グラキエアへ。
「大水軍の方とは露知らず! どうか、どうかお命だけはご勘弁を!」
血飛沫に汚れた浜辺に跪き額づくバルルカンなるにわか太守を前にして、バラックは不快感も露に言った。
「俺たちは旅の途中だ。食糧と水を寄越せ。あとは知らん」
「はい、はい。すぐに用意しますとも! さぁお前たち。ありったけの食い物と水だ! 早くしろ!」
生き残ったマラウィの男たちを駆り立てるバルルカンは滑稽なものだったが、本人は必死だった。
獰猛で近海に名の知られたマラウィの戦士達は、自らの得意とする白目貝殻の槍で戦ったが、より鋭く、長い間合いで叩けるバラック達アーチ使いの前では他愛ないものであった。
甲板に上がり込んでいた者らが撃退されれば、あとは雨と降る刃の前に裸身を曝すマラウィ達に勝機は無かった。
とは言っても、バラック達も無傷というわけではない。幾人かは貝殻槍の傷を受けた。その傷口は紫色に変色し、腫れ上がっていた。
「大丈夫か?」
「なんてこたぁありませんよ。これっくらいの傷で……」
部下はそういうが、額には冷や汗を浮かべ肌は冷たく震えていた。
「もういい。どうせこの始末を付けなきゃいけないんだ。船に戻って休んでいろ」
「すんません……」
「あと、ティリスを呼んできてくれ。あいつにも外の空気を吸わせてやらないとな」
戦いが終わるまで船室に隠れていたティリスは、バラックが呼んでいるというので甲板にあがった。
そこには樹林から僅かにはみ出るようにできた浜辺があり、男たちが倒れていた。
はっとしたが、良く見ればそれは船で起居を共にしたアーチ使いたちではない。安堵するものの、斃れている男たちが流した血で白い砂浜が汚され、踏み荒らされているのを見るのは心が落ち着かないものだった。
「こっちだ、ティリス」
手を振っているバラックの元へ、ティリスは船を降りた。
「お……終わったの、ですか?」
「ああ。……怖い思いをさせてしまった」
「……貴方は、怖くなかったのですか?」
「アーチある限り恐れはない。それがアーチ使いだ」
胸を張って答えるバラックの姿や声音には、不惑が無かった。本当に彼は恐怖していなかったのだ。
自分とはまるで違う気質、信念の持ち主であるこの巨躯の若者に、ティリスは畏怖した。だが同時に奇妙な官能が胸の奥底でざわつく様な、そんな快とも不快とも言えないものも覚えるのだった。
久方ぶりの陸である。アーチ使いたちは大いに喜び、羽を伸ばした。たとえ自分たちを襲った者たちの、血の匂いがまだ残っているような場所でも、である。
男たちはマラウィ人、そして彼らの長であるバルルカンから召し上げた物資に満足した。少なくとも暫くの間食べ続けていた保存食よりはずっと良かった。
元より長居するつもりもない。数日の間、物資の補給と船の補修に費やして出発するつもりだった。
だが、積み荷を検めていたバラックの元に、ひっそりと息を殺して現れたバルルカンは、哀れなくらい憔悴して彼に縋りついた。
「お前たちに敗れた私を、マラウィ人たちが胡乱な目で見ているのだ。もう私は、彼らの上に君臨する太守ではないのだろう。お前たちがいなくなれば、早晩私は奴らに食い殺される。助けてくれ!」
「残念ながらお断りする。俺たちは旅の途中だし、余計な荷物を載せる余裕もない」
「そんなこと言わないでくれ! 途中のピト島まで送ってくれればいいんだ。ほら、これを納めてくれ。奴らに集めさせた真珠玉だ」
バラックの懐に押し込まれた小袋には、虹色に輝く大粒の真珠玉がぎっしりと詰め込まれていた。
これには流石のバラックも気持ちが暫し揺れた。虹真珠は金より希少な海の宝石と知られている。これだけあればそれこそ無主の島一つ買い取ることさえ出来そうだ。
試しに袋の中から一粒取り出し、光の中に透かして見る。厚い層が濃い虹色に輝き、光輪を作っている。
「……明日の夜明けには島を離れる。それまでにやってこなければ置いていく」
「……済まない! 恩に着る」
金子に目が眩んだ自分にじんわりとした嫌悪を感じつつも、バラックはその不快感を吐き出し、作業に戻った。
翌朝。既に出発のために全ての作業が滞りなく進められていた。帆は張り直され、部下たちが各位置に付く。素早い離岸のために船室で余裕のある者は櫂を取って待機していた。
「……来ませんね。あの人」
甲板に立つバラックの脇でティリスがつぶやいた。興味本位からだろうか、彼女は休息もせずにバラック達の作業を見守っていたのだ。
「しかし報酬は受け取ってしまったからな。今暫く待とう。風が来るまで……」
バラックのアーチ使いとしての勘、あるいは経験が空模様を巧みに読む。太陽が水平線を割っていくこの僅かな時間、島から吹き下ろす風に乗れば、船は素早くここを離れて波に乗れるはずだ。
(来るならさっさと来い)苛立ち紛れに持ち出したアーチを弄っていた、その時。
「隊長、陸が何だか騒がしいですぜ」
部下の一人が指を指して言った。
なるほど、確かに夜明けが来るか来ないかという静かな時間だというのに、浜辺の先に広がる密林から人の声、いや、叫びが聞こえた。草木を掻き分ける音、粗雑な造りの太鼓の音も聞こえた。
不安を掻き立てられる中、森を見守っていたバラック達の前で浜辺に躍り出てきた人影があった。バルルカンである。
「はぁ、はぁ、良かった。まだ待っていてくれたんだな!」
「どうした? さっさと乗り込め」
「助けてくれ! 追われてるんだ! もうすぐ近くまでマラウィの男たちが迫ってる。手下はみんなやられちまった。みんな生きたまま八つ裂きにされて食われちまった!」
そう言っている間にも、森の闇から貝殻の槍が飛び出し、浜に立つバルルカンの足元に突き刺さった。
悲鳴を上げ、遮二無二バルルカンはバラックの船へ走り寄り、陸と船を繋いでいた綱にしがみつき、甲板へと這い上がろうとしていた。
「陸から人が沢山出てきましたぜ! どいつもこいつもいきりたってやがる」
大して広くもない浜辺へ、次から次へとマラウィの住人たちが集まってきていた。手には槍や剣、そして松明を掲げ、怒りを伝える叫びや歌が、太鼓の音を背景に谺する。
薄暮の中に浮かび上がる人の光と声に、ティリスは怯え、思わず傍らのバラックに縋りついた。
バラックはその嫋やかな感触に一瞬気を取られたものの、直ぐに心を入れ替えて答えた。
「安心してくれ、この船まで奴らの武器は届かない。……あのバカを引っ張り上げてやれ」
半泣きになりながら綱を昇っていたバルルカンを甲板に上げたバラック達は、綱を絶った。
間もなく島から吹き込んできた風に帆が膨れ、船が軋みを上げながら動き出す。同時に船室の漕ぎ手たちが一斉に櫂を繰り出した。
島から船が遠ざかっていくのを怒声と共に見送るマラウィの島民たち。一方、甲板に引き上げられ、息を吹き返したバルルカンは島に向かって吐き捨てた。
「畜生! マラウィの田舎者どもめ! さんざん良い目を見させてやっただろうに! この俺を見限りやがって、見てろよ。ピトの叔父貴たちに泣きついて、てめぇらを根絶やしにしてやるぞ!」
威勢のいいことを吐く、のらくらバルルカンの振る舞いに呆れながらも、バラックは船を一路ピト島へと向けるのだった。
ピト島でバルルカンを下ろし、旅を再開した一行は北西への航路を取った。
一瞬だけの邂逅だったが、ティリスが見たピト島はグラキエアによく似ていた。それも当然で、ピトはグラキエアに通ずるギャセリックの玄関口であった。
ピトから北西に二日半掛けて進めば、もうそこはグラキエアの領海である。四方を高見から見渡せば、船影の一つや二つが珍しくない場所である。
南北の文明から船に乗った人々が交易や交流を求めてグラキエアを目指す海で、バラックは暫し、船を止めた。
「皆、聞いてくれ」海風に負けない声でバラックは叫ぶ。
「ここから半日の距離に、グラキエアがある。そこはもう、帝国の領土だ。帝国の街であり、住んでいる人間の半分は帝国市民というやつだ」
「もう半分はなんなんですかい?」
「俺たちと同じ、南海の民さ」
俺たち、という声が僅かに震えた。
「……さて。ギャセリックと帝国の間に休戦が成立している以上、上陸することは問題ない。物資を補給するのも問題ないだろう」
ちらとバラックは船橋の庇の下に佇んでいたティリスを見た。
ティリスは肌馴染みのある空気を感じ取っていたのか、幾らか穏やかな表情で海を見ている。
「……とはいえ、俺たちはあくまでギャセリックの人間だ。大勢でグラキエアに降りると要らぬ誤解も受けるだろう。そこで上陸希望者を絞りたい。俺、ティリスを含めて八名の他は船から降りることを禁ずる。いいな?」
部下たちは表面的には不平の声を漏らしていたが、理屈はあっていると理解したらしい。互いに見合って、誰が陸にあがるかを話し合っていた。
「グラキエアまでは波風も安定しているから、そう忙しくもならないだろう。今のうちに決めておいてくれ。決まらなかったら、俺が決める。以上だ」
「「「へい!」」」
波穏やかなグラキエア島。大小無数の船が浮かぶ港は広く、往来する人々は多種多様だ。
以前であれば港に収まりきらない船もおり、そんな船相手の商売を島なき民と呼ばれる海の漂泊民が小船を使ってやっていたものだが、以前港が拡張されたこともあって、今は整然と桟橋に船が係留されている。
バラックの船は水先案内に先導され港に入り、上陸を果たした。宣言通り、バラック、ティリス、選抜した部下六名以外は船で待機の恰好である。
バラックは部下六名に対し、各々に水、食料、帆布、縄、木材、その他雑具の調達を命じ、市場へと放つ。
「隊長は何をするんですかい?」
「俺は俺がするべきことをする」
「へぇ。分かりました。行くぞ」
方々へ散っていく部下を見送り、バラックは自分を見上げているティリスを見る。
「ティリス。お前はここに暮らしていたな」
「……はい。父と暫くの間、ですが」
「そこにお前に属する財産は残っていないのか。それを回収し、お前と共に故郷へ送ってやりたい」
そう言われ、ティリスは驚き、自分が嘗て暮らしていた富裕民の宅地がある街区へ目を向けた。
「……父の品がまだ残っているかもしれません。ついてきてくれますか?」
「勿論だ。案内してくれ」
二人は市場とは別の方向へ伸びる道を辿り、町の中へと入っていった。
賑やかで、雑然とした生活の匂いがする原住民の街から、徐々に石造りで、整然とした区画へと入っていく。往来に見える人の顔も違って見えた。
住民はバラックの顔を見ると、何故か穏やかで優しい表情で見守った。親しみの籠った視線を送るのだ。妙な気持ちだった。
「……グラキエアの住民は変わっているな」
「人から聞いた話ですけど、以前、この島を謀ろうとしたギャセリックの人間を北方から来た異貌の戦士が退治したそうです。きっと貴方はその人に似ているのでしょう」
「俺が?」
「貴方は遥か北の方から漂流してきた船から生まれたと、ホーメル殿に聞きました。案外、その戦士と同族なのかもしれませんよ」
ティリスの声が、初めの頃より明らかに弾んでいるのを聞き、バラックは動揺した。
「どうしたんだ、いきなりそんなことを言って……」
「さぁ、どうしてでしょう?」
ティリアは嘯いたが、陰では分かっていた。
この島のあちこちに、父と過ごした思い出のよすががある。温かい塩気を含んだ風と共に、それらが彼女の澱を慰めてくれる。
そうしてくれるうちに、だんだんと、彼女の本来持っていた快活な一面が表に出やすくなっていたのだ。
「さぁいきましょうバラック。私と父が暮らした家はすぐそこです」
富裕民街区の一画にあったその家は、他の家とさほどの違いもない。ごくありふれた帝国様式の邸宅であった。すなわち、一階に間貸しできる店舗向きの間取りがあり、上階が住居になっている。
だが所有者が居なくなった家から人の気配はない。一階の空き部屋ももぬけの殻だ。
「誰もいないな……」
「一階には代書屋さんが入っていたはずなのですが……」
「逃げたのではないか? 家主が居なくなってしまったのだから」
「そうかもしれませんね……」
代書屋が借りていたことを示すいくつかの小物……墨壺や羊皮紙の切れ端が残るばかりの一階を抜けて上階に昇ったが、上階に至ってはもぬけの殻どころではなかった。
なにもなかった。行李一つ、家具一つ、布きれ一枚もない、だだっ広い空間だけがそこに残っていた。丁寧に床は掃かれ塵さえ積もっていない。
これにはティリスも衝撃を受け、そんな、と声を上げた。
「どうして!? ここには父が持ち込んだ書物や装飾品も、この島で買い求めた籐編みの寝台もあったのです。私の部屋にも何もない……私の服も、靴も、櫛や簪も全てなくなって……」
かける声もなくバラックは困惑しながら、震えるティリスを見守るしかなかった。
そのうち、突如ティリスが跳ねるように走って、部屋中の戸口という戸口を開けて回り始めた。
「ティリス!?」
「ここにも! ここにも! 私とお父さんが生活した、確かな証拠があったのに!」
叫びながらティリスが次々に戸口を跳ね開けていく。感情の持っていく場を探し求めて、目に付いた戸や窓を遮二無二開け放っていた。
「これじゃあ、誰にもわからない! お父さんが生きてた! 働いていた! そんな確かな実感が! 誰かに奪い去られてしまった!」
そうして部屋の広間に開けられた大窓に縋りつき、掛け金をもぎ取って開け放ったティリスの前に、抜けるような空と風、だんだんと暮れていく太陽の輝きが映える海を抱くグラキエアの景色が飛び込んできた。
残酷なほど美しい南海の情景が激しく荒ぶっていたティリアの視界を埋め尽くすと、ティリアはその場にへたり込み、顔を伏せる。
「うう、ううう……」
嗚咽混じりの涙で床を湿らせていた彼女の背中に、バラックは近寄った。
「ティリス」
「うう……申し訳、ありません。酷く、取り乱しました。お目汚しでしたね」
「そんなことはないっ!」
はっきりとバラックは告げた。
「ティリス。俺に何ができる? 俺は君を故郷の地へ送り届けるが、どうやらそれでは不足だと今、気付いた」
涙に濡れた目が巨躯を見上げている。
「君の父を討ったのは俺たちだ。だがそれは戦場の作法の上だった。だがここに入り込んだ『賊』は、そのような義を持たない無道の輩だったようだ。それでは君の父の名誉が損なわれ、ひいては俺たちギャセリックの名誉もまた、傷つくものだ」
なにより、と二人の目が合った。力強い目を覗き込むティリスは、胸奥底の心臓が熱く脈打つのを感じた。
「君自身が、酷く苦しんでいる。それが俺には許せない。道理が合わないような気さえするが、確かに俺は今、不愉快なのだ。君が泣き伏せ、叫びを上げているのを止めたい。その為に、俺は君に何をすればいい? 教えてくれ、ティリス」
ティリスは、バラックの問いかけに答えなかった。
答える前に、空き部屋同然だった家を訪ねる声があったからだ。
「もし、そこにいらっしゃるのはティリスお嬢様ではありませんか?」
振り返った二人の目に映ったのは、腰の曲がった老婆であった。日に焼けた黒い顔、白く細い髪を纏めた小奇麗な人で、一目で南海人であると分かる。
老婆の顔を見て、それまで感情の嵐に揉まれていたティリスの顔に明るい表情が返った。
「ロジーヌ、ロジーヌですね! 良かった、貴女だけはここに残っていてくれたのですね……」
「ああ、間違いない。ティリスお嬢様、まさか御無事であられたなんて、まるで奇跡のようですよ。婆は嬉しゅうございます」
駆け寄った二人が抱き合い、互いの実在を肌身で感じていた。
ティリスが語るに、このロジーヌという老婆はグラキエアに越してきた頃から、ティリス父娘の世話係をしていた者だという。
「お二人が乗った船が戦から戻らなくなってから後、帝国から郷里の者が使いにやってきましてね」
ロジーヌは、何も無くなった家を寂し気に見渡しながら、父娘が居なくなって後の事を離してくれた。
「お父上が戦死したとのことで、郷里のご親族の方々が財産を回収しに参ったのですよ。私はまだ返ってくるかもわからないからと言ったのですが、所詮召使いの身ですから……」
「それで間貸しに入っていた代書屋さんともども、追い出されてしまったのね」
「はい。それでも気になって、こうして時折お家を見に来ていたのです」
「……ありがとうロジーヌ。この世に父の足跡が何もなくなっているような気さえしていたけれど、そうではないと知って、私は安心したわ」
そう言葉にしたティリスだが、深く塗り込められた表情の影は容易には拭えぬものだった。
「そう……私たちの親族を名乗る者たちが、私たちの家財と思い出を持ち去って行ったのね」
「……それでですねお嬢様。ちょっとお渡ししたいものがあるのですよ」
そう言うとロジーヌは小走りに家を出ていき、すぐさま戻って来た。小柄で皺寄った老人に見えて、とても壮健な老婆だとバラックは思った。
「ふぅ。こちらをどうぞ」
丁寧に折り畳まれ、真新しいカンバショウの葉で包まれたものをティリスは受け取った。
「これは?」
「お父上が大事に着ておられた、礼服の飾り布ですよ」
「え?!」
驚き包を解くと、確かにそこにはティリスが見た覚えのある布地が収まっている。
帝国の職人たちが丹精込めて縒り、織った絹地の布に、これまた綺羅と光る金糸と銀糸が織り込まれ、さらに玉石の粒を用いたビーズが縫い付けられた、まことに豪華な代物だった。
ティリスの記憶にある父は、元老院議員など高貴な方々の集いに招かれるときは決まってこの飾り布で帯を飾り、真新しく下ろしたトーガ等と共に礼服を拵えていたものだった。
華美だが派手過ぎない色使いの、たった一辺の布地だが、ティリスには浸みるように心揺さぶるものがあった。
「……偶然、親族様方が来られた時、これに折り目を付けておりましたので、咄嗟にこうして隠し持っておいたのですよ。とてもお高いものに見えましたし」
「……ロジーヌ、重ね重ね、ありがとうございました。感謝に堪えません」
ティリスは深く頭を下げた後、バラックを見て言った。
「バラック。このようなことをお願いしていいのか、分かりませんが……彼女にお礼がしたいのです。でも今の私には、何も彼女に与えることが出来ません。なので……」
意図を汲み取ったバラックは前に踏み出でた。ロジーヌ媼は現れた、巨岩のような男に慄いていた。
「ロジーヌとやら、ティリスの財産を守った礼だ。これを受け取ってほしい」
バラックは懐の小袋を開け、真珠玉を一掴み取り出して媼へ手渡した。
「これで家族を養うなり、商売をするなりして余生を過ごせ。ティリスの父御を弔うためにもそうしてくれ。その方が、ティリスの慰めになるだろう」
「はえぇ……」
ロジーヌは与えられた財宝を前に、腰を抜かしそうなほど驚いていた。彼女にすれば、偶然そうしていたにすぎない行為である。しかし、それがティリスの心の支えになったのだから、バラックにはこれを与えるに十分な理由であった。
飾り布を押し抱き、ティリスは自分の血肉に久しく流れていなかった、熱いものを覚える。強い感情の力を。
風は吹き。バラックの船はグラキエアを離れた。目指す場所は、ソフロニア大半島に栄えた帝国レムレスカ本土。
船は帆を広げ、海原を切り。
そして船影はグラキエアより遠くなり、見えなくなった。




