プロレスと最強伝説という名の呪い
今回はプロレスについて書いていきたいと思います。
プロレスについては空手なみに繊細な取り扱いが必要な案件です。
理由は日本のプロレスが有名になるにあたって背負った呪いというか宿命みたいなものです。そこらの日本のプロレスにおける出来事や事件を織り交ぜながら書いていきたいと思います。
まず、プロレスとはどういうルールか?プロレスには基本的には公式ルールというものが存在しません。これは格闘技としてはありえないくらいのビックりな事です。
唯一公式なルールを定めた団体としてはアメリカのWWEです。彼らは株式を上場した時にプロレスにシナリオがある事を業務内容として記載しました。情報公開が求められるアメリカならではですね。そして、2001年に日本でもとある人物が日本のプロレスにもシナリオがあるという本をだして関係者から大きな顰蹙を買いました。
作者を取材しようとした雑誌がプロレス団体から取材拒否をされるなどの事も起りました。
2001年といえば異種格闘技が総合格闘技へと生まれ変わりつつある時期です。1993年にはK-1とUFCの第1回大会も開催されています。それらの戦いを見た人にとってはプロレスが格闘Showであった事は簡単にわかりますし、それ以前にも競技としての武道、格闘技を嗜んだ人にとってはプロレスの不自然さは言わずともと言ったところです。
たしかにこの暴露本では言わなくてもいい事を言ったのは確かですが、日本プロレスの矛盾も最高に高まっていた時期でもありました。
その一方でアメリカではその手の事はあまり話題にあがりませんでした。アメリカのプロレスは公然のSHOWであり誰も真剣勝負としてそれを見ていません。
この奇妙な捩じれというか歪みはどのように生じたのでしょうか?
話はプロレスの最初期のヒーローである力道山までさかのぼります。
日本のプロレスが飛躍した要因としては力道山の存在がかかせません。ただ、彼の強さの幻想は木村政彦という史上最強と言われた柔道家でもあり武道家から半ば騙し打ちでもぎ取ったものなのです。
この両氏の間に起こったのが「昭和の巌流島」という事件です。事実をベースに述べると両者の間で取り決められていた試合の内容が片方が一方的に破棄したうえで真剣勝負を仕掛けて倒してしまったという事です。経緯はともかくとして日本の武道界、格闘技界の絶対的な存在であった木村政彦を倒した事はその後の力道山の飛躍につながります。
木村政彦は力道山に報復しなかったのでしょうか?結果としてはそういった事は行わずにプロレスから離れています。そして、晩年に「力道山は俺が呪い殺した」というコメントを残しています。これはオカルトではなく力道山とプロレスには木村政彦の呪いがかかりました。
呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。
と一般的に言われますが・・・木村の呪いというのはそんな生易しいものではなく、実害を持ってプロレスに襲いかかります。具体的には
・プロレス業界は事前に取り決めたルールを守らない。
・自身の名声や金のためなら仁義を無視する。
・メディアを使って情報工作をする。
というイメージが武道、格闘技界に広がってしまい断絶が起こってしまいました。
木村政彦がプロレスから不当な発言を受けたと関係者に発言する、復帰した柔道界にて不当な立場に甘んじ続ける事はプロレスにとって大きな災厄となり水面下で襲いかかっていたのです。これは武道や格闘技はどちらが強いかを一定の枠の中で正々堂々と戦って決めるというのが外せない原則です。プロレスはこの枠にないと自ら証明してしまったのです。
木村政彦について少しフォローをすると彼はブラジルで決闘じみた戦いをこの前に行っています。相手は何十年も後に有名になるグレーシー柔術のエリオ・グレーシーです。結果はエリオ・グレーシーの大敗で終わりますが・・・
晩年にエリオは「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家・木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っていまし、木村政彦も「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」と言っています。
結果はどうであれお互いに誇りと意地をかけてルールの枠の中で正々堂々戦う事の大切さと尊さを示しているエピソードだと思います。
なお、力道山については約10年後に飲み屋トラブルにて腹部をナイフで刺されそれが原因で死亡しています。性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかったと言われており、特にお酒が入った時にはさらに悪化したとの事です。それが原因でのトラブルなのは間違いないのですが、これに木村の呪いがどのように関係していたか・・・潜在的な恐怖を感じており飲まずにはおられなかったのかもしれません。
話を戻します。木村の呪いによりプロレスラーは柔道や空手などの競技を行う選手からは一段低くみられる存在となり、プロレスへの転向者は裏切りもの扱いされました。
力道山に続いてプロレスのスターとなったジャイアント馬場とアントニオ猪木についても武道、格闘技畑の出身ではなくて野球と陸上競技の選手です。唯一アマチュアレスリングがかろうじてその繋がりを保持していたくらいです。とはいえアマチュアレスリングは日本において競技人口が必ずしも多いスポーツではないので・・・
ここでプロレスの道は二つに分かれます。
プロレスはあくまでShowとして公言はしなかったもののアメリカの流れを引き継いだプロレスをおこなったのがジャイアント馬場です。
その一方で力道山の流れを引き継いだのはアントニオ猪木です。
両者ともに日本のプロレスが背負ってしまった業というか呪いについては理解していたのではないかと思います。そのためアントニオ猪木は異種格闘技という新たなプロレスラーが競技として戦えるジャンルを立ち上げます。
そして、行われたのがアントニオ猪木とボクシングのヘビー級チャンピオンであるモハメド・アリの間で行われた異種格闘技戦です。ルール決めや試合の様子などなどについては情報があふれているのであえて書きませんが、「昭和の巌流島」との違いは騙し打ちやシナリオのないきちんとした試合であったという事です。
力道山と木村政彦は戦いの後に断絶してしまいましたが、アントニオ猪木とモハメド・アリについては木村政彦とエリオ・グレーシーのように友情をはぐぐむ事ができました。アントニオ猪木の異種格闘技戦が真剣勝負であったかは諸説がありますが少なくともこの一戦については真剣勝負であったと思いますし、それが両者の友情につながったのだと思います。
この一戦をきっかけにアントニオ猪木の新日本プロレスはジャイアント馬場の全日本プロレスを超え業界の盟主となり、日本プロレス界のNO1として君臨します。
アントニオ猪木により日本のプロレスは呪いから解放されたかのように思えましたが・・・
その呪いはUWFという新たな団体の誕生という形で日本のプロレスに襲いかかります。UWFがどういった団体かというと、より実戦的な戦いを見せるプロレスです。真剣勝負であった異種格闘技戦をシナリオ有のプロレスにしたとも言えます。
UWFの本質が何を示すかというと・・・プロレスラーを食うプロレスラーです。アントニオ猪木の異種格闘技戦ではお金の力で他の競技の選手をつれてきてプロレスの踏み台にしたという面がなかったわけではありません。
プロレスラーを踏み台にする存在がプロレスの中から生まれたのです。このUWFに関連する一連の騒動については下火になりつつあったプロレスを盛り上げた面もあれば、プロレスの矛盾を明確にしてしまったという功罪があります。
プロレスラーを食う、プロレスラーとして有名なのが前田日明です。かれはUWFという団体をへて格闘プロレスともいえるリングスという団体を作ります。この団体の面白いところは格闘家、武道家が真剣に格闘Showをするという事です。
残念ながら総合格闘技が競技として成立するにあたって、その存在意義が揺らぎ、このジャンルは崩壊してしまいます。歴史にIFは禁物なのですがK-1の創設においての中心選手である佐竹雅昭がリングスに参戦しているのです。そして、前田日明は彼を自身の後継者にしたかったようです。
結果的には佐竹雅昭はK-1へ行ったのですが浪漫のある話です。
前田日明の集大成ともいえる試合はロシアのアマチュアレスリングの絶対的な元王者であるアレクサンダー・カレリンとの試合です。もちろんこれは真剣勝負ではなく格闘プロレスです。ただ、カレリンの凄さというのを前田は存分に引き出しました。
通常のプロレスでは受けを嫌い、自分ばかりが活躍しようとして必ずしもプロレスラーとして評価が高くない前田日明ですが、競技ベースで実力のある選手と格闘プロレスをやらしたの時には抜群のセンスを見せます。
まあ、正確には彼の行っていた格闘プロレスはプロレスではなくて道場やジムで行う、選手同士が盛り上がりながら行う組手やスパーリングみたいな感じで、競技者同士が行うエキシビジョンマッチのようなものですが・・・
その中で面白い行動をとったのが佐山聡という男です。彼は初代タイガーマスクの中に入っていた人として有名ですし、新日本プロレスに訪れていた道場やぶりに頻繁に対応していた人物です。彼は競技として真剣に異種格闘技を行おうとして団体を立ち上げます。そして、その団体は修斗というアマチュア総合格闘技団体として現在も活動しており、総合格闘技の土台を支える重要な存在になっています。
彼の面白いところとしては、そこまでやりながら再びプロレスラーとしてリングに戻ってきている事です。これはプロレスにかけられた呪いが完全に解けたことを意味するのではないかと思っています。
新日本プロレスはなんとかUWF騒動を納めますが・・・世の中はなかなか上手くいきません。UFCとK-1の誕生です。そして、初期のUFCにおいて最強と言われたのがグレーシー柔術です。このグレーシー柔術の登場は黒船とよばれ当時、頻繁に雑誌やメディアでとりあげられていました。
グレーシー柔術は木村政彦と死闘をおこなったエリオ・グレーシーが所属する流派です。グレーシーはアメリカ進出のためのプロモーションとしてほぼルール制限のない異種格闘技戦をアメリカで行います。これがUFCの第一回大会ジ・アルティメットです。
この流れをうける形で日本でも似たような大会である。VALE TUDO JAPAN OPENが開催されます。そしてかの有名な300戦無敗というキャッチコピーを持つ男、ヒクソン・グレーシーが来日します。初回及び2回目の戦いをヒクソン・グレーシーは圧倒的な強さで勝ち抜きます。当然、日本側も名乗りをあげて最強クラスの人間が格闘技界から挑戦したのですが敗北しました。
唯一と言ってもいい活躍を見せたのが七帝柔道出身で修斗に転向していた中井祐樹です。ただ、彼は2回目の大会に出場し日本格闘技界の底時からをみせつけたのですが・・・アクシデントにより片目を失明し現役を引退します。そのあとブラジリアン柔術の世界に入り日本の総合格闘技の普及におけるキーマンとなるのですから真剣勝負というのは面白いものです。
しかもこのVALE TUDO JAPAN OPENを開催したのは佐山聡が作った修斗ですし、彼もグレーシーの日本への招致に1枚噛んでいます。
このグレーシー柔術の登場及び総合格闘技の成立によりプロレスの最強幻想は完全に崩壊します。
木村政彦の病没が1993年で、UFCの第1回大会が1994年・・・木村のプロレスへの呪いは長い時を経て成就したとも言えます。やはり騙し打ちなんてするもんじゃないです。
もちろんプロレス側も一部の人達が最大限に抵抗しますが・・・すでにその人たちはプロレスラーとは呼べない存在でした。アントニオ猪木も前田日明が切り開いた格闘プロレスの道を追求し続けたのですが、前田日明は早期に格闘プロレスに見切りをつけて離脱、キモ入りで弟子となった小川直也も純プロレスをへて柔道界へ帰ってしまいました。
そして、50年の時を経てプロレスは純プロレスに回帰していきますが何処かマイナーな感じがぬぐえないままです。かつてキングオブスポーツを謡っていた華やかさはもうありません。その一方で呪いから解放されたためか、どこか牧歌的でのんびりとした雰囲気が漂っています。
逆に競技系の格闘イベントの方は真剣勝負がゆえに何かとピリピリ、ヒリヒリとした雰囲気がただよいます。試合を前哨戦として選手同士にアングルという煽り合いをいれた時なんかはギスギスしすぎて楽しめないケースや選手同士がガチ揉めだすなんて事も発生しています。
創作物においてのプロレスラーは非常に扱いにくい存在になっています。なろうてきな解釈ができないくらいに厳しい状態です・・・その穴を埋める存在として頻繁に出演するようになったのが筋肉大魔神であるボディビルダーです。
プロレスラーは体を見せるのが商売なのでボディビル式のトレーニングは当然やります。そして、多くの作品で登場したボディビルダーというのは昔の創作物にでていたプロレスラーに近い行動をとっている事が多いです。
これらの惨状を考えると・・・だまし討ちや背乗りなんてするもんじゃないですね。