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父と息子

 語り部の案内で長の家を出た二人は里の奥へと進んでいった。浜辺に隣接した土地を拓いて作られた里を囲む土塁は土地の勾配に沿って上下にうねり、次第に道は微かな登りに変わった。


『この先だ。土塀の隅に建てられた赤い屋根の小屋じゃ』


 用事は済ませたとばかりに語り部はそう言うと二人を残し去って行った。


 二人の緯線の先に小道があり、潮風に堪える灌木の影へと伸びている。

 僅かな逡巡の後、バラックは歩を進めた。スピネイルが後ろから付いていく。


 小道を曲がると、既にそこは土塁で囲まれた角地だった。盛り固められて作られた土塁は間近で見てみれば、単純な造りでもかなりの威圧感があった。思った以上に角地は狭く感じられ、そこに粗末な……本当に粗末な小屋が一件立っていた。


 それまで見てきた土塗の家とは異なる、板に薄く土を塗ってつなぎ目を埋めただけの壁。屋根は樹皮や革ではなく、これも赤土を塗った板張りの屋根だった。


 粗末な造りでは潮風に堪えがたいのだろう、壁や屋根には既にヒビが幾筋も走っているのが遠目にも見えた。戸口は薄く剥いだ樹皮を織った幕で微風に揺れている。


 ちょうどその幕が大きく動き、奥の闇から人影がのっそりと出てくる。年老いくたびれた老壮年のオークだ。体の長い不調があるのだろう、右肩を不自然に下げた態勢で億劫そうに小屋を出ると、屋外に出ていた大きな水瓶に勺を突っ込み喉を潤していた。


 そのオークは二人の視線に気づき、此方を見る。一目でわかる里の外から来たと思しき者らに険しい剣幕で言った。


『こんな所に何用だ、小さき者に余所者』

『ロオバという男を探しているんだよ』

『何のためにだ。ロオバはヘオコの恥だ。あたら人の目に晒すべき男ではない』

『だが今、晒されるべき理由が出来たのだ。 その男には息子がいる』

『息子などおらぬわ!』

『いや、いるんだ。ここに……』


 スピネイルの視線を追った小屋のオークは目の前にいる若い、しかし明らかにこの里の者とは思われない風体のオークをしっかりと見た。


 顔形を見て、その眼差しが自分を射抜くような鋭さと困惑でもって見ていることに気付く。


『……あんたが、ロオバ・ヘオコ』


 声音を聞く。ロオバと呼ばれたオークのぬぐい切れない疲労に塗れた顔色が、俄かに変わった。

 それは驚愕か、それとも恐怖か。


『……おれは、南海からきた。バラックという』

『南海……』

『俺の母親は、船で南海に流れ着いたんだ』

『船……ッ!』


 震えが起こってロオバは手に持っていた勺で水瓶の縁を叩き始めた。


『あー! うわー! あー!』


 その叫びは怒りではなく、悲しみに満ち溢れていた。


 十云年にかけて重く、深く突き刺さってきたロオバの感情が一息に噴出するような、辛く苦しい悲しみと後悔の叫びだった。

 


 

 ロオバ・ヘオコはこの小屋で一人、時折里人の使い走りや浜に打ち上げられた魚介などを拾って生計を立て、生活しているという。


 ……スピネイルはそれらの仕事が本来、寡婦などの身寄りのない者のものであると知っている。若くして里に封じられた男にとってはさぞ屈辱的な日常であろう。


 おそらく自死を隠然と迫られたに違いない彼の部屋にはそれを裏付けるように不自然なほど立派な造りの手斧が一本飾られていた。だがそれを動かしたような形跡はない。


『……貴方はここで何のために生きているのです?』


 族長一家の一人から虜囚に近い境遇に落ちぶれて数十年を閲した男は、対面している小さくも力強い生命でもって輝いているかの如きスピネイルの問いを背中に受けた。


 振り返ったロオバは手に割れた酒杯と小さな瓶を持って、敷きっぱなしの寝床に座り込み、手酌に一口呷った。粗悪な酒だが飲まずにはいられない。


『あの日の俺はとてもいい気分だった。一点の曇りもない兄のような男と立派な仕事が出来たと誇ってもいた。女房は若く綺麗で甲斐甲斐しく俺に付いてくれていて、幸福の絶頂だった。……だがあの時、兄が俺の女房に関する話をした瞬間、気付いてしまった』


 再び、酒杯から一口呷る。


『……俺は俺ではない。冷静沈着、淀みのない兄から吐き出された影に過ぎなかった。兄に陽が当たり、その威容が輝くほど俺の影が深く濃くなっていくのだ。兄は俺におこぼれを授けているつもりだったのかもしれないがな。自分より不出来だが、愛しき弟に』


 くたびれた肉体に酒が沁みてロオバの眼差しが潤んできた。


『俺はそれに耐えられなかった。兄という大きな軛から逃れたい気持ちが前からあった。……気が付いた時、俺は兄に斧を振り下ろしていた。その後女房に事の実際を問い詰めるために帰り……後は聞いてる通りだ』


『まだ質問の答えを得ていない。……貴方は何故、今ここに暮らしている? 兄を失い、妻を失い、将来も無くなった身で今もなおここにいる。それは何を思ってのことなのです』


『知った風な口をきくな小さき者よ! ……マサ・ヘオコがな。あ奴は兄のやりかけていた仕事を引き継いだ時に俺を殺すことも出来たのだ。風聞を恐れるならそれも出来た。だがそうはしなかった。

俺を殺すことはそのまま兄の偉業を闇に葬ることと同じだと言ってな。……だから俺も、生きることにした。耐えがたい苦しみをこうして、酒で紛らわせ、人々に兄ヨオバの名を忘れがたくするために』


 そう言ったロオバは悲壮な笑みを浮かべていた。

 周りから疎まれ、自死を暗に求められながらのらりくらりと生き続ける。

 気高いオーク族としては最低に近い生き方をロオバは敢えて自分から選び取ったのだ。


 自分の罪と罰のために。


 だがそれはバラックには素直に受け取れる話ではなかった。


「ふざけるなよ。あんたは身重の女を一人、海へと送り出してしまったんだぞ。こんな、冷たい海に。どんなに侘しく辛い時間を過ごして俺の母は死んだと思っているんだ」


 怒りとも悲しみともつかない激憤が震えのようにバラックの喉奥から叫びとなって出た。


「畜生! 正直に言うとな。俺は少しは期待していたのだ。昔から、俺は周りからこの身体によって浮いた存在だったからな。海の向こうに養父ではない本当の父親がいるんだろうと漠然と思っていたさ。養父のような立派な男であればいいなと希望を持ってもいた。それが! 聞かされた話がこれだ!」


 燃える目で実の父を睨むバラックの手が震えながら懐へとのびつつあった。スピネイルはそれが懐にあるアーチの刃を探る動きなのに勘づく。


 伸びる手はじりじりと懐を探るがその動きは鈍かった。


「お前のような者が俺の父親だと! くそっ! 今すぐこの場で叩き殺してやりたいほどだ。だがっ……」


 探る動きの手が静かに降ろされた。深い、深いため息と共に。


「……俺を育てた養父は、それはそれは立派な男だ。公明正大で強い海の男だ。彼が、俺が実の父親を怒りに任せて討ったと知れば悲しむだろう。実父殺しを養子にしたとあっては、彼の名誉を傷つける。だから俺はあんたを殺さない」


 激しい感情のままに帝国語をまくしたてる、自分によく似た若いオークを困惑とも悔恨ともつかぬ顔で見ていたロオバは言った。


『……若いの。お前は俺のことなど忘れろ。お前はお前を養い育てた者の子だ』

 

 

 失望に塗れた表情で外に出たバラックは灰色に濁る北の海を見た。皮肉なことにロオバの小屋からは海が良く見える。


 腐った灰汁のような海だ、とバラックは吐き捨てたくなった。こんな海に一人逃げ込んだ母の恐怖と孤独を思うと、背後に捨て置いてきた男への怒りがまた擡げて来そうだった。


 だがバラックも分かっていた。こんな思いは無益だ。しわがれた老人一人を殺めても母の苦悩も自分の出生も、そこに加えられた穢れを濯ぐことにはならない。


 全てを脳裏の奥底に封印し、南海へ帰ろう。ただ耳に遠く聞こえるさざ波だけが南の海原を思い起こさせ、バラックにそう決心させるものがあった。


 スピネイルは落胆する若いオークの背中を一瞥しつつも、礼儀を持ってロオバの小屋を後にするべく心を尽くした。


『お話辛いことを話して下さり、感謝します。ロオバ殿』

『あんたらの目的に叶ったなら、是非もない。達者であれ、小さき者』

『……彼には何か言うことはないのですか』

『ない。……俺には何も言う資格など……』


 言葉に詰まったロオバは胸を抑えて苦しみ出した。スピネイルが手を差し伸べるがロオバはそれを断った。


『気にするな……歳だからな……胸の具合がな……』


 震える手で勺を掴むと水瓶に突っ込み、がぶがぶと水を飲み始めた。

 飲んでいる間も震えと苦悶の表情は変わらなかった。薄くなった額には脂汗が玉のように浮かんでいた。


 本当に大丈夫か、とスピネイルが再び手を差し出そうとした時、ロオバの口から搾り出されるような苦しみの声が上がった。


 水瓶にもたれかかる様に倒れたロオバの重みで水瓶がひっくり返った。


 何か、と振り返ったバラックが目にしたのは地面に頽れた老オークと傍らに広がる水たまりだった。


 

 スピネイルはすぐさま、ヘオコの里で医術に明るい者を探してロオバを診させた。


 見つかったのは里で薬を作って暮らす壮年の女性薬師だった。彼女は始めロオバを診ることに難色を示したが、スピネイルの強い要請と握らせた帝国金貨の威力で首を縦に振らせた。


 診察の結果は深刻なものだった。


『長年の生活で身体のあちこちが痛んでるね。特に、肝臓が悪い』


 指で脾腹を突くとロオバが喘いだ。


『肩の古傷は何ともないよ。だがこいつは古傷が起こす幻の痛みを嫌って酒ばかり呑んでいたわけだ。こいつをお飲み。脈を鎮めて眠りやすくなる』


 掌にいくつかの丸薬をとりだすと、薬師はそれをロオバに飲ませた。

 苦しみに歪んだ顔付が徐々に解れ、静かな寝息へと変わっていった。


「治療は出来ないのか?」


 バラックの問いをスピネイルが聞き直す。薬師は首を振った。


『大変難しい。酒毒が溜まりすぎているよ。ろくなものも食べていなかったから体力も衰えている』


 それに、と薬師は続けた。


『……こいつは里の鼻つまみ者だよ。ヨオバという偉大な族長が昔いてね、こいつのせいで死んでしまった。今こいつが死んでも、だれも悲しまないよ』


 それを聞いたバラックが呻き、そして声を上げた。


「……だが、この男はまだ生きている。生きていなければならないんだ!」

『何故だい? 若いの』

「この男が、自分で生きると決めているからだ……!」


 スピネイルはほう、と迷えるオークの言葉に耳を傾ける。


『……この男は、自分の罪を覚えている。罰を受け続けている。苦しみに耐え、酒で時にそれを紛らわせていたが、今でも痛みつづけている。自分でそうすると決めている』


 バラックは覚束ないオークの言葉で必死に薬師に話した。


『いつでも自殺できたはずだ。だれもそれを止めなかったはずだ。こいつは、後ろ指をさされて、汚名を着たままじりじりと生き続けることを選んだんだ!』


『だが若いの。こいつはもう寿命さ。そろそろ大地に還っても……いや、待て』


 薬師は額を掻きながら何かを思い出そうとしていた。ロオバと、バラックの顔を見比べながら。


『……ある薬草がある。特別な条件下でしか育たないもので、大変に薬効が高いんだ。昔、ヨオバが里の産物に出来ないものかとよく相談に来ていたことを思い出したよ』


「それはどこに?」


『まぁ待て。それは美しい花を咲かせるので、私はヨオバの墓の周りに植えてやることにした。今まで一度も墓参りなどしたことはないが、今なら墓の一面に咲き誇っているだろう。あれが育つには海の土と死体が必要なのだ。滋養の豊富な死体がな』


 不気味なことを語る薬師は小屋から外に出て里の一点を指さした。


『あそこに、里の死者を葬る墓所がある。技術者は死者が出るとあそこに持っていき穴を掘り、死体を埋めて墓を作る。ヨオバにはその功績から特別な墓が用意された。技術者ではなく、彼が集めたモグイの技師らが作った海底墓地だ。里の者は敬意を表してヨオバの墓へは近づかない。だがお前がもしヨオバの墓へと赴くなら、そこにロオバの命を繋ぐ花が咲いているだろう』

 

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