#08 斉明
何がどうなった?
記憶しているのは『使い「手」』の開閉器を入れる前まで。
電話で雅と約束して、公園で出会い、話、そして雅と対峙して、そして――。
断絶した記憶から、突如戻ってきた現実に、彼は戸惑った。
ここはどこだ? 暗い室内の内装からすると……ここは美術館か?
目の前には瓦礫の山。砂塵の漂う空気が、月光を透かしている。そんな空間で、床に打ち捨てられた女性の身体が一つ……。
血に染まった海の中に、黒い髪が広がっている。血が糊になって、タイルの床に髪の毛がこびりついていた。
「雅……姉さん……」
今の斉明は知らない。
自分が邦明と戦い、互いに被害を被ったこと。
雅と久篠乃が戦い、致命傷には至らなかったが、合い打ったこと。
そして邦明が雅を斬ったこと。邦明を隣の部屋に足止めしたが、それも長くは保たないという事を……。
だが一つだけ理解できることがあった。それは雅の容態だった。刀で斬られたらしい傷口は大きすぎて、深すぎた。内臓が見えた気がした。
ダメだ……どうにもならない。
――なんで雅姉さんが、こんな……。
あの夜の理不尽に巻き込まれた雅が、またこうして追求者と関わって巻き込まれている……。原因は分かっていた。雅が追求者と、解創と関わってしまったからだ。上宮家の悲劇にひっかけられた雅は、渦に巻き込まれるように、彼女にとって致命的な破滅の中心に導かれた……。
――子供は、なにか足りないまま大人になるけど、あとから足せるように、ちょっとずつ頑張っとけばいいよ。
誰かの言葉が、脳裏を掠めた。
足りないままに大人になった、自覚無き者は――自覚した時には既に遅い。ひれが欠けていることに気付かぬ鯉は、龍になってやっと気づき、そして知る――自分に足りない前足は、もう取り戻しようがないのだと。
もし、もう少し前に欠けたひれを自覚して、それを補う方法を身に着けていたら、まだ救いようもあったのだ。
斉明には使う才能が欠けていた。けれど『使い「手」』と『使い「手」作り』、そして『探り手』は、自分に欠けていた「使う」才能を補ってくれた。まだ問題は残っているが、致命的なところにまでは至っていない。
そして「使う」才能があったからこそ、自分の身を守る事が出来た。使用を意識することで、直接的に道具の「使う」意図を把握するだけでなく、他者の意図、悪意や善意を見透かして、自分にとって害のあるものを遠ざけたり、対処する力を身に付けるに至った。
なぜこうなれたか……標となる言葉をくれた明日香と、相談に乗ってくれた久篠乃……きっかけをくれた人たちがいたからだ。
願い、思うことで自身に刻みつけ、人は努力する。だが願いに至るまでのきっかけは、周りに左右されるのだ。
雅にきっかけとなる人物はいたか? 理不尽に立ち向かう猶予も与えられないまま、大人になり、目的を見出した雅は、それを成し遂げるだけの力や、理不尽を避けるだけの力を、身に着けることが出来なかった。
そしてこうして最後の理不尽に巻き込まれ、破滅の末路を辿っている。
「ごめんなさい、雅姉さん」
何といえば分からなかった。感謝もしたい、けれど謝りたかった。どう具体的に謝りたいかも分からない。だが漠然と、自分のせいで雅の人生が狂わされたと、そんな気がしたからだ。
薄く砂埃をかぶった睫毛が上がって、雅の眼が斉明の顔を捉えた。その視線は弱々しく、公園であった時のような執念は感じられなかった。
斉明にしてみれば僅かな時間でしかない。実際時間としては三時間近く前の事だが、彼の主観的な感覚では、派生に任せていた三時間はすっ飛んでいる。ついさっき自分と仲たがいして矛を交えた人が、再び目を開けたら死にかけている――ひどい冗談が、目の前に付きつけられていた。
「もう……いいわ……私のことは……忘れて……自分の道を歩きなさい……」
口を押さえて嗚咽を堪える。斉明が一番辛いのは、当の被害者である雅が、斉明を見て辛そうな顔をしていることだった。
「もう……どのみち……助からないわ……捨てて、いきなさい」
途切れ途切れの言葉の、あまりの弱々しさに、斉明は雅の死期が近いことを察した。
「嫌です! 僕は……雅姉さんが……」
どうだったのか……それを言って救いになるのか……それとも未練を残すだけか。言うべきか言わざるべきか、そんなことすら分からない。自分はいったい、七年前からどう成長したというのか――成長したと思い込んでいた自分を恥じた。死にかけているこの人に、掛けるべき言葉も知らないじゃないか……。
「気にしないで……私が……間違ってたのかもね……」
感情的に斉明はかぶりを振って、後付けの思考で言葉を紡ぐ。
「道は違っても……雅姉さんが僕の事を思ってくれてた……僕は、それだけで……」
言葉は続かない、続けられない。けれどそこまでの言葉で、雅は、しがらみから解き放たれたように屈託なく微笑んだ。
「まったく、あなたって子は……こんな時に限って、そういう事を……言うのね…………変なところで……可愛げが、あるんだから……」
震える言葉から感じる喪失感と、言葉の内容の恥ずかしいような感情が、すべて綯い交ぜになって、ワケが分からなくなる。
「私が心配することじゃ……ないかもしれないけど……良かった……。斉明くんが、ちゃんと――…………」
虚ろな目は、斉明を見たまま止まっていた。
斉明は悟った。もうその瞼が、自力で閉じられることは無いのだと。