。安物のベッドの上で身体を抱き込み丸まるようにして眠りについた。



亡くなった仲間達の遺体は粗方壺や棺桶にしまわれた。数が少ない内に終えれるものは終えておこうという魂胆だ。

身元が分からない者は何人か一纏めで棺に入れられた。ほとんどの棺がそうだった。大半が頭を吹き飛ばされているのだから当たり前だ。

身元のわかる棺や壺には名前と階級が書かれ、その後全部一緒くたに基地の外に放置された。中に置いていても邪魔にしかならないし、後々埋めるには外の方が効率も良いのだろう。遺体の状態なんてどうでもいいらしい。

運び出した後私はボンヤリと棺や壺を眺めた。特に飾り気も無い、全く同じ見た目の鈍い色を放つ容れ物。私もいずれはこのどちらかに入る事になるのだろうか。        

彼の言葉を使うわけでは無いが確かにこれは人として扱われているようには思えない。要らないモノを、そう、物を片付けた、そんな風だった。

傍にいる仲間の誰かが讃美歌を歌い始めた。他の者も次々と続いた。周りを歌以外聞こえない、静寂と荘厳さのある空気が包んだ。

私は歌わなかった。この状況のチグハグさが可笑しくて歌う気にならなかった。無造作ながらに丁寧で、かと思えば粗雑な葬式紛いの稚拙な儀式。こんなやり方で一体誰の魂が慰められると言うのだろうか。

私は彼らから数歩離れてそれを眺め続けた。私が離れたことには誰一人として気づく事はなかった。



その後私は別の戦線へ向かったが、数ヶ月間膠着状態にあった。最初こそは撃ち合いがあったものの次第にお互いに銃も大砲も撃たない、そんな不毛な時間が続いた。明日にはまた決戦の火蓋が開かれるかも知れない、そう思う一方でまだ大丈夫だろうと楽観視する自分が居た。

塹壕では戦争中にも関わらず楽しげな声が響いた。時たま思い出したように塹壕から少しばかり顔を覗かせるが、敵戦地も動きに大した変わりが無かった。ここは近くに死体と血、薬莢が散らばっている以外は全くもって平和であった。

私達は静かに夜を過ごす度に涙し、無事に朝日を迎えることが出来る度に喜び合った。周りに散らばった屍までが陽の光に照らされ、まるで共にこの幸せを享受し祝福しているように思えた。奇妙な光景だが誰も疑問には思わなかった。

数週間後には一時的な不可侵条約による撤退が命令された。現場にいる私達にとっては遅過ぎる決定だった。



戻った基地は今までと違い薄ら寒く感じた。どちらかと言えば死体安置所と見紛う場所となった。文字通り此処は死体ばかりなのだ。生ける屍と動く死人。みな肉体が、若しくは精神が死んでいるのだ。よく笑う者はよく泣く者に、怒りっぽい者は無関心に、真面目な者は怠惰に、優しい者は気狂いになった。仲間は次々に存在を消してしまった。別人だったのだ。同じ顔をした他人が周りの環境を取り巻いていた。

私以外の皆が互いに互いを認識していた。違和感も抱かず受容しているのだ。何故だ?おかしいだろう。違う人間だぞ。全くの、赤の他人だ。どうして誰も疑問を抱かない?ぶわりと嫌な汗が身体中から溢れる。

「ふへへ……」

バッと後ろを振り返る。そこには別の部隊の仲間が立っていた。いつの間に背後にいたのだろう、全く気が付かなかった。

どことなく様子がおかしかった。私はこの男を知っている。無駄口をたたかない堅苦しい男だったはずだ。それがどうだ?立ち振る舞いはだらしなく、表情だっていつもの凛々しさが無い。

彼はこちらに近づいてきたが足元がおぼつかないのかふらふらだった。こけそうにさえなったので慌てて身体を支えようと近寄ると、肩を思い切り摑まれた。指が鎖骨の隙間に入り込み痛みが肩に走る。顔を私の至近距離に持ってき、じろじろと私を眺めたかと思えば急に高笑いを始めた。

「へへへへへひゃははは……おいおいおい、誰だ?お前は誰だ?俺?俺は誰だ。俺はお前か?まさか!じゃあ誰だ?私は何処から来た?お前はどこだ、何処にいる?私は此処だ。此処にいるぞ。私?知らん。俺は誰だ。……ふひゃひゃひゃひゃ」

狂っている!医務室の方から医者や仲間数人がやってきて彼を捕まえると、引きずって部屋に戻っていった。彼は無抵抗だった。痛む肩には摑まれた感触が残った。

背筋が凍った。あの男までもがこんな気狂いになってしまうのか。私はどうだ?私は私だ。私は正常だ。いつも通り真面目だが皮肉的でぶっきらぼうの私なのだ。それ以外の何者でもない。何も変わらない。何も変わっていない。おかしいのは周りだ。私ではない。私は正常だ。正常の筈なのだ。だが誰がそれを肯定してくれる?きっと仲間は私が私じゃなくなってもそれを何とも思わないだろう。気の狂った私を躊躇なく受け入れてくれることだろう。でもそれは私が存在していると言って良いのだろうか。……否、否!否!否!そんな私は私ではない!最早存在しない!死んだ!私は死んでしまったのだ!もう誰の目にも私は映らない!抜け殻だ。空っぽだ。私は側だけの物体と成り果ててしまったのだ。

「……ゔ……オ゛ェ……」

頭がぐるぐると回り、目が眩む。私は喉にきた酸味がこれ以上出てこないよう口を押さえ壁にしなだれかかった。

自室に戻ろう。兎に角落ち着かなければ。私は一人になりたかった。もう一度自分を見つめ直さなければならない。私には時間が必要だ。しかし現実は思うようには動いてくれなかった。

扉を開けた瞬間、目の前には彼が立っていた。一切の反応を示さない彼と異なり私は酷く動揺した。

「一体今まで何処にいたんだ⁉」

つい声を荒げてしまったが彼はそれを気にもせず、私の顔を一瞥した後ベッドに入った。

別人だ。私は瞬間的に悟った。あの無表情。彼は死んでしまったのだ。身体とともに心まであの戦場で壊されたのだ。

そう考えれば彼が今までいなかったのも当然だ。この数ヶ月間で欠けた身体に施術をして簡単なリハビリでもさせられていたのだろう。結果として再び動き回れるようになった彼は地獄に戻らされたのだ。

私に背を向けて寝始めた彼の首元には微かではあるが継跡があった。彼が人間ではなくなった証拠だ。不純物が混じった今、彼は朽ち果て自然に消えることが出来なくなった。自然の摂理から外されてしまったのだ。

静かになった部屋で私は一人その場に立ち尽くした。

ああ我らが神よ、どうして彼をお見捨てになられたのですか。



戦争が落ち着きを見せ始めた頃には医務室に置いてあった仲間達も次々と復帰した。変わってしまった仲間は多かったが、昔のまま変わらない仲間も少なからずおり、それが私に一定の平常心を与えていた。

やはり皆は別人の仲間を当たり前のように受け入れた。昔となんら変わりない対応だった。

仲間に諭され私もそれなりに努力をしてみた。彼と共に行動をし続け、出来る限り声を掛けた。朝は毎日挨拶と今日の予定を話した。昼には聞いた話や噂などを教えた。夜はその一日何があったのかを事細かく彼に語った。毎日毎日繰り返した。あまりに何も話さなかったのでもしかすると口がきけなくなってしまったのかも、と思い筆談も試みた。

結果として全て無駄だった。喋りはしないし反応もしない。ペンすら握ろうとしなかった。私以外の者が話しかけても意味は無く、ただ黙々と仕事をするだけだった。

ある程度の日数が経つと馬鹿らしくなり、話すのをやめた。しようがしまいが変わらない、壁に話しているのと同じだ。

次第に別行動も増えた。彼とは違う彼が近くにいるのが嫌になった。ヘソを曲げた子供みたいだとは思ったが、彼も特別私といようとは思っていないようだった。



二、三ヶ月程も経つと、私もようやく周りの環境に慣れ始めた。変わってしまった仲間を元からそんな人間だったと割り切るようにしたのだ。そうすると今までの悩みや苦労が嘘のように思えるほど円滑に会話ができるようになった。

残念ながら彼とは口を聞かない状態が続いていた。話す必要性を感じられなかった。彼は、そう、彼は元から無口な人間で朴念仁のような男だったのだ。そう考えるだけで私の精神的負担は驚くほど軽くなっていた。

「お前は相変わらず静かだな」

ほんの皮肉のつもりだった。彼はそういう人間なのだと自分に言い聞かせるとともにあてつけでもしてやろう、それだけの深い意味もない発言だったのだ。

大した反応は無く、強いて言うならば私を凝視してきたくらいでいつも通り無口だった。なんてつまらないんだ。私は彼を放って部屋を出た。私にだって仕事はある。ずっと彼にかまってはいられない。

手狭な倉庫にはいわゆる人造兵士達の身体の部品が多数保管されていた。腕、脚、胴体……これは心臓だろうか、中には何処のパーツなのかすら分からないものまであった。私は腕のパーツを拾い上げてじっくりと眺めてみた。まだ皮膚、というか表面が張られていない金属剥き出しの状態ではあるが、指や手首の関節の動きが非常に精巧なものだと素人目にもわかる。胴体だってそうだ。腰や背中の丸まりまで正確に再現されていた。心臓は……正直なところよく分からない。絵は見たことがあるが実物なんぞ見たことが無いし、もしかすると体内に埋め込む過程で実際の物と形や大きさを変えている可能性がある。

ここまで本物らしく作れるのであれば元からアンドロイド兵士でも造って、我々の代わりに戦場に送り込んでも良いのではないだろうか。人間を使い捨ての消耗品扱いするだけ倫理観の亡くなった世界で何をためらう必要があるのだろう。我々を死なす以上に大切な守るべきクソッたれルールがあるとでも言うのか。

怒りに任せて全部壊してやろうかと考えたが、すんでのところで自分を抑え込んだ。いくら武器より安いとは言え、大量に壊せば私の給料も首も軽く吹っ飛ぶ代物だ。

戸棚には瓶が多数あり、中には眼球のようなものが浮かんでいた。側となる部分だろうか。こんなものまで作れるのか。

色んなものを眺めながら倉庫の整理を進めていると、突然大きな音をたてて扉が開き、仲間が数名こちらに向かってきた。

「こんなところにいたのか⁉探したんだぞ!」

仲間たちは非常に焦った様子であった。息も切れており、必死で私を探していたことが分かる。

「一体どうしたっていうんだ」

「アイツが!」

「お前の同室者が自殺しようとしたんだ!」

その言葉を聞いた瞬間、私は走って部屋に向かっていた。

自殺だって⁉何で、急に、そんな事を!

今までそんな兆候は無かったし、素振りすら見せなかった。ずっと死ぬつもりでいたのならもっと前に自殺していただろう。ずっと私がそばにいたわけじゃない。タイミングなんていくらでもあった。それがどうして今になって。

部屋に着くと中には包帯で手首を巻かれている最中の彼がいた。よほど深く切ったのか包帯からは血が染み出ており、酷い出血だったことがうかがえる。怪我をしたのは右手だけかと思い左腕を見た時、思わず言葉を失った。皮膚の裂けた左手からはコードと金属が剥き出しになっていたのだ。先程倉庫で見たのと同じもの。大量に並べられた金属の塊、彼を構成する要素。彼が本当に生身の人間でなくなってしまった事実を思い切りぶつけられたかの様だった。

「何で……こんなことを」

私が震える手で腕を掴んだ。人の温もりを感じさせない無機物的な冷たさがあった。彼は私の言葉に反応し、大きく目を見開いて私を見た。

「忘れるな」

久方ぶりに彼が話した言葉だった。その言葉は私の心に突き刺った。恐怖を覚えたのだ。一体何を忘れているというのだ。何を覚えておけというのか。……忘れたらまた同じことを繰り返すつもりなのか。

私が気圧されてたじろぐと、彼は何事も無かったとでも言うようにまた黙りこくった。もう私を見なかった。何も見なかった。瞳には何も写っていなかった。

私以上に私の事を知っているかのような彼が気持ち悪く思えた。彼を見ていられなくなった私はトイレに駆け込んだ。個室に入りうずくまると、ドッと冷や汗が流れた。心臓が警告音を発するかのようにけたたましく鳴り響く。呼吸は浅くなり肩を大きく揺らした。腹部から喉にかけて酸味がせり上がってき、その場にぶち撒けた。何度も何度も、胃が空になるまで続けた。

あれは、あんなものは彼じゃない!彼はもっと無口で、反応なんか見せなくて、いや、彼はもっと表情が豊かな男で、あれ?死んだ顔をしているのが彼で、違う、よく喋ってた?分からない。彼の声も顔も思い出せない。いつも見ている筈なのに、さっき聞いた筈なのに。どんな顔をする男だった?どんな声だった?彼の言葉が脳に染みついて離れないのにどうしても分からない。

落ち着け。とにかく落ち着くんだ。震える身体を抱き込み何とか抑えようとすると、視界の端に黒い手が映り込んだ。また幻視が見え始めた。闇から伸びた無数の手が私の身体を蝕んでいく。

「やめろ……やめてくれ!」

声を振り絞って出すが黒の進行は止まらない。指から腕、爪先から腿と次第に感覚を失っていく。手が蛇のように私に纏わりつき、首元まで侵食してきた。剥がすように首を掻き毟るが意味など無い。手が顔まで上がってきた。心臓が痛い。細い糸で締め付けられているかのようだ。息も苦しい。視界がぼやく。前が見えない。何も見えない。暗い、怖い。誰か

私の意識は途絶えた。



気がつくと私はベッドで寝ていた。時計を見るとあれから二時間も経っていた。

身体に力を入れて何とか上体を起こす。手や足に感覚が戻っていた。あの幻覚は去ったようだ。

しばらくぼうっとしていると部屋の奥からドクターがやってきた。私が目を覚ましたことに気がつくと安堵した様子を見せた。

「いずれ君は体調を崩すだろうと思っていた」

どうやら前々から気にしてくれていたらしい。身体をドクターの方に向けると気付けにと酒を出してくれた。前に飲んだ安物の酒より上等な代物のはずだが、美味しいとはとても思えない。ドクターは私が酒を飲んだのを確認すると椅子をベッドに近づけて座った。

「さて、久し振りだね。何度か話すことはあったが、こうやって面と向かい合うのは十数年ぶりじゃあないかな」

「そう……ですね。最近は怪我の手当てぐらいでしかお会いしませんから」

どことなく居心地が悪かった。責められているわけでは無いはずなのに、追い詰められたかのような圧迫感が私を襲っていた。正直なところドクターと話すのは苦手だ。別段彼との間に何かしらの確執や問題があるわけではない。関係はむしろ良好と言ってもいい。私がまだ幼い頃からの付き合いであるし、今もなお続いている唯一の知り合いだ。

だからこそドクターと話す時、無意識のうちに彼に隠し事をしていないかと考えてしまう。罪悪感が湧いてくるのだ。それはきっと彼が私の保護者的立場にあるからだろう。

「こうやって見ると君も大きくなったね」

「……そうでしょうか。自分では分かりません」

「ああ、君のお父さんにそっくりだ」

ドクターは懐かしいものを見るような、そして少し悲しげな顔をした。

父親。ドクターの友人であり、私を男手一つで育ててくれた人。ずっと前に亡くなってしまったが、とても優しい人だった。負けず嫌いだが感情表現が豊かで、子供のように笑う人だったことは今でも覚えている。忙しいながらも何とか時間を作っては私の相手をしてくれたものだ。

父親との思い出は沢山ある。楽しいことも悲しいことも色んなことを一緒に経験した。だがそれらを思い出そうとすると決まって浮かんでくるのは父親との最期の日、私に一生消えない傷跡を残した日のことだった。

 


まだ十歳にもなっていなかったんじゃないだろうか。その日は父親と家にいた。

母親はいなかった。私を産んですぐに亡くなったそうだ。周りから揶揄されることも少なくはなかったが、そんなことを一度も気にしたことはない。私には父親がいるだけで十分だったのだ。無いものねだりをしたって仕方のないことだとも思っていた。今思えば昔から捻くれ者だったのかもしれない。

「お父さん、これはどこに置いたらいいの」

「ん?ああ、それは棚に戻してくれ」

父親との仲も良好だった。私のために時間を割いてくれるし、色んなことを教えてくれる。その日は部屋の掃除をしたり一緒にご飯を作ったりと何ら変哲もない、いつも通りの一日を過ごしていたのだ。

ガンッガンッ

突然ドアを激しく叩く音が部屋に響いた。壊さんとばかりの勢いに家からは軋むような音が聞こえた。

これだけでもただ事ではないが、次いで誰かの悲鳴が聞こえてきた。恐怖と絶望が混じった声だった。

「いいかい。お前はここに隠れるんだ。何があっても出てはいけないよ」

父親は瞬時に状況を理解すると、私の手を引いて物置部屋に行き、大きな収納箱の中に私を隠した。

「安心しなさい。お前だけは絶対に守るからな」

優しく私の頭を撫でた。お父さんはどうするの、なんて聞けなかった。そんな余裕がなかった。ただ私は黙って父親の言いつけに頷くと、狭く暗い空間で身体を丸めた。

父親が部屋を出た音のすぐ後、とうとう玄関のドアが壊された音が聞こえた。騒がしい声が次々と入ってくる。

「誰だ!なんだお前らは!」

父親の大きな声が箱に響いた。足音の主達は答えない。

「やめろ!近づくな!」

ものを殴る音が聞こえた。聞いたことのない呻き声の中で父親が懸命に抵抗し、戦う声が聞こえた。

お父さん頑張れ!そう願った瞬間、銃声が響いた。その一発を皮切りに、何発も発砲音が続いた。

「ウグッ……やめ……」

ギュッと耳を塞いだ。とても聞いてられない音だった。それでも隙間を縫うように伝わる暴音は私の頭にこびりついて離れなかった。やがて暴音は粘着質の音を帯び始める。

何分か何時間か、考えたくもないほどの時間が経つと、途端に建物を壊す音が聞こえ始めた。壁が剥がれ天井が落ちた。私の箱の上にも瓦礫がのし掛かり、壊れることはなかったものの、ひび割れて隙間が開いてしまった。心臓が飛び跳ねたが、瓦礫をどけてまで箱を開けようとする者はいなかった。

破壊音はそこら中から聞こえた。隙間から顔を覗くと見たことのない服を着た男達が家を、それどころか街を壊し歩いてるのが見えた。私達の家は跡形も無くなっていた。

銃を持って隣人を殺し、鈍器を持って建物を破壊し、火器を持って草木を燃やし尽くした。辺りは地獄と化し、この世の終わりのようだった。

泣き叫びたい気持ちを抑えて彼らが去るのをじっと待った。とにかく待った。いなくなるまで見たくないものを見続けた。隙間から入り込んだ熱風が顔に当たる。喉が渇きお腹も空いた。気がふれそうだったが、それでも見続けた。

壊せるものが全て壊されると、彼らはようやく立ち去った。外からは命からがら逃げ切った人達の声が聞こえ始める。しばらくすると救助と思われる声も聞こえた。

助かった。そう思って箱から出ようとするが開かない。上の瓦礫の重みで微動だにしないのだ。どんなに叩いても持ち上げても駄目だった。外に出れない。急に心細くなった。慌てて近くを通りがかった人に向かって助けを求めた。

「助けて下さい!誰か!出られないんです!」

空きっ腹に鞭打って腹の底から声を出したつもりだった。だが周りに未だに響く激しい音に、子供の声は掻き消えた。

すぐ目の前に人がいるのに誰も私を見つけてはくれなかった。誰もが私の前を通り過ぎて行くのだ。それが何よりも怖かった。私がいるのに誰も気づいてくれない。誰も認識してくれないのだ。私がまるでいないかのようだった。狭い箱の中では隙間が開けども私の声がよく響いた。外には一切伝わらなかった。

私が救助されたのはそれから二日後のことだった。どうやって見つけてくれたのか全く覚えていない。ただ独りじゃなくなったことが嬉しかった。



後から聞いた話によると、あの暴動は隣国が通告無しに攻めて来たことが原因だったようだ。国際法違反の暴虐に隣国は孤立し、周りの国を味方につけた母国によって簡単に地図上から消された。とても呆気なかった。

結果として村の多くの人があの地獄にトラウマを持った。私も心に障害を負った。だが私の場合、少し事情が違った。確かに父を失って悲しかった。殺されるかもしれない恐怖もあった。けれどもそれ以上にあの孤独の時間が恐ろしかった。短期間であったとしても、私がこの世から存在を抹消されたことが何よりも怖かった。

沢山の医者が私達のトラウマを治そうと躍起になってくれたが、私の対処に困ったようだった。当たり前だ。恐怖の対象が曖昧で、いつ突然発作を起こすのかが分からない上に治療もうまくいかない。身寄りもなくなっていた。厄介者の私は色んな場所をたらい回しにされた。最終的にドクターが者兼担当医として名乗り出て、私を引き取り保護してくれた。何年もかけじっくりと私の相手をしてくれたおかげで、成人する頃には私の幻覚も幾分はましになったのだった。



「大丈夫かい?……もしかして昔のことを思い出させてしまったかな」

ふと我に帰るとドクターが少し困り顔で私の様子を伺っていた。

「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていまして」

嘘は言っていない。ただドクターを心配させまいと返事を曖昧にした。だが私の性格を熟知しているドクターには通用せず、かえって不安げな顔をされてしまった。

「君は後悔しているかい?……その、お父さんのことを」

「……いえ、まさか。たとえ昔に戻れたとしても結局同じことを繰り返すだけです」

そう、私は後悔なんてしていない。きっと何度やり直すことが出来たとしても、父親は私を庇い死ぬだろう。多勢に無勢で呆気なく、何の甲斐もなく殺されるだろう。そんなことはとうの昔から分かっていた。

「ただ自分に失望したんです。幼く無力な私がいくら足掻こうともあの人は死んだでしょう。私には何も出来ない。無駄に死人が増えるだけ。多分、あれが最善の選択だったんです」

その事実が私の胸を抉った。後悔なんてする暇も権利も最初から与えられていなかったのだ。私は加害者にも偽善者にも決してなることのない、純然たる被害者でしかない。過去を悔いようが何をしようが結局私には全て無意味なのだ。

ドクターは黙って私を見つめた。そして目を瞑って少し経つと、立ち上がって奥の部屋に戻った。

数分後、コーヒーを持って戻ってきてくれた。

「私が言うのもなんだが、あまり過去に縛られない方がいい。どうせ切っても切れないんだ。わざわざ考える必要もない。……君に落ち度がないことなら尚更ね」

私は黙ったままコーヒーを口にした。渋めだが身体の全身が温もった。

過去に縛られるなと言われても、もしそれが私に落ち度があることなら?彼の事は未だに何が悪かったのか分からない。反省をしようにも出来ないのなら雁字搦めになるしかないだろう。

「彼との間に何かあったんだろう?思うことがあるのなら言ってみなさい。不安事はさっさと口にして吐いてしまうのが一番だ。……安心しなさい、ここには当分誰も入れない」

私は何も言わないつもりだった。いい歳した男が、国に従事する軍人が弱音を吐くだなんて。だがドクターは気付いていたようだ。私と彼に何があったのかを。その上で今まで黙っていてくれたのだ。そこまで気を回させてしまったのであれば何も言わずにはいられなかった。

「……彼はあの戦場で亡くなっておくべきだったんです。身体を失って、自我を失って、自分を失くしてまで生き続けるなんて残酷にもほどがあります」

自然に消えて亡くなりたいという彼の願いは木っ端微塵に壊された。人間だけに許された特権を戦争はいとも簡単に奪い去ったのだ。それでもなお彼は自由になることが出来ず、戦争に舞い戻らされた。

「ドクターは何故国が我々を人造人間にしてまで使い続けるのかご存知ですか?あれだけの技術があるのなら最初からアンドロイドでも造ってそれで戦えばいい。手間の掛かる手術とリハビリなんて施す意味は無いじゃないですか」

ドクターは苦痛を滲ませた顔で俯きながら首を振った。

「それでは駄目なんだ。我々は一種の抑止力のようなものだ。もし機械だけの戦争を始めてしまったら歯止めが効かなくなる。互いを破壊し続けるだろう。その後は?矛先は国民に向くだろう。……それでは罪の無い一般市民を巻き込んでしまう。被害を最低限に抑えるにはこれしかないんだ」

「はは……とんだクソッタレ倫理観ですね。私達を机上の駒程にも思ってない」

前線で戦っている我々はまさに使い捨てなのだ。申し訳程度の平和の為に沢山の仲間が死に散った。現場に来ないお偉いさん方はさぞかし面白がっていることだろう。金さえあれば彼らは大好きな戦争を延々と続けられるのだ。  

大事なのは人命であって道具じゃない。にもかかわらず彼らは人権派を自称しながら今日も我々を殺すのだ。

互いに沈黙が続いた。とても重い空気が漂った。鉛が圧し掛かっているのかと思うくらい苦しい時間だった。

「……分からないんです。何で彼が今更自傷行為なんてしたのか」

ぽつりぽつりと少しずつ話しを再開した。ゆっくりだったがドクターは頷いて聞いてくれた。

「彼に『忘れるな』って言われたんです。……確かに彼とは開戦前にお互いを覚えておくと約束しました。ですがそれは不可能なんです」

「どうしてだい。確かに開戦してから数年の月日は流れた。だが彼は君の親友で、いつも一緒にいただろう」

あの日から沢山の時間が流れた。彼と会うのをやめたと言えども他の仲間よりは接した時間が長い。だがそんな私だからこそ言える。彼は死んだ。もうかつての彼はいないのだ。

「彼は変わってしまったんです。元々はあんな廃人みたいじゃなかった。もっと喜怒哀楽に溢れた人間のはずだった。でもあれは、もはや別人だ」

「それでも彼は彼だろう」

「違うんです!」

叫びとともに涙が出てきた。とめどなく溢れ、拭いても拭いても流れ続けた。喉からは嗚咽が漏れ、話すのもやっとだった。私は耐えきれず顔を覆い、背中を丸めた。

「違うんです。彼はもう戦争で死んだんです。機械に自我が呑まれてしまっているんです。そうに決まっているんです。だって。そうじゃなかったら、そうじゃないのなら彼は一体どこに行ってしまったって言うんですか」

彼は、彼の心はもう壊れているのだ。もう私の記憶している彼とは違う人間の筈なのだ。そう思ったからこそ別人として接してきたと言うのに。彼がまだ生きているのだと言うのなら、私のあの発言のせいで彼は追い込まれたのだ。それでは私はただの畜生だ。

ドクターは私にティッシュを差し出してくれた。甘んじてそれを受け取り、私が落ち着きを取り戻すとドクターはカップを持って話し始めた。

「……コーヒーに自我があったなら、なんて話がある。このコーヒーはまごう事なくコーヒーだ。何も入っていないブラック」

ドクターはコーヒーを半分ほど飲み、減った中身が分かるように私に見せるとカップを机の上に置いた。

「ここにミルクを混ぜたら、どこまでコーヒーは自我を保てると思う?どこまでならそれはコーヒーと呼べるのだろうか?」

「……ドクターはテセウスの船の思考実験がお好きなのですか」

テセウスの船とはギリシャの伝説から挙げられた話だ。クレア島から帰ってきた船を保存したはいいが、時がたつにつれて木材がどんどん腐食してしまった。そのため繰り返し新しい木を継ぎ足して保存し続けた。何年も経って遂に全ての木材が置き換えられてしまったとき、その船がかつての船と同じといえるか否か、という問題だ。

「それと同じ話だ。結果として元のものとは違うように思えてくる。だがそれはあくまで考え方の違いなんだよ。構成するものが変わっただけで本質は一緒だ」

「もう彼は人間では……」

「いいかい。我々はコーヒーなんだ。量が減ってもミルクで補えてしまえる、そんな存在だ。腕や脚なんぞ今では消耗品に過ぎない。代替品なんてほんの数万、数十万で造れてしまう」

「……」

「だがコーヒーが入っているという事実が変わらないのと同様に私は私だ。君は君だし、彼は彼だ。それだけは変わらない。変わることはないんだ」

「ですが!実際問題彼は変わってしまったんです!」

どんなに時間をかけて話をしても昔の彼なんて片鱗も見せなかった。側が変わらなくたって中身はもう違う。私は見たのだ。彼の目を。かつての光も希望も、すべてを失った死んだ目だった。

「いいや、変わらない」

博士の口調は依然として力強いものだった。私を戒めるような目が私の双眸をとらえて離さなかった。

「君はまだ彼の本質、中身を知らないんだ。彼は本当に変わってしまったのかい?君は見たのか?シュレディンガーの猫が死んだとは限らない」

「ですがもう箱は空いてしまっているんです」

箱の中の猫が死んだのかどうかは箱を開けるまで分からない、つまりは中身を見るまで事象は確定していない、という話だ。

だがこれはもはや結果が分かってしまっている。箱には既に隙間が出来てしまっているのだ。

「箱の中の猫が横たわっているだけで死んだのかどうかなんて分からない。『忘れるな』と言われたんだろう。少しでも自分が消えないよう抵抗しているんだ。それは彼の中身は変わっていないという証拠だ。君を労っているんだよ。自傷行為も脳を無理矢理機械と繋げられ上手く思考できない上で、君の気を引くための手段だ」

目の奥が熱くなった。彼はもしかしたら生きているのかもしれない。必死に、たとえそれを表現することが出来なくなっていたとしても彼なりに生きているのだ。それを自分の身を呈してまで私に気付かせようとしてくれている。きっと彼だって自分の造られた身体なんぞ見たくなかっただろうに。あくまでもドクターの仮説に過ぎないが、それでも私に一条の光が差し込んだ。

「彼と、彼と今すぐに会わなければ。ああでも、何を話したらいいのか……」

「彼は君に自分のことを覚えてくれるようお願いしたんだろう?だったらそれに答えてあげなさい」

ドクターは優しく微笑んだ。私もつられて顔が綻んだ。心が軽くなった気分だ。私はもう迷わない。忘れない。彼に会おう。そして話すんだ。私のことを、彼のことを。



ドクターとの会話の後、部屋のスピーカーの電源が入った。たった今、講和条約が結ばれたと報告が入ったのだ。戦争が終わった。何の実りもない、多くを失っただけの戦いだった。

我々には束の間の休息が言い渡された。歓声が基地中に広がる。皆荷物をまとめると、終戦祝いの準備を始めた。

盛り上がっている仲間達を横目に、私は彼を連れ出して外に出た。本当はすぐにでも話そうと思ったが、勇気が湧かず、取り敢えず二人で偵察をした際の道を進んだ。あの日の様に突き刺すような寒さがあるものの雪はまだ降っておらず、とても歩きやすい道のりだった。

互いに何も話さなかった。話しかけづらかった。黙々と偵察の道のりを辿った。雪に埋もれていない景色はとても広大で私達は色んなものに目を奪われた。

基地の近くまで戻ってきた時、突然彼は足を止めた。少し距離はあるものの、視界にはあの棺桶が目に入った。そこでようやく勇気を奮って彼に話しかけた。

「知ってるか?土葬ってのは直接土の中に埋めるやり方もあるんだ。どこの国だったかは忘れたが、埋めた後に骨を掘り起こしてそれを一度洗ってまた埋め直すこともあるらしい。……ただ埋めただけじゃあ、死霊のままだから駄目だとかなんとか。確かそんな話だった筈だ。けど直接埋めるのが出来るのは一部の地域だけなんだ。なんでか分かるか?」

私の声に彼は少しだけこちらを見てすぐに視線を戻した。私の言葉を理解しているのかは分からないが、反応を示してくれる、それだけで私は嬉しくなった。

彼は口を開かない。私の問いかけにはどうやら答えてはくれないようだ。それでも立ち去ることは無く、話を聞こうとする意思が見られた。

私は地面を指差して話を続けた。

「土が違うんだ。乾いた土の下では白骨化するまで何年もかかる。たとえ骨だけになったとしても、酸性の土壌じゃない限り骨が分解されるまでまた途方も無い歳月が必要になるんだ。場合によったら骨は残り続けるし、酷い時には肉体まで腐食しない。……ここら辺は駄目だ。土は乾燥しているし冬は長い。気温も低いから何年かかっても遺体は残り続けるだろうな」

彼の傍まで近づき顔を覗いた。相変わらず無表情だ。私の方には顔を向けてはくれない。それでも良かった。彼が私の話に興味を持とうが持たまいが、私の気持ちさえ伝わればいいと考えた。

「『野晒しにされたい』。何年も前にお前が言った言葉だ。ちゃんと覚えてるんだぞ。正直お前があんな考えを持っていたなんて知らなかった。どこで、どんなふうに亡くなりたいかなんて考えたことが無かったからな。だから私も考えた。自分ならどんなふうに亡くなりたいか、あの日以来ずっと考えてきたんだ」

あの吹雪いた日の会話を思い出した。珍しく真面目で、どこか奇妙な会話。他の誰も知らない私達だけの過去。独特な死生観はなかなか理解できず、饒舌な彼の話半分に私は相槌を返すばかりだった。だが今は違う。今度は私が彼に聞いてもらう番だ。

「私はな、亡くなったら骨を砕いて散骨して欲しいんだ。心残りになる様な人もいないし、私のために墓参してくれる者も、まあ、いないだろうからな。……いや、ちがうな。如何でも良いんだ。実のところは。亡くなってしまったらもう私は存在しない。私という人間はいなくなるんだ。だったらただのカルシウムの塊が埋まった狭い場所に私の名前を刻む必要性は無いだろう?そこにあるのは私だった物であって、私ではないのだから。私では無い物が私の名前を冠して私として振る舞うのはちゃんちゃら可笑しな話だ。……ま、とは言ったものの私だった物が雑に扱われるのも気に食わない。頭も、顔も、胸も、腹も、腕も、手も、脚も、つま先も。脳に眼、五臓六腑、筋肉、骨、細胞の一つ一つに至るまで全てが私ではないが私の物だ。他の誰の物でもない、私だけの私だった物だ。だから、私はこの身を焼き尽くした後、散骨されて潔く消え去りたい」

お前はどうだ?そう言って彼を見た。底知れぬ永遠の無の様に、何もかもを削ぎ落とした顔。死んだ人間の、成れの果てを体現した男だ。これこそが、死にながらにして生きている男だ。

彼はやはり口を開かない。ただただ前だけを見つめていた。もう一度彼の視線に目を這わせると、棺桶を埋めるとこるだった。視界のギリギリにあった棺桶は私たちの丁度目の前で地面へと姿を消した。埋葬を見ていたのだ。彼はこの光景をどう思うのだろうか。この生死の離別の瞬間を。

どうあがいても彼は人間にはなれない。思考し、たとえ感情を持ったとしても彼にとって彼はもはや人間では無く、今の彼は私にとって彼では無い。きっと彼にとっても私にとっても彼は死んでしまっているのだ。彼は喋らない。もう何も感じないのだろうか。

頬に冷たい感触が伝わる。上を見上げると小さな雪がちらほらと降ってきた。白い季節がまたやってきた。じきにここら一帯が雪で埋もれる事だろう。

基地に戻ろう、そう考え踵を返した時ようやく彼は口を開いた。

「俺は……」

ほんの少し話すと彼は再び口を噤んだ。私は足を止め、喋るのを待った。何分でも何時間でも待とうと思った。鼓動が止めどなく高鳴り、胸の辺りが少しずつ苦しくなる。彼が話すのは何時ぶりだろう。言うべき言葉を思案しているのか口元を薄く開けている。

彼の沈黙が私には恐ろしく感ぜられた。彼は、彼たり得ない彼は一体何を語るのだろうか。私の話が彼に伝わったのかは分からない。その内容次第で私は心臓を掻き毟るほどの苦痛に永劫悩まされることだろう。私が嘆きの淵に落とされ一生を色の無い世界で生きなければならなくなるかは彼に懸かっていた。

「俺は、亡くなったら……野晒しにされたい」

ひゅっ、と喉の奥が鳴る。嗚呼、信じられない!神よ、我らが神よ!もしも貴方が本当に存在するのであれば、今この瞬間私は狂信者ファナシストにでもなりましょう!この絶望と安堵を同時に与える者は貴方をおいて他にそうはいまい!

「……土葬じゃ不満か」

自然に話せているだろうか。どこかおかしな点はあるまいか。もしかしたら声が震えているかもしれない。彼は私の方をちらりと一見し、視線を戻した。

「土葬が嫌、というより……棺桶に入りたくないんだ。あの無機質な冷たい箱の中で形が残されるのが嫌なんだ。なんだか人として、生物として扱われている感じがしない。……それに、直接埋められても、土の中だと形を保っちゃうんだろ?だったら、俺は地面の上でひっそり、……ひっそりと。死肉を食われ、蠅にたかられ、微生物に分解され、ぐちゃぐちゃになって、形を成さなくなって、時間をかけて朽ちていって。そして何も残さず自然に消えていきたい」

ああ、でも。

そう言って彼は自分の左手を見た。あの機械の左手を。生きた右手でなく、死した左手を。何の感情も示さない双眸で見つめた。

「これじゃあもう無理だ」

私は彼を抱きしめた。なんてむごいのだろう。どこまでも彼は人間的だった。彼の主義は死してなお、いや、死んでいなかったからこそ一貫していた。彼は彼たり得た。彼は彼として生きていたのだ。

涙が溢れた。生温い雫が頬を伝い、濡れた部分は風で冷たくなった。

言おう。言うんだ。たとえそれが彼の信条に反するものだとしても。たとえ彼自身が否定するものだとしても。私は、私だけは彼を肯定しなければならない。

「お前は……」

もう一度力強く抱きしめた。口に溜まった唾を思い切り飲み込む。喉が鳴り、肩が震えた。押し付けた耳元には心音の代わりにモーターの回転音が微かに入った。

「……お前は人間だよ」


【自分という個として生きる私と人間として生きたかった彼の死生観の話】

何をもって人間として生きているというのか。生死の基準とは何か、がテーマです。筆者は作中の「私」と同じく『自分というキャラクター性を持ち、一貫していること』が自分の存在を確立する要素だと考えています。


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