南海の島グラキエア
漣に揺れる船体の軋み、板張りの隙間から差し込む陽の光、そして威勢のいい船員たちの掛け声の中でヨン・レイは目を覚ました。
肌に纏わりつく粘るような潮の薫りに顔をしかめつつ、寝床から体を起こし、船室を出た。
一方を見れば、遠くに小さく見える陸地の影、もう一方は見渡す限りの水平線だ。その間に挟まれたようにあるこの小さな足場では、今日もモグイ族の血を引く船員たちが、日に焼けた肌に塩が吹くほど汗を掻きながら働いている。
「おはよう船長、調子はどうだい?」
「おはようお客人。今日は昨日より風向きが良いな。日暮れ前にはグラキエアが見えることだろう。飯はどうだ?」
「いや、まだだが」
「当番の奴から貰ってくれ。あんたには豚肉を出すように言ってる」
「ありがとう。他に何か言うことは?」
「ない。具合が悪くなったら船医に言ってくれ」
ヨン・レイは礼を言って甲板から船の中に戻った。
船の内部は船長や船医、それにヨン・レイのような特別な人物にあてがわれる部屋、航路上の港で売買する荷の入った船倉、その他の船員たちが時には櫂を取り、ひと時の休息を取るための漕ぎ部屋、それに簡易的な台所とに分かれる。天井は低く、柱が多い。足元の板張りは絶えず湿っており、黴の匂いが付きまとう。過ごしやすい所とは決して言えないが、甲板にいても船員の邪魔になるだけなので、大人しく食事を貰い、船室に帰る。
個室と言っても窓があるわけではなく、隙間から指す外光、抱えられるような小さい行李の上に置かれた行灯くらいのものだ。
臭う寝藁を布で包んだだけの寝床……それでも船員たちに比べれば天地程の差がある寝床に、身体を折り曲げて横になる。運が良いことに、この船はそれほどひどく揺れることもなく、ヨン・レイは辛い船酔いというものを経験せずに済んだ。
(先生は昔、北の海を渡った時にひどい船酔いになったと言っていたから、どんなものかと思っていたけど……)
もちろん、北の海とこの南の海が全く同じ海であるわけがない。南の海は甲板を洗う程の大波もなく、夜風も爽やかだった。だが風向きは気まぐれで、陸から陸へと渡る船を操る熟練の船員達でさえ、風を読み間違えれば瞬く間に見知らぬ大海に押し流され、遭難してしまう。
腹がくちくなれば後はすることもなく、ヨン・レイはじっと寝床にうずくまった。
(グラキエア……南方属州の都……)
それがどんな場所なのか、仄聞するだけでしか知らない場所に思いを馳せる。キュレニックスが危惧する帝国の危機とは、一体何だろう。単なる無為な浪費であれば、ヨン・レイに調査を依頼したりはしない。
(水軍……か……)
依頼から水上の戦いへと思いは移っていく。船と船が互いを認め合い、徐々に縁を寄せながら槍や石、油壺を投げあい、互いの船へ武器を手に切り込む。あるいは船首の下に秘せられた衝角でもって喫水下の船腹を穿ち、相手の船を沈める。足元には底の見えない大海が広がっている。落ちれば、確実に死ぬ。
そう思うと彼女の足は冷たく震えた。久しく遠のいた筈の、死の気配。何故自分は恐怖を感じるのか。今なら混乱することなく分析できる。
(水練は不得手だからな……仕方ない)
そもそも、オーク諸族の殆どの者は身を浸す程の水に触れる機会が数えるほどしかない。沐浴では湯水を含んだ束子や布で身体を洗うくらいだし、河があっても腰から上まで浸かるような深い川は、王国を流れるアメン川を除けば凡そ見ることもない。
オーク諸族は泳ぐということをしない種族なのである。
ヨン・レイもまた同じく、その17,8年余りの人生で泳いだことは数えるほどしかない。養母スピネイルはそれを知り、何とか泳ぎを覚えさせようと色々と手を尽くした結果、水に浮かんで溺れない程度に身を慣れさせることが出来た。だがそれも数年前のことだ。
(あの時はヘオコ族の方々に色々と便宜を図ってもらったものだ)
海辺に領地をもつヘオコ族は諸族に珍しく水練に秀でた者が多い。ヨン・レイとスピネイルは遠路はるばるヘオコの浦まで足を運び、水練の稽古を付けてもらったのだ。
ささやかな記憶に想い馳せると、なんだか感傷的になってしまう。
気持ちを引き締めるべく、ヨン・レイは持ち込んだ荷物を検めることにした。早ければ今日中に上陸できるのだから、しておくに損はない。
乗り込むに際し、ヨン・レイは装備の選定をした。今回の依頼は調査であり、物々しい鎧姿で人目を引くことは躊躇われた。とはいえ、南海の人々はまだオーク諸族など見たこともないだろうから、多少の扮装はしている。
具体的には、男物の服を着て、露出する手足と顔は包帯を巻いた。身体の線と皮膚の色を隠せば、遠目には大柄な帝国人に見えるだろう。
身を守る武具も選んだ。鎧兜は初めから除外し、盾一つを持つ。この盾は初陣以来、ヨン・レイが好んで使うようになった物の一つであり、師であるスピネイルからの伝授ではない、彼女独自の工夫の現れだった。
板材に鉄製の帯を重ね、藍染の革を張って締めた表面。裏面にはしっかりと攻撃を受け止められるよう、滑り止めを巻いた握りが取りつけられている。さらなる工夫として革製の袋や帯が結べる横木が張ってあり、今はそこに四つの鞘袋……短剣と手斧が二振りずつ吊るしてある。
後は小間物の入った雑嚢が一つあるだけだ。実質的にヨン・レイの持ち物はこの盾一つということになる。
ヨン・レイはその日、狭い船室の中で手斧や短剣を取り出して、曇り一つなくなるまで研ぎ、盾を磨いて過ごした。身を預ける武具の手入れに没頭するうちに、雑多な感情が濾過され、済んだ気持ちになった。
それは戦士が得られる最上の休息の一つだった。
陸が見えてきたぞ、という船員の声を聞いたヨン・レイは急いで甲板に出た。
太陽が傾き、水平線を赤く染め始めた中、密林を抱いた島影がこんもりを浮かびあがっているのが見えた。
「客人、着きましたよ。あれがグラキエアだ」
「あれがグラキエア……」
船は既に帆を畳み、船員たちが櫂を取って声を合わせ、力いっぱい漕いでいた。ゆっくりと近づく陸地には、暮れなずむ海から港へ入ろうとする船たちを導くように、たくさんの灯りが掲げられ、浮かび上がった港を白波で輝かせている。
特に目を引くのは一番大きな桟橋の突端に築かれた木製の塔だ。石の土台の上に丸太を組んだ高い塔のてっぺんで、ひときわ大きな篝火が焚かれている。恐らく十数里先の海からでも見えることだろう。
「ありゃあ灯台ですな。この辺りじゃ船の便は生命線で、夜中でも大小の船が港を出入りするんです。そんな船のために、昔建てられたんですわ」
「とても立派な建物だね。……街の造りとは少し違うようだが」
灯台の灯りは港だけではなく、港を擁するグラキエアの街も照らし出している。南海の気候に適応したものと思われる、木の壁、柱に赤い瓦屋根の家並が、段状に整地された傾斜地を埋めている。
帝都レムレスカを始めとした、石の壁、天井、オレイカルコスの屋根葺きの建築物とも、アメンブルクのような土壁に木の板や樹皮を重ね葺きしたオークの建築とも異なる風景だった。
「そりゃあ、あの灯台をおっ建てた頃は帝国ももっと景気が良かったからさ。ここより南の島々も、もっと先のベルベル海岸線も、全部帝国の物だったんだ。グラキエアの街をつくるのに、南海の原住民を随分こき使ったってぇ話さ」
グラキエアの住民は、主に二種類に分けられるという。一つは、南方に進出した帝国人が現地に入植し、定着した者らの子孫。彼ら帝国市民として完全な権利を持ち、兵役を受ける義務や裁判を受ける権利などの特権を持っている。
もう一つは、帝国がここにやってくる以前からこの地に住んでいた者たちの子孫だ。肌や目、髪の色合いが異なり、昔は言葉も違った彼らを帝国は征服し、支配した。その多くは今も純粋な帝国人とは一線を画した二流の住民と見られ、帝国人とは別種の税を納める義務などを課せられている。帝国人よりも困窮した者らも多い。
「まぁ、そうは言っても同じ人と人でさあ。一緒に飯も食うし酒も飲む。話してみると案外良い奴もいますし、仲良くなって南方人の女房を貰った奴も少なくないですぜ。お客人は押し出しが強いから舐められもせんでしょうよ」
「ふうん。そういうものか……」
ヨン・レイのいる船は小船を避けながら港に入り、投錨した。縄で桟橋に繋がれ、板が渡されると、船員たちが久しぶりの上陸に湧き立った。
船長はそんな部下たちを厳しく指導しつつ、ヨン・レイの上陸を見送ってくれた。
雑嚢と大盾をマントの上から肩に担ぎ、数日ぶりの大地に降り立って、ヨン・レイは街を見上げる。
どうやら丘の上が富裕層の住宅地となっているらしく、遠目に見ても豊かな暮らしが垣間見えた。
そしてそんな富裕層の宅地の中でも最も目を引くのが、この南海の地では逆に不自然な純帝国風の建物だ。恐らく、あれがこの地の総督府であろう。
ともあれ、今日は既に暗い。散策は明日からにして、ヨン・レイは適当な木賃宿を探すべく歩き出すのだった。
翌日。港の喧騒に急かされるように起きたヨン・レイは宿を出た。
(さて、何から手を付けようかな。……その前に、腹ごしらえかな)
腹は減っては戦は出来ぬ。食事は摂れる時にしっかり摂っておくのが鉄則だ。
夜明けとともにグラキエアの港は住民たちの腹を満たすべく活動していた。小船には零れそうなほど近海の魚や貝が積まれているし、本土から乗り込んできたヨン・レイの乗ってきたような船からは、南海では希少な小麦や肉の塩漬けが樽に詰められ運び出され、市場へと持ち込まれる。人々はそこで食糧を買う。 一方で、現地特産の果物や木の実、木工品などが積まれた倉庫では、モグイ商人や帝国人がせっせと取引に勤しんでいる。他にも煌びやかな貝殻、美しい鳥、ビーズなど、様々な物が取引されていた。
そこは精力溢れる民衆の生活を現す一風景に相違なかった。
ヨン・レイは屋台で買い求めたカンバショウと魚肉の包み焼を頬張りながら、そんな港から少しずつ離れた。
港から離れると、そこは南海人の住宅が並ぶ下町に入る。地勢的に井戸が掘れないのか、石で作られた水汲み場を囲うように家が建てられ、そこここの辻で女たちがおしゃべりに興じつつ、家事に追われている。子供たちはそんな母親たちに躾けられながら遊び、あるいは風通しを良くするために大きく取られた窓の奥で、大人の職人たちに混ざって働いている。
そんな風景の中に、一見して場違いな風体の人物がそこかしこに立っていた。帝国軍兵士だ。彼らは市中を巡回して治安を維持するのが役目であり、多くは本土から派遣された者らである。
ヨン・レイは目の合った兵士に近づいた。向こうもこちらを認識したのか、立ち止まった。
「やぁ、兵隊さん」朗らかに話しかける。一方兵士は上から下までヨン・レイを胡乱な目で見まわした。
見上げるような長身、逞しい四肢を飾り気ない服に包み、手足や顔を包帯で隠した人物、荷物には何故か大きな盾を持っているのだから、気にはなるだろう。
「この辺りでは見かけない顔だな」
「そりゃそうだ。昨日着たばかりでね」
「旅行者か。こんな辺鄙な島に何用だ?」
「療養、かな……見ての通り、怪我人でね」
ヨン・レイはこれ見よがしに包帯塗れの肌を見せつけた。
「昨日は遅かったから適当な安宿に入ったんだけど、これが酷い宿でね。寝床を変えようと出てきたんだが、道に迷ってしまってね……兵隊さん、ここは長いのかい?」
「もう八年になる。後二年で退役だ」
どこかくたびれたような身振りに目が行く。
ヨン・レイは親し気に兵士の肩に手を置き、にこやかに笑いかける。
「へぇ。あんた、良い人そうだから、どうだろう。お勧めの宿があるなら教えてくれないか? 一人旅でね、話し相手が欲しかったんだ。一杯おごるよ」
「ほぉ。そりゃあいい話だ。ついてきな」
「誘っておいてなんだが、持ち場から離れていいのかい?」
「構うもんか。ここいらの連中は大した悪事もしない」
ハンス、と名乗った兵士は下町と富裕層地区の狭間にある宿付き居酒屋を案内してくれた。
酒を頼むと、甘みの濃い果物を醸した酒が出てきた。
「この辺りじゃ葡萄酒や麦酒は滅多に呑めないぞ。高いからな」
ハンスはただ酒と思って真昼間から水のように酒を煽った。
「結構辛そうだな。そんなに仕事は厳しいのかい?」
「まあな。そりゃあ、最初の頃は良かったさ。故郷とは違う空気と水、広がる海。面食らったもんだが、慣れちまえばどうってこともない。一年の三分の一くらいは酷い嵐がくるがね。
……けど、何年か前に、それまでの総督と交代で来た今の総督になってから、色々と面倒が増えた。港の拡張工事をするって言って島の外から資材を運び入れるのを優先させる、そうすると街に食糧やらなんやらを持ってくる地場の漁師や商人の船を待たせなきゃならなくなる。そうすれば住民の不満が出るし、法に触れることをしでかす奴も出てくる。
おまけに今の総督は臨時税だなんだと言って住民から財産を召し上げるようになった。住民の矢面に立つ俺たち兵士からすれば堪ったものじゃないよ」
昔はもっと帝国人と南海人、両住民が和気藹々としたところもあったが、総督が課す税は悉く南海人ばかりを締め上げるため、今では両者に静かで冷たい溝ができつつあるという。
「早く故郷へ帰りたいよ。妻と息子たちがいるんだ……退役で出る金で新しく商売をしたい。南海で獲れる珍しい食べ物なんかを扱って……」
ハンスは将来の夢をつらつらと語りながら、酒を呑んでいた。ヨン・レイは静かにそれを聞いた。
「兵士の中には独り身の奴も多い。そいつらはここで暮らしていきたがってるけど、こんな目にあっちゃ居辛いだろうな……」
「あんたも大変だな。同僚と、住民の板挟みにあって」
「まったくさ! 特に守備隊長のゲールの野郎なんざ、総督の腰ぎんちゃくに成り下がりやがって、一体いくら掴まされているんだかわかったもんじゃねえ。知ってるんだぜ! あいつが今日も家で麦酒を飲んでるに違いないってことを。俺がここで果実酒を呑んでいるっていうのにだ!」
それからもハンスは呑み、愚痴を零し、呑んだ。南海の果実酒は酔いの巡りがすこぶる早い。昼を少し回った頃には兵士はすっかり酔いつぶれて高いびきを掻いていた。
ヨン・レイは店の主人に酒代、それに宿代を払ってから、一度店を出た。話に聞いた港の工事現場を見たかったからだ。
(ハンスの話と閣下の話はほんの少しズレがあった。『改修工事』だったのが『拡張工事』になっている。確かに入ってきた時の港には、それらしい工事をしている箇所は無かった……)
荷を置き、身軽になったヨン・レイは人目を避けながら街の外れに出た。街から外れれば、辺りは鬱蒼とした密林だった。
けれど確かに、街の端から明らかに真新しい道が引かれているのを発見した。そこにも兵士が立ち、不用意な住民の立ち入りを規制しているのが見える。その目つきはハンスとは違う、厳しいものだ。
ヨン・レイは兵士の視界から離れ、一度密林の中に入った。深くは分け入らない。監視の目を掻い潜るためである。
南海の木々は細く、高い。葉は大きく広く、天を覆い隠して地上は暗かった。その中で節くれた根を注意深くよけながら、ヨン・レイは歩いた。
暫く進み、方角を変え、また進んだ。やがて木々の切れ間を見つけた。
そこからそっと顔を出すと、目星の通り、工事現場のすぐ近くだった。そこは切り立った崖の上まで迫った森の突端で、工事の風景を見下ろすことが出来る。
そこでは兵士たちの監視の元、南海人と思われる人夫が多数集められ、働いていた。石を運び、あるいは削り、セメントを練り、塗り付け、積み上げる。起重機を回して巨石を持ち上げ、板で仕切られた海面に降ろされる。浜が浚われて掘り返され、掻き出された砂利が樹皮を織って作られた俵に詰められ、地盤の改良のために別の場所へ投げ込まれた。
その規模は港の改修や、単なる拡張工事というには規模が大きすぎるように見えた。第一、監督している兵士たちの物々しさが異様さだった。
そして最もヨン・レイの注目を引いたのは、工事現場の中央を占める巨大な建築物だった。壁から屋根から全て木製の半円柱型の建物で、窓もなく、ここだけ海へ向けて半ばせり出すように突き出ていた。
(どうやら閣下の懸念は当たっていたみたいだ。これは単なる拡張工事なんかじゃ断じてない)
ヨン・レイは静かに来た道を引き返し、街へと戻った。次の行動を考えなければならない。
見回りの中、頭上の林で何かが動く気配を感じた兵士は、それを『監督官』へと報告した。
報告を受けた彼は、急いで兵士の一人を街へと遣わした。すぐに情報は出てきた。昨晩、身体を包帯で覆った旅人が港へ降りたという。
『監督官』は直ちに手勢の一人を使い、その旅人の素性を洗うことに決めた。
彼の右拳には奇怪な刺青が入っていた。風車のような紋様だったが、そうではなかった。
それは三脚巴と呼ばれる紋様だった。ギャセリックの海将の印である……。




