武術と武道の違い
武術と武道の違いは何か?
世間一般では武道はスポーツ、武術は命のやり取りで、いわゆる制限なしの戦いをやると武術の方が強いという風潮ですが実際はどうなのでしょうか?
それでは本文に入りたいと思います。
厳密には武術いわゆる武道登場以前の古武術とよばれるものと武道の大きな差は「再現性」を重視するかしないかです。
武術から武道への切り替わりは柔道の誕生により明確化しましたが、柔道誕生以前から緩やかに始まっていました。それを象徴するのが試合や乱取り、組手といった自由稽古です。
この自由稽古にて何度も何度も使えると思われる技を練習して覚えていくのですが・・・その一方で古武術と言われるカテゴリーの技術体系には「奥義」とか「秘伝」といった隠し隠匿された技術に対しての多くのエピソードがあります。
柔道誕生から始まった武道の成立においては、この「奥義」とか「秘伝」とかいったものは完全否定されています。むしろ、試合といった共通の条件で数多くあるこれが使えるかどうかを検証しました。
実際のところ柔道が起こした武道革命により、多くの「奥義」や「秘伝」が使えない技術と判断され失伝しました。ただ、本当に使える本物というのは意外と少ないもので・・・使えない微妙技術を有難たがって隠していたいうケースがほとんではないかと思います。
ここらあたりは嘉納治五郎が起こした講道館柔道に対して武徳会柔道、別名:寝技柔道といって講道館以外の柔術諸流派がおこした戦前に存在したもう一つの柔道や中国拳法の近代化や技術の流れをたどっていくと上記が納得でき、面白い情報が得る事ができます。
ちなみに寝技柔道については戦前の日本で衰退しましたがブラジルで生き残っており、アメリカでのブームを介してブラジリアン柔術として日本へ逆輸入されました。
「奥義」や「秘伝」は武道において完全になくなったかというとそうではありません。
武道ではそれらの替わりに「必殺技」や「得意技」といったものが生まれました。
いわゆる特定の条件を満たした人のみが使える技です。
「奥義」とか「秘伝」の本質とは何か?それは「初見殺し」です。
相手にとってしらない技は非常に効果が大きいです。相手を壊す、殺す事を主眼におくなら、有用な技術は秘匿しておき、ここぞというタイミングで使うのが効果的なためです。その一方で秘匿してしまったがゆえに時代が変化して使えなくなっていたとか、実はたいした技術ではなかったという問題もはらんでいます。
それに対して「必殺技」や「得意技」の本質は何かというと、その人だけ使える特殊な技術で他人が真似できない事が前提になります。そして、使えるを知っていても相手はそれを防ぐ事が困難です。
すくなくとも他人から見て特定の技を「必殺技」や「得意技」と思えるレベルにした人の場合は極めて強力な技術です。
その一方で試合という安全性が確保された状態でないとこの技術を練り上げる事は困難という別の側面や「必殺技」や「得意技」を習得できなかった武道家は強いのか?という問題もあります。
ですので武術vs武道は「奥義」「秘伝」vs「必殺技」「得意技」とも言えます。
どちらが強いかについては試合については「必殺技」「得意技」です。「奥義」「秘伝」は下手をすると試合のルールに違反して負けてしまう可能性すらあります。
これは上記に書いた繰り返し使えない事に対しての弊害です。
では実戦ではどうでしょうか?
状況により替わりますが基本的には「必殺技」「得意技」が有利です。繰り返しの練習により使えることの「再現性」を確認しているので「奥義」「秘伝」よりも技術レベルが高く、その技術を作るためのかけた手間と時間が桁違い多いからです。
武術の歴史を振り返って象徴的なエピソードを紹介したいと思います。
柔道の成立初期においては他の柔術諸流派より柔道はかなりの批判を受けていました。「奥義」「秘伝」を公開して試合という安全性が確保された、生ぬるいやり方で練習しているんですからね・・・結果は・・・柔術諸流派の惨敗です。
公式の試合でも野試合、闇討ち、両方でボコボコされたのでしょうね。柔道を作った嘉納治五郎が武道家ではなく政治家としても優れていたという由縁としては、そんな彼らの顔を立てるために武徳会柔道いわゆる寝技柔道というものを用意して、そちらに柔術諸流派を統合した事だと思います。
柔術諸流派もこれ幸いとばかりにこの流れに乗りました。
そんなこんなで日本では柔術はなくなり柔道に変わりました。
その一方で講道館柔道はあまりにも勝ち過ぎてしまったため、試合で強いものが強いという実戦軽視に陥っていきます。講道館柔道の創立者である嘉納治五郎は早くからこの事に気付いており、いろいろな対策を行いました。それに巻き込まれ、よくわからない状態になってしまったのが空手です。これは別の機会に話をしたいと思います。
もう一つは明治維新での話です。
剣術集団として有名な新選組の中心メンバーであった試衛館勢は木刀を使った型稽古を重視しており、それが強さに実戦での強さに繋がった反面、防具をつけて戦う撃剣の試合はたいして強くなかったという話です。
また、明治維新の動乱にて猛威を振るった薩摩示現流(正確にはその一派である薬丸自顕流)もあります。示現流については木刀を横木に振り下ろす昔ながらの稽古を重視していました。
それに対して武道のポジジョンにいたのが撃剣とよばれる防具つけて試合をする剣道の原型ともいえる技術体系です。
一見すると武道に対して武術が勝っているように思いますが・・・
実はこの本質は武術vs武術なんですよね。撃剣には統一されたルールで広く人を集めて競いあうという武道の重要な要素がかけているので武道ではないのです。
そんでもって試衛館勢や示現流が撃剣の稽古を一切やっていないかというと・・・絶対にやっていると思いますし、試衛館については撃剣ではたいして強くなかったという文献も残っています。
いってみれば組技と打撃の両方を学んだ選手に、寝技だけを学んだ選手が総合の試合に挑むようなものです・・・勝てるわけがありません。
ちなみに剣道にはそこらあたりを考慮して木刀の型が昇給昇段試験であります。まあ、形骸化していますが。
ですので基本的には武術と武道なら武道が強いです。でも、状況にあわせた対応策は必ず必要です。
なろう風にいうなら、異世界転生後の世界には魔力などの謎エネルギーを使用した戦闘技術があるのでそれを学ばないと武道だけでは勝てないとなります。
そんでもって謎エネルギーの方が優位で現実社会で学んだ武道、武術はあんまり関係ないんじゃないの?という状態になるのもお約束です。
あと、基本的に面白く書きやすいのは武道的な戦いです。
格闘ゲームやRPGの世界は非常に武道的な戦いが行われます。
だって「奥義」や「秘伝」は読者に対しても隠さないといけなく、一発ネタなので再利用が効かないという困ったちゃんです。もしくはものすごく地味になるかですね。
拙い小生の知識と経験を元に書いております。
指摘された不都合の点については別途の回にまとめて対応できればと思っています。
また、書いて欲しいテーマについても募集しています。