王なき国の王子
王城は、まるで無人の廃墟であるかのように静まり返っていた。通廊の各所を巡回警備していた従士の姿が見えないせいであることにセルルーシオは気付いた。
二人は出迎えた若年の従士に静かな、しかし落ち着かない空気を醸している城内を案内され、一室へと通されることとなる。
そこは王城の一角で、親族衆へと組み込まれたかつての有力部族の長たちが起居する区画から隣接する中広間である。通常であれば王の諮問に応えるために族長たちが集い会議する場でもある。
そして今も、この国の最高位に近いオークたちが雁首を揃えて席を埋めていた。もっとも首座に近い位置に座るのは、ヘオコ・オーク族の長、マサ・ヘオコ・ツァオ。次いで嘗ての抵抗勢力最大手であったユイ・オーク族を束ねる小マタルことマタル・ユイ・ツァオ。以下主だった族長や支族代表が続いた。
「貴方たちは一体何をやっているのです。こんなところに引っ込み、王と筆頭従士を探そうともしないで」
「自分が出奔していた身とは思われない発言ですな、殿下」
「質問をしているのはこっちだ。答えろマサ。私たちは此処に来るまでまだ何も聞かせられていないんだぞ」
『王子』として抑制した振る舞いを続けるセルルーシオだが、このままでは猛りついて切りかかってしまうかもしれない……と、傍に立つブロンソは気が気ではなかった。
確かに二人は、都を囲む城壁を抜け市内に入ったおり、時刻から言って賑わっていていい筈の市中が妙な静けさを帯びていることを知った。
次いで、王城の搦め手門に詰める当番の従士の前に参上して身分を明らかにし、連れてきたアスワッドを象舎に繋ぐために案内せよ、と命じた。
無論、面食らった従士であるが、二人が王子と筆頭従士の甥御であることは疑いなく、やむなく二人を象舎番に会わせた。しばらく顔を見ていなかった貴人二人が、これまた今まで見たことのないほど巨大な馬の如き生物を連れてきたことで、象舎番のオーク、及び彼に従っている象使いどもは肝を潰すほど驚くのだった。
しかし、そこでセルルーシオとブロンソは妙だ、と思う。王城の象舎には常に多数の象が繋養されているはずなのだが、二人の前に開かれた象舎の房内は空室が目立ち、そして静かだ。あの獣の臭いに立ち込めた象舎とは思えぬほど空気が澄んでいるのが反って不気味だ。
「象舎番よ。なぜこれほどに象が出払っているのか。説明せよ」
ブロンソが毅然とした態度でもってそう詰める。偉方の若様に詰め寄られた象舎番のオークは困惑しながらも、こう答えた。
「王様と筆頭従士様、それに主だった腕の立つ従士様方がお乗りになり、都を出発していきました」
「なに、それじゃそれ以来この象舎は空なのか。陛下と筆頭従士閣下らはどうした」
「私は何も知りません。王様も筆頭従士様も、あれ以来一度も見かけてはおりません」
ブロンソとセルルーシオは互いを見合ってしまった。
「どういう事でしょう……陛下も叔父上も居ない? ありえない、そんなはずは……」
「ふーむ。これ、象舎番、城内勤番の従士を呼んでこい。誰でもいいが、事情の分かりそうな奴だ」
そうして象舎番が連れてきた若いオークに連れられて城内に入り今に至るのだ。
なお、アスワッドは案内された新しい住処を存外気に入ったらしく、房内に入れられると大人しくその場に収まった。今はたっぷりと飼料を食べ(象と同じものを食べるらしい)水を飲んで寛いでいる。
中広間に現れた『出奔した王子と、その朋友の従士』は自分たちを見る老壮年に至るオークの長者たちを前に、全く怯むところなく言った。
「まず、経緯を窺いたい。何も言わず二人が出ていったわけではないでしょう」
「お主らのようにか」
「それ以上皮肉で混ぜ返すようなら斧が飛ぶぞ、この老いぼれ共め」
「貴様! 儂らに向かってその態度は何だ!」
「何だ、とは? 詰まるところ貴方方はウファーゴ・ツァオに敗れ軍門に下った連中だ。そして一族安堵と引き換えに面倒な仕事をやっている。そのうちに、こうして雁首揃えても国盗りさえできないほど耄碌してしまった、というわけだ」
セルルーシオの言葉にざわつくオークたちを、マサ・ヘオコが制した。
「若く猛るセルルーシオ殿下。確かに、真に、そして古のオークであればこの機会に国盗りをしようとするのは、なるほど、正しい感性だ。だがそうしない確固たる理由が我らにはある。
一つ、卿の言う通り、我々は老いた。この場で最も若い小マタルとて卿らの倍近く生きている。男として、戦士として盛りをとうに過ぎ去り、かつ鍛錬からも遠ざかった我々に武威で物事を運ぶ資格は最早ない。
一つ、卿の考え方が通じない世となった、と我々は感じている。いや、通じない世にしたのだ。我らと陛下とでな。今、仮に決起しても、里の民も都の民も我らに賛同などしない。土地が荒れ、富が奪われ、血が流れるからだ。それを望むものは数少ない。そうなるように、我々は陛下と国を治めてきたのだ」
滔々と国と政を話すマサ・ヘオコの言葉に、次第にセルルーシオも落ち着いてきた。
「……軽率な発言を謝罪する、マサ・ヘオコ。親族の長老達。まずは知る限りの経緯を語ってくれ。私は仮初にもアメンブルクの王子、次の王になるものなのだから」
「うむ。と言っても、正直なところ我々が語れるものは少ない。陛下、筆頭従士、そして熟練の従士らが国を発つ直前、我々は普段と同じように、この中広間で諮問会議を開いた」
「議題は?」
「山岳域のチョー・チョー・オーク族に関するものだ。既に何度も議題に上がり、懐柔の甲斐なしと結論づけたはずの話を持ち出したのはハイゼ殿からだ」
チョー・チョー・オーク族、その名は山を渡る木霊に由来するが、そもそも真正のオーク諸族に加えていいか怪しいこの一派こそ、アメンブル王国の勢力域に残った最後の抵抗勢力と言えるものだった。
この『オークと呼ぶにふさわしからざる者ら』は、肥沃なアメン川の流れ出る東域の山岳地帯を縄張りとしていた。いつ頃からこの地に定着したのかは定かではないが、アメンブルクがシー王国と呼ばれていた頃から、険しい岳谷で飛び跳ねるように歩く、粗末な皮の服を着たオークの言葉を喋る集団が目撃されてきた。
アメン川中流、下流域にオーク諸族が定住するようになった頃からは、この者らは時折、川を下って野に下りて交流をもつこともあった。多くの場合、それは交易によるものだったが、彼らの持ち込む金属製品の質の良さはその出自や振る舞いの怪しさを打ち消す力があった。
時には、こちらから直接チョー・チョー・オーク族の領域に入り込み、商売を試みる野心ある者らもいたが、彼らの殆どは帰ってくることが無かった。幸運にも帰還を果たした者がいても、その口から語られることは要領の得ない、靄のような話でしかなかった。
曰く、『チョー・オークは地神ではない神に祈っている』『奴らは炉を持たない』『生贄を捧げる怪しい儀式を行っている』『オークでも小さき人でもない謎の存在を境界からこちらに呼び込んでいる』……そんな、荒唐無稽な話だけが伝えられてきた。
かくも怪しい集団であるが、一方で、こちらから干渉しなければ害にはならなかったので、長年にわたりその存在は黙認されてきたのである。
しかしこれは全オークの王となるウファーゴ・ツァオにとっては都合が悪かった。故に、彼は腹心であるハイゼと共に何度もチョー・オークの調略、ないしは征服を考え、様々な角度からその成否を検討してきたのである。
「ハイゼ殿は『モグイ族を使えないか』と提案してきた。モグイ族の技でもってあの人跡を跳ねのける山岳を克服し、そこに巣食っているチョー・オークと密な接触を可能とし、こちらの意を含ませられないかと」
「貴方たちの判断は?」
「答えられなかった。モグイ族がアメンブルク王国の庇護下に入り、様々な技術で王国を助けているのは充分に分かっていた。だが、それでも我々にとってモグイ族は未知の部分が多い。果たして山岳を超える技を持っているのか、持っていても、それを使ってくれるか。それらを判断するには知らないことが多すぎた」
まぁ、そうだろうな。
セルルーシオは心中で答えた。
「叔父上はそれで引き下がったのですか」
「うむ。そして明くる日、我々の手元に一通の書が届けられた。陛下と筆頭従士の連名でな。見るがいい」
マサは懐から取り出した書状をセルルーシオに渡した。セルルーシオはそれを両腕のまえにサッと広げた。その字は背後に立つブロンソにも良く見えた。
『本日、我、アメンブルク王国従士筆頭ハイゼ・フェオンは王であるウファーゴ・ツァオ・シーに願い出て従士の地位を返上するものである。しかし、それは地位に倦んだわけでも、不正を働いたわけでもない。我は全オークの王であるウファーゴ・ツァオの信念に呼応し、チョー・チョー・オークなる不信仰にして王の威光に拝謁せぬ輩を懲罰し、教化するべく袂を分かつものである。
そしてウファーゴ王は我の考えに賛同して下さり、その証として、自らが率いる従士精鋭五十と共に東域への親征を決断なされた。我もまたフェオン・オークからなる一団を率い共にするものである。
なお、ウファーゴ王帰還まで王国の統帥は王の子、未来の王であるセルルーシオに委託される。これは王の決定である。敬具』
なんという文章だ、というのがセルルーシオの第一印象だった。この文には公文書としての体裁、というものがまるでない。まるで私信のようである。
しかし一方で、文頭と文末には公的な身分に則って書かれ公開することを示す印章や花押が施されているのだ。
私文書とも公文書とも言えない代物、しかしここに書かれた事実として二人は一団と共に国を発っている。
セルルーシオとブロンソは他に何か手掛かりはないかと丹念に書状を読んだ。だが、書かれていることはそれだけだった。透かし文字や暗号の類はない。
「……これが届いて、二人が居なくなったのは今から何日前だ」
「五日前だ。分かるだろう。我々はお主らの帰還を待っていたのだ。その文書には王子の帰還が確実なることが前提となっていた。願望や憶測で物をいうウファーゴ王やハイゼ・フェオンではないから、二人はお主らが野外にて存命であることを何故やら知っていたに違いない」
父上め、私らにモグイ族の見張りを付けていたか。
セルルーシオは忸怩たるものを感じた。境界に近づき、山野の自然と危険の中に身を置いて心身を磨いたつもりだったが、実のところは親の目の届く範囲で遊んでいたに過ぎなかったのだ。
「殿下。見ての通りだ。お主は王より束の間、この国を預けられた。それがいつごろまでになるのか我々は分からぬが、それでもお主にはそれを履行する義務がある」
「……そう、その通りだ。 私はウファーゴ王の名代としてこの国の権を預かる」
「よくぞ仰られた。セルルーシオ殿下」
マサ・ヘオコは深く頷く。
「ならばさっそく都内に触れ出しをせねばならないだろう。長老方、ともかく私の不在の間、都を預かってくれて感謝します。これよりは私と、ここにいるハイゼの甥御であるブロンソ・フェオンが政務を執ることになりましょう。ついてはこの場を一旦解散し、改めてこちらから要請次第、諮問会議を開くこととします」
「あい分かった。何なりと申し付けられよ。それでいいな? 皆よ」
マサが周囲の目を見て言い含むように言った。王子とはいえ若輩の者らだ、一体何が出来るのか、そのような気持ちの籠る視線が二人に注がれているのだ。
が、それをセルルーシオは無視する。謝罪はしたが、この場にいる老いぼれ達がオークとしての魂を失いつつある、という認識は捨てていない。
(斧を奮う腕がない男は男とは言えないな。例え老いていても)
ウファーゴ王もハイゼ・フェオンも、ここにいる者らとさして変わらぬ年嵩だが、戦士としての鋭さは失っていない。
だからこそ王であれたし、第一の戦士でいられた。軍団を率いて出征もしたのだ。
(いっそ、『今までどこにいたのだ!この洟垂れども!』と詰り、張り手の一発くらいして見せる危害のある奴はいなかったのか)
などと、埒もない事を思う。
とはいえ、事は進んだ。
セルルーシオはブロンソを連れて中広間を辞し、城内にある自らの執務室へ向けて歩き出した。
「ブロンソ。聞いての通りだ。これから忙しくなるぞ」
「若。本当にやるんですか?」
「当たり前だ。これから暫く、俺は仮初の王だし、お前は仮初の筆頭従士だ」
「うぅ、私は不安ですよ。だって従士団や文官連中の中には私より年上で腕もたつ奴が沢山いるんですよ。それが、俺は筆頭従士の甥御で、若の薫陶ある身だから筆頭従士並みに扱え、って言わなきゃいけないんでしょう、言う事を聞いてくれるとはとても……」
「なに肝の小さいことを言っているんだ。野良象に一人で組みかかったあの度胸はどうしたんだ」
セルルーシオはブロンソの肩を叩いた。
「俺は、お前はハイゼ殿にも引けを取らぬ一級の戦士であると思っているんだぞ。この俺が言うんだから間違いない」
「若ぁ……」ブロンソは気落ちして今にも泣きそうだった。
「そんな顔をするな。なに、要は我々は留守番役なんだ。何事もなければおっつけ父やハイゼ殿の方からなにがしの連絡が来るだろう。なにせ、確実に俺たちが帰ってくることが分かっていたくらいだ。モグイ族の斥候隊も連れて行っているに違いない。連絡員としては最上の奴らだ」
そう言ってセルルーシオは歩き出す。ブロンソは肩を落とし、深くため息を吐きながらもそれについていった。
その日、薄暮を目前にした時刻。都の市中に触れ書きのされた差し看板が掲示され、セルルーシオが王の代理人として政務を執ることが宣言された……




