ブルース・リーと未完の伝説
近代格闘技のカリスマといえばブルース・リーです。
氏は自身が有名になる手段として映画というものを使いました。この頃は総合格闘技とかなかったので、その選択自体は悪くはなかったのですが・・・それがゆえに虚実が入り混じっています。
また、非常に妄想力が高かった御仁のようですが大変な努力家で論理的な思考にも優れていたので妄想力が強さにつながった希少な例外です。そんな彼の一生をおいかけながら虚実について明らかにしていきたいと思います。
出生と体格について
氏は父親の中国系で広東演劇の役者とドイツ人・中国人のハーフの母親の間にアメリカで生まれ、香港で育ちました。実は氏は純粋なアジア人ではなくてドイツの血が入ったクォーターなのです。
氏は頭が小さく手足が長いアジア人離れしたかっこいい肉体や筋肉、身体能力は西洋の血に由来するところ大きいのではないかと思われます。この時点で不穏な空気がただよいますね。
氏の身長は諸説ありますが165cm~175cmと言われています。振り幅を考えてもあまり大柄とはいえないのですが・・・氏が生まれたのが1940年で成人して活動していた時期は平均身長が世界的に低いのです。日本人の統計データーでいえば1960年で162cm、2015年で172cmです。
この傾向は世界的にも同じなので、氏が活躍していた頃は今よりも10cmほど低いので周りと比べると小さいどころかアジア人の中では大男の部類であったと思われますし、西洋人の中に入っても体格的に見劣りしなかったと思います。
実際に「ドラゴンへの道」という映画のラストシーンでチャック・ノリスと戦うのですが体格的に特に見劣りしているようには見えません。映画の他のシーンでもよく見ると相手側がかなり小柄なケースが多いです。どうも意図的に映画の中で自分が小さく見えるように演出していたように見えます。
さて氏の体重についてですが・・・体重というのは強さを表す上では非常に重要なパラメーターです。最強の柔道家と言われた木村政彦が身長170cm、体重85kgで小柄ながも戦前は無差別級のみであった柔道で勝てたは天性の肉体的な素質もありますが一定以上の体重があったというのが大きいです。
小柄ながらも最強のボクサーと言われるマイク・タイソンは身長180cmの試合時の体重が96~100kgです。体重というのは強さを表すうえでは重要なパラメーターです。
ただ、体重というのはかなり変わります。ボディビルダーなどは筋肉の筋を魅せるためコンテスト時とオフで10kg以上変わるケースもあり、格闘技の減量でもそれくらい絞る人もいます。
どうしてこういう事をいうかというと80kgから60kgまで健康面に問題がない形で減量した人とナチュラルウェイトが60kgの人が戦うとパワー面では80kgの人が相当有利になるためです。ですので体重での強さを図る場合はナチュラルウェイトを考慮にいれる必要があります。
氏はボディビルに傾倒していたので撮影の時は筋肉の見栄のために、かなり減量していた可能性があるので映画での映像からナチュラルウェイトを割り出す事が難しい状態です。また、映画「燃えよドラゴン」の時は怪我でのトレーニング不足や体調不良で著しく体重が落ちていたそうです。私の推測では身長を170cmとすると70~80kgがナチュラルウェイトであったのではないかと思います。
氏が生きていた時代の平均身長が10cmほど現代のよりも低いので体格的にじゅうぶんヘビー級の中で戦えるものを持っていたのではないかと思います。また、西洋人の血が入ってるためパワーも十分どころからアジア系にしては破格ではなかったかと思います。
ここまで聞くとある人物とかぶります。ハンマー投げの室伏広治です。彼は身長187cm体重99kgと言われ、ハンマー投げのトップ選手の中では小柄でパワーに劣りますが日本人の中に入った時は規格外のパワーと瞬発力を持っています。
氏も当時の香港においては似たような状態ではなかったのではないかと推測しています。これは香港時代にボクシングの交流試合にでて身体能力のみで勝っている事からも裏付けられます。
氏のイメージといえば小柄で細身で筋肉質というイメージですが実際にところは西洋人のヘビー級に対抗できるだけの体格とパワーを持っていたと判断でき、技術的には優れていたのでしょうが・・・それもパワーありきだったという少し違った一面が見えます。
どのように最強幻想を作ったか。
氏は幼少のころには京劇役者と舞台にでたりしています。ジャッキー・チェンも実は京劇を教える学校に通っていましたし、香港カンフー映画の出演者は京劇出身者が多いです。よくわからないですが京劇というのは身体能力が必要なようです。
ある程度、成長してから氏は詠春拳葉問派宗師である葉問に弟子入りするというか、その素行の悪さから預けられたとも言われています。
葉問は失敗だったのかもしれません。氏はストリートファイトに傾倒していきます。日本でいうところの不良状態になってしまいました。氏の状況を懸念した両親はアメリカと香港の2重国籍であることを利用して強制的にアメリカの大学へ留学させます。
一説では当時の香港武術会は闇社会とのつながりが深くそれを懸念していたともいわれています。
氏が学んだ葉問派詠春拳といえば一般的には短打接近戦の徒手による格闘術体系と言われています。ぱっと間合いを詰めて連続で打撃を打ち付けながら一気に相手を制する感じです。現代格闘技のボクシングやキックボクシングにおけるインファイターのような戦い方です。
氏はアジア人の中では破格の体格と身体能力を持っていたのでこの技術体系とは相性が良かったと思われ、香港のストリートファイトではほぼ負けなしだったとの話もあります。私が思うに氏の戦いおけるスタイルは香港時代に形になりそれが原型になっているのではないかと思います。
さて、香港時代の氏の戦い方はどのようなものだったのでしょうか?手業についてはパンチ、裏拳、目つきなどなど、拳を握ったり、オープンで打つという葉問派詠春拳の技法を継承し、蹴りについては腰から上を蹴るのは実戦的ではないという事から前蹴りや横蹴りを使っていたように思います。
ただ、映画でよくやっていた相手に対して完全に半身になるカンフースタイルではなく、日本の古流空手のようなスタイルではなかったかと思います。素手、素足で相手を攻撃し制するという意味では葉問派詠春拳も古流空手も同じです。知識のある人がみれば大きく違うと言うでしょうが。一般人の目線での戦い方の印象についてはかなり似たような感じになります。
フルコンタクト空手の創立者である大山倍達先生もやはり似たような感じのスタイルです。この理由については簡単です・・・この頃は現代格闘技で有名なローキック、下段回し蹴りを初めとする回し蹴りの技術体系がなかったのです。
蹴りは横蹴りか前蹴り、素手での手業となると必然的に有効な戦い方は似たようになるのではないかと思います。両者とも目打ちといって裏拳から指を伸ばして目をうつ、フィンガージャブのようにバラ手から目を打つというところに異常な執着をみせていますし、突きの威力に拘ったのも一緒です。
ここで一つ疑問が生じます。中国武術といえば秘伝や奥義を秘匿する事で有名です。氏はどのような形で葉問派詠春拳のそれを学んだかという事です。
答えは簡単です葉問派詠春拳は葉問により秘伝や奥義を否定されており得意技や必殺技を重視する日本武道的な考え方に変わっていたのです。
葉問が弟子に対して日本武道との交流を禁じていたのはわりと有名な話なのですが・・・葉問は史実として彼の住んでいた地域は日本軍の占領を受けていたため日本武道と戦ったり交流した経験があり、そこらの体験がそういった指示に繋がっていたのではないかと思います。
詠春拳でも日本で起こった歴史が繰り返されます。秘伝もしくは奥義vs得意技、必殺技です。当然のごとく得意技、必殺技が勝ち、詠春拳といえば葉問派詠春拳を指すようになり、他の詠春拳は衰退、失伝していきます。
葉問派詠春拳が生き残れたのは日本武道の考え方を取り入れていたためですが、日本武道の考え方は技術体系だけでなく思想や社会システムを含めたうえでの仕組みです。
そのため限定的にしか取り入れなかった、取り込むことが無理だったのではないかと思います。これは柔道の創設者である嘉納治五郎先生が武道家というよりも政治家として優秀だったと言われる事からも政治や経済の部分については理解していないと無理だったと思います。詳細については私が書いた、その他エッセイの「柔道は何がすごかったのか?」を読んでいただければ幸いです。
それは氏に受け継がれ秘伝や奥義よりも得意技や必殺技を重視する日本武道的な考え方として継承されていると思います。日本武道界において実践的な達人であった大山倍達や塩田剛三、木村政彦についても同様の考え方で弟子に技術を微妙な形で伝えています。
これは得意技や必殺技というのは個人の資質にあわせて作るものなので伝えたくても伝える事ができず、自分で作るものという事が影響していると思います。
話を戻します。アメリカに渡った氏は経済的に非常に困窮していました。他人に武術の指導をした事がキッカケとなり道場を開きます。この道場が成功した事により経済的困窮を脱した氏はどん欲にさまざま事を吸収し強さを追求していきます。
氏が当初開いた道場の名前は「振藩國術館」と言います。どういった意味かはさておきとして中国拳法としての色合いが強い名前です。教えている事も詠春拳+αです。
あれ?ブルース・リーといえば截拳道じゃないの?と思った方はブルース・リーのフリークです。
時系列でいえば1961年に「振藩國術館」を開設、截拳道を名乗りだしたのが1966年です。この4年間は氏にとって最も激動の時代ではなかったのかと思います。
どうも氏は中国武術会からはあまり好かれていなかったようです。というか師匠の葉問と同じく日本武道的な得意技、必殺技を重視する考えだったので必然です。ただ、中国人以外のアメリカにいた人には氏の考え方は受け入れられるどころか逆に称賛されカリスマになっていきます。
空手が日本から上陸していましたし、南アジアの日本軍占領地域では強制的な近代化を行っていたため、アジア人には武道的な考えの方が受け入れらやすかったのだと思います。
大日本帝国が南アジアで行った近代化政策には当然武道も含まれており、南アジアの武術であるシラットを改良して近代シラットなるものを作っています。この近代シラットは南アジアの武術家から反発を受けたのですが・・・使ってみると近代シラットの方が優秀でいつの間にかそちらが主力になるというありさまです。
また、詠春拳にも問題がありました。接近戦での短打を優先する関係で才能がないと習得できないという問題がでたのだと思います。打撃を行う近代格闘技のインファイターといえばタフネスとパワー両立した人しかなれません。詠春拳の記述には精緻な技術なため習得が難しいと書かれているケースが多いと思います。私は身体的な才能がないと使えないの間違いではないかと思います。
そんなこんなで生まれたのがブルース・リーのイメージそのまんまである完全に半身になるカンフースタイルです。このカンフースタイルの特徴としては、目打ち、フィンガージャブなど手を握らずに速度を出す打撃、足刀をつかった下段へのコンパクトで早いストッピングです。
この手の攻撃は速度はありますが威力がありません。それを補うために打撃、投げ、関節を組み合せだしました。特にこだわりを見せたのは踏みつけです。基本的に打撃は水平方向に打つので体重を乗せるのが難しいです。
これを45°や90°角度で地面に対して行うと勝手に体重がのるので威力がでます。これなら才能のない人でも威力をだす事ができます。
氏が截拳道を名乗ったは1966年で亡くなったのは1973年です。映画スターという名声を加えたしても、これだけ短い期間で作られたものが現代までも残っているのは凄い事です。しかも氏は最も大事な要素である試合ルールを定めないまま未完成の状態にも関わらずです。
現代では多くの中国拳法が実利のある戦闘術というよりは芸術としての面でしか生き残れないのに対して截拳道は実戦武術として、生き残っています。
こういったカンフースタイルを氏が使っていたかというと・・・私は使っていなかったと思います。氏が自身の技術としてこだわったのは打撃の威力です。ようは単純な突き蹴りの威力をあらゆる鍛錬を使ってあげる事に拘っていたと私は推測しています。
簡単に一発殴る、蹴るすれば相手は倒れて、自分が勝つ。こればブルース・リー個人としての鍛錬目標ではなかったのかと思います。その一環としてウェイトトレーニングに過度に傾倒しています。そして、これは当時の強いと言われた日本武道の達人達も同じです。
氏の突き、蹴りの威力とスピードについてはさまざまな逸話が残っています。弟子には初手を取りやすく、覚えやすい技術を教え、それを使って作った隙にこれまた威力がでやすく覚えやす技術教えていく、自身については必殺技、得意技として単純な突き蹴りを追求していく・・・これに加えて防具やミットを使った実際に攻撃を当てる、自由攻防を重視しました。
こういった形で氏は自身のイメージと共に最強幻想を作り上げていきました。
残念ながらブルース・リーに不幸が訪れます。これは氏の置かれている状況を考えると回避する事ができない事だったのかもしれません。
それはウェイトトレーニング中の怪我です。この怪我により氏は半身不随一歩手前までいきます。怪我をした個所は背中とも腰ともいわれています。ただ、長期にわたって入院したのは確かです。
氏が不幸であったのは中国拳法という環境があまりにも悪かった事だと思います。中国拳法家の中には氏のライバルになれる存在もいませんし、満足な師匠にも葉問以降は出会っていません。先進的な日本武道と交われば中国拳法ではなく日本武道となってしまう。
そういったジレンマがこの怪我の根底にあるのではないかと思います。
氏と同年代の日本武道の達人というのは恵まれています。
極真空手の大山倍達にはちゃんと空手の師匠がいますし、ウェイトトレーニングは若木竹丸という伝説の人物に教えてもらっています。木村政彦についても師匠がおりライバルが多数です。講道館という練習の場で多くの人と戦いその強さに磨きをかけました。
少林寺拳法を作った宗道臣にしても本人も強かったでしょうが、強い高弟が何人も生まれ彼を支えてくれました。また、日本武道は国や社会が武道を支えるという経済的な仕組みもあります。
中国拳法を背負い、幻想の崩壊に怯えながら狂気じみた鍛錬を行いながら戦う孤独な男・・・ブルース・リーにはそういった側面があります。逆にいえば、そういう不利な状況でもがき続けた事がに彼の魅力につながったのかも知れません。
ただ残念な事に氏の武術家、格闘家としての命運はこの怪我にて尽きてしまいました。
そして未完の伝説へ
上記のように書きましたがブルース・リーの伝説のいくつかはすでに完成しています。
まずは映画スターとしてのブルース・リー。これは伝説的なヒット作品を1本作りそれが不朽の名作とともいえるできですし、それ以後のアクション映画に与えた影響は極めて大きいです。
作品数が少ない状態で終わったのは残念ですが伝説としては完結していると思います。
続いて格闘家、武術家としてのブルースです。
これも完結しています。彼は怪我により全盛期を過ぎていたからです。その一方で数多くの演武の映像やそれを目にした人が多くいます。
残念ながら近代格闘技においては身体能力の低下による引退というのは避けれない事実です。変わりに実績という記録が残り、その功績が称えられます。
氏の伝説で未完となったのは截拳道についてです。怪我をしてから氏は香港へ再び舞い戻り映画の世界に傾倒していきます。まるで生き急ぐのごとく映画という世界を走り抜けました。
実際に自分の実力が落ち、近い将来は戦えなくなることを知っていたかのごとくです。それが彼の映画での伝説に繋がりましたが・・・氏が作った截拳道を飛躍させる意味では悪い方向に働きました。
一言でいうと截拳道は底が浅い武道なのです。近代格闘技の特徴としては人に公開する形で試合や演武を行い評価をつけてもらう事です。そして〇〇道となるのなら、この仕組みは必須です。ブルース・リー個人としては、その発言の場として映画を選んだ事というのは悪い選択ではなかったと思いますが、夭折に伴い個人的な活動で終わってしまったのです。
映画の世界に氏の弟子が登場するくらいまで生きていればよかったのですが・・・
また、外部から見た時に截拳道ではどういったものかが、氏の映画と組み合わさりよくわからないものになっています。
その一方で体系化に成功した分野もあります。
それはトラッキングという技術です。
裏拳から手を開いて打つ目打ち、指で相手の眼をつくビルジーやフィンガージャブなどの拳を握らない打撃と拳を握りこんで行う通常の打撃を組み合わせて約束組手で学んでいきます。
実は空手にもこういった技がありますが、伝統派空手成立時に試合に取り込む事は行いませんでした。この技術を再構成したのは凄い事だと思います。
その一方でこの技術を試合化する事ができませんでした。また、トラッキング後に他の技にどのようにつなぎ相手を倒す事もハッキリしないというか個人差や状況による変化が大きいという事でキッチリと体系化、試合化できませんでした。
截拳道は底が浅い武道といったのは試合によるフィードバックがなく繰り返し研鑽による技術の深みにかけるからです。合気道や軍隊格闘技も試合をやらないじゃないと言われますが合気道は演武を試合の替わりにやりますし、軍隊格闘技は実戦が極めて近いところにあるので試合がなくても使ってどう?というフィードバックを受ける事ができます。
これに先進国では世の中が平和になり素手での闘争が減る、途上国では非正規戦闘が増えた事により氏の想定していた世の中と流れが変わり実戦の経験を積む事もできなくなりました。
実際に今の截拳道は創設者であるブルース・リーの模倣にとらわれています。逆に極真空手などは試合をルールを設けた事により大山倍達が初期に道場で行っていた組手とはまったく別モノになり、試合に特化した達人が生まれています。合気道についても試合は行いませんが演武を人に公開する形で行いますので演武として独自の世界を構築しました。
こういった状況を氏は想定していなかったのでしょうか?もちろん想定していたと思いますし、さまざまな防具を試し試合のプランを幾つか考えていたと思います。ただ、想定できなかったのは自身が夭折してしまう事・・・これは仕方がない事とはいえ非常に残念です。
氏がせめてもう10年生きていたら・・・武道、格闘技の世界は今とは違ったものになったのは確実な事だと思います。特に中国武術はまったく別モノになったでしょう。
最後になろう的な評価ですが・・・ブルース・リーも截拳道も素材としてはダメダメです。
氏については個性が強すぎます。事実は小説より奇なりを地でいく人物なので創作物を表現しようにもパクリや劣化になってしまうからです。截拳道については氏の模倣としてだすにはよいですが截拳道らしさをだそうとすると、実戦よりの武術のためバリエーションに乏しい、試合がないので個性的な個人が作った必殺技、得意技の情報がないという状態になります。
とある商業作家は別の武道を学んでいる人間がブルース・リー好きで氏の動きを真似をするというウルトラCの設定でアクションを表現していました。
でわでわこの辺りで。