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領地への旅立ち

「ハジャール卿、貴殿には暇を出す」


 季節は春。新たな年度を迎え、サヴォーク総督府に召喚されたレムレスカ帝国軍 アメンブルク駐留部隊指揮官 スピネイル・ハジャールは、面会した総督キュレニックス・マグヌスに開口一番、そう言われた。


 スピネイルは目を見開き、束の間呆然としたが、直ぐに表情を直した。


「何か、私に不手際でも?」

「とんでもない。卿はよくやっているよ。女の身で、元老院議員でも将軍でもない身でありながら、一個

軍団に匹敵する兵員を統制し、帝国の北方国境を固めるべくアメンブルク王国の周辺部族支配に協力し、それを見事にこなしている。不手際などあろうものか」


 だが、それ故にスピネイルの立場は非常に不安定なものでもあるのだ。


「こちらでも報告で把握しているが、アメン川北部のオーク諸族はあらかたツァオ・オーク族の元に統合されつつある。部族内統一がなされれば北方の守りは彼らに一任できる。軍団という形で影響力を置く必要性は、相対的に低下するわけだ」


「軍団を撤兵させることで、王国内の反乱分子を刺激する、という可能性もありませんか?」

「それくらいはウファーゴ王の手腕で収められるだろう。また、そうでなければ困る」


 どうやら自身の去就は既に決定事項のようだ。スピネイルは覚悟した。


「では、アメンブルク駐留部隊の今後は如何なされますか? 解散させ故国に返すのですか?」

「原則的にはそうなるが、長く居着いた兵士の中には現地に根を下ろしたい連中もいるだろう。そこで兵士たちには集団植民を推奨したい」


 キュレニックスは壁に貼ってあった地図の前に立った。彼が総督に就任して以来、調査を重ねて作成させた精緻な地図だ。


「この、両国の境に位置するウルヴィ村に希望者を入植させたい。モグイ族やオーク諸族との交流で、各村落では開拓に人手が多数求められているからな。新たに拓かれた農地は開拓者に優先的に分配される」


 なるほど、一見すると総督の温情的措置に見える。

 だがそれに惑わされるスピネイルじゃない。


「この位置に軍務経験者を多数留め置くことで、万一アメンブルク王国に変事があればすぐさま兵団を編成して送り込めるわけですね」


 鋭い笑みを浮かべてキュレニックスは頷く。


「ついでに言えば、全ての兵士を撤退させるつもりはない。何せ今やアメンブルクにも多数の帝国人が出入りしているからな。彼らの安全を保障する帝国としては、王国に一定以上の影響力を残す必要がある」


 具体的には、現在2500人程度いる部隊を、最終的に500人まで減らす。部隊長も、スピネイルのような元老院で承認した特別な隊長ではなく、サヴォークの軍団から出向した一中隊長という扱いになる。


「その代わり、アメンブルクに残る部隊には武力以外の能力が問われる。両国の間に立ち、利害を調整する交渉を行える仁でなければならない。無論、王国内で帝国人の身に危険が迫った時、率先してその身を守ることが出来るだけの武力は必要だが……」


「なるほど。そのように差配せよ、と」

「そうだ。できるか?」

「諸々の処理を含めて、一月ほどあれば」

「ではそのようにせよ。下がれ」


 スピネイルは一礼して、総督執務室を下がろうとした。


「ハジャール卿。部隊を解散した後、卿は如何なさるおつもりか? 軍務に付きたければ、私の軍団に職を用意するが」


 それは実質的な降格人事であったが、尚武の気質篤い者であればそれを飲むことも選択に入れていただろう。


 だが、振り返って見据えたスピネイルの目に、それはなかった。武威に依存した者が持つ焦りの光はない。


 まるで水を打った鏡のように澄んでいて、キュレニックスは知らずたじろいだ。


「私はウファーゴ王より、領地を戴きました。御存じでしょう? ウェイダ村です」

「……ああ、報告は受けているが……」

「暫くはあの場所に居ることにします。領主としてかの地を治めることとしましょう。では、失礼します」


 静かに去って行った姫騎士の姿が、キュレニックス・マグヌスの脳裏にいつまでも残るのだった。


 

「そう言うわけで、私たちはお役御免になるよ」


 サヴォークでの住まいになっているアパルトマンに帰ると、受けた内容を付いてきていた二人、インファとヨアレシュに話した。


「それをお嬢様はお受けになったんですか?」

「当然よ。拒絶する理由はないもの」

「……本当に、よろしいのですね?」


「くどいよ、インファ」話しながら身に着けていた武官用のマント、平時用に新しく設えてもらった軽装の籠手や具足を外して手渡しながらスピネイルは答える。


「それなら、良いのですが……」インファは主の言を受け入れつつも、まだどこか不満なようだった。


 それを知ってか知らずか、身軽になったスピネイルは身体を伸ばして立ち上がる。


「さーて。少し出かけてくるよ。また少し町の雰囲気が変わったからね。見て回りたいから」

「どうぞ、行ってらっしゃいませ。アメンブルクへ持っていく品の調達はこちらで済ませておきますわ」

「うん。お願いするわ」


 ゆっくりと訪れる半島北部の春に合わせた、萌黄色に染められた薄織りの麻で作られたドレスと、それに合わせて設えた皮ベルトとサンダルに着替えたスピネイルは、軽い造りの短いマント、そしてダオ・オークより贈られた珠石の鞭を腰に下げてアパルトマンを颯爽と出ていった。


「はぁ……本当に大丈夫なのでしょうか?」

「大丈夫なんじゃないの? スピネイルに憂いはなかったよ。それは保証する」


 二人のやり取りを黙って見ていた魔術人ヨアレシュは、読心の魔術で読み取った結果を話した。


「多分、スピネイルにとってアメンブルクはもう自分の故郷じゃないんだよ。当然さ。係累はもうほぼいないし、家には新たな主が住んでいる。シー王国は過去の存在さ。歴史になったんだよ」


「それは! ……そうでしょうが」


 すげない言い方に、一瞬声を荒げたインファだが、ため息を吐いた。


「……そうですわね。今やお嬢様……ホン・バオ・シーは過去の人。ここにおられていたのは、レムレスカ帝国貴族スピネイル・ハジャールですわ」

「そういうことさ。君だって見ただろう? あの部屋の中を」


 あの部屋、というのは、アメンブルク王宮、つまり嘗てのシー王国王宮にあった、ホン・バオ・シーの

居室である。


 あの、もはや懐かしの忙殺の夜、はぐれ者の魔術人の手で封印された部屋を、昨年冬のある日、ヨアレシュはついに開くことに成功したのである。と言っても、わけはない。扉に掛かっていた封印の呪いの範囲を調べて、壁に直接穴をあけたのだ。


「酷い部屋だったねぇ。何もかも真っ黒、透かし彫りの石で出来た窓まで煤や灰に覆われててさ」

「丸三年以上燻り続けていたのですもの、形あるものが残っていることの方が不思議だったのですわ」


 昔、色々な伝手を頼りに集めた帝国の文物も、悉く黒い塊となり果てていた。あそこに残されていたホン・バオ・シーの遺物は完全に無くなっていたのだ。


 現在、あの部屋は改装され、ウファーゴ王に連なる親族衆、つまり次代の王を産んだ一家が所有している。


「あれで、流石のスピネイルもすっぱりと未練がましい気持ちを振り払ったってことじゃないかな。よく分からないけど」


「……そう、そうかもしれませんわね。ならば、私は改めてお嬢様の新たな未来をお支えしなければいけませんわね。何せ、領地があっても、あの方をお支えする者がおりませんもの」


「お、いいね。……そうだね、スピネイルには家族が必要かもね」

「かっ! 家族! ですか!?」


 あからさまに狼狽するインファを、放埓な心情で世を渡る女魔術人はあくどい笑みで見た。


「なーに考えてんのさ。このスケベ召使」

「うっ! いっ、良いじゃありませんか! 誰にどのようなことを想おうとも、私の勝手です! ですが、もし、口外するおつもりなら……」


 なんだか不味いことを考えているらしいこのモグイ族の女侍従は、目に胡乱な光を携えて静かに迫った。


「い、言うわけないじゃなーい、酷いなーインファはー。これでも私口は堅いんだよー、失礼しちゃうなー」


 彼女たちの周りにいる者で、インファの道ならぬ感情を知らないものなど数えるほども居ないのであるが、インファはそれを知らぬのだった。


 

 アメンブルク王ウファーゴ・ツァオ=シーは、キュレニックス、スピネイルを経てもたらされたこの知らせを前に頷いた。


「いつかは……とは思っていたが。そうか。卿はこの国を去るか。これも世の流れよな」

「陛下より頂戴した領地が役に立ちました。根無し草の暮らしをせずに済みますゆえ」


 執務室ではウファーゴの傍机で熱心に秘書官のモグイ族ドルメンが筆を執っている。懸念事項であった習慣法の成文化に着手しているのだ。


 原文が出来次第、王が招集する親族衆の下で評定され、国内にて発布される条文を吟味するのも、王の知恵袋であるドルメンの仕事だ。


「私が卿に受けた恩に比べれば、村一つお渡しするのは軽いことだ。何かお困りのことがあれば、いつでも使いを寄越されるが良い。この手の限り便宜を図らせてもらうぞ」


「勿体ないお言葉……ふふふ」

「何がおかしい? ハジャール卿」

「ダオ・オークのリシン王にも、似たようなことを言った気がします。不思議なものです」

「ふふ、そうだな。オーク諸族は皆お主に帝国という大国の影を見ておる。皆にとってお主こそが帝国を象徴する存在なのだろう」


「それこそ、過分なことでございます。ですが、今はそれが心地よい……その期待に応えることが出来ていたと自負します。陛下。両国の平穏のため、これからもよしなにお願い申し上げます」


 そう言って王宮を辞したスピネイルは、都に拓かれた駐留部隊の駐屯地の整理に取り掛かった。誰を残し、誰を返すのか。これを機に退役を希望する者はどれほどいるのか、それらのうち、ウルヴィ村近郊への集団入植に応じる者はどれほどか、等。地味だがやることはたくさんあった。


 特に気を使ったのは、残留、除隊、サヴォーク軍団への合流などを指揮する隊長格についてだ。そこでスピネイルは隷下の部隊長たちを呼び出した。


「皆、揃ったようだな」目の前には五人の隊長が並んでいる。

「ハジャール卿。此度の用命はなんでございましょう」半年前、止むなき事情でサヴォークより寄越されて以来居着いているトゥラクが口火を切った。


「うむ。知っている事とは思うが、このアメンブルク駐留部隊は解散となる。以降は最小限の守備隊を残し、他の物の処遇を決めることとなるが、それらの指揮を貴方たちに任せたい」


 居並ぶ男たち一人ひとりを見ながら、スピネイルは彼らの気質、経歴を頭の中で振り返る。


「まず、トゥラク隊長。貴方には新たに編成される守備隊500人の隊長となってもらおう。武勇、統率、他の管轄への折衝、共にこなせる貴方なら、王国内の帝国人のために兵を差配できるでしょう」


「はっ! 謹んで拝領致します」

「次に、サンデル隊長」

「ははぁ!」重い声で敬礼するサンデルと名乗る軍隊長は、ここに集められた五人の中では最も年嵩で、身体には歴戦の戦傷が無数に見え隠れする古強者だ。


「貴方には両国の境にあるウルヴィ村へ入植する者たちの指揮を任せよう。そこはオークの領域にも、帝国の勢力とも接する地で、開拓のために人手を欲している。地に足を付けて暮らせる場所だ」


「しかし、ハジャール卿、自分は……」

「サンデル、貴方は年だ。先の戦で五体無事だったのは幸運だった。それを失ってはいけない。……嫁を貰って、安楽に暮らしなさい。これは命令です」


「……ハジャール卿。自分は嘗てオークの軍勢に滅ぼされた第七軍団に居た従兄弟の仇を取るべく、一度脱いだ軍靴と兜を身に着け、第十三軍団に入りました。それが巡り巡ってオークの軍勢と共に槍を並べて戦う仲となりました。人生、何が起こるか分からないものです」


「そうだな……。サンデル。今でもオークは憎いか?」

「いいえ。奴らは確かに血の気が荒い。体はでかいし力も強い。でも……それだけだ。獣に楯突かれたら怒りもするでしょう。でも奴らは……人だ。私らとそう変わりはない」


「そうだな。私もそう思う」

「長らく世話になりました。改めて靴と兜を置かせてもらいましょう」進退を見据えた老隊長は穏やかな笑みを浮かべて頷いた。


「そして残る三人には、サヴォーク軍団へ残りの兵を率いて合流してもらう。指物を総督にお渡しするまでは、エイネケス、貴方に指揮を執ってもらう」


「自分、で、ありますか……」


 細身で色白なこの隊長は半ば信じられないという目でスピネイルを見た。彼は第三次攻勢で重傷を負い、第四次攻勢では出陣できなかった。以来、失態を返そうと躍起になって軍務に励んでいる。


「貴方は本土南部からこの地まで、一隊を率いて合流することが出来た経験がある。サヴォークまでの短い距離だが、何とか勤めて欲しい。期待しているよ」


「は! 一身を賭して務めさせていただきます!」

「連絡は以上だ。残留と入植者の選定を行ってくれ。では解散せよ」

「お待ちください! ハジャール卿、貴方はどうなさるのですか? それに、魔術人殿は……」トゥラクの誰何に他の四人の目が集まる。


「私は、お役御免さ。女の身には過分な職務だ。ここらが潮時なのさ」

「そのような……」

「同情はしないでくれ。別に感傷もないからな」

「そうですか……では」


 ぞろぞろ何か言いたげな視線だけを残して出ていく隊長たちを、スピネイルは見送った。


「やれやれ……」

 


「はっはっは! 貴殿ほどの剛の者が下野することをトゥラクめは気にしておるのでしょう。ま、ま、一杯」


 差し出された薄造りの杯に酒壺を向けて、筆頭従士ハイゼ・フェオンは豪放に笑う。

 粗野な造りの濁り酒で、酒気、糖度共に高い。伝来のオークの酒だ。

 そこはアメンブルクにある、ハイゼの家を兼ねる従士の宿舎だ。ハイゼと彼を慕ってやってきたフェオン・オーク族の一家、それに若くて所帯を持たぬ従士たちが住んでいる。


「しっかし、寂しくなりますよぉ。スピネイル様が居なくなっちまったらァ、泥臭いオークばっかりになっちまいそうで」


 男女二人の戦士に立ち混ざって世話を焼いていた中年の女オークが遠慮ない口を叩いた。彼女の名はフー。ハイゼの腹違いの妹である。


「もとよりここはオークの国だ。私は初めから余所者だよ、フー」

「そうだけどねぇ。わたしゃ、結構好きですよ。帝国さんの持ってきた織物や小間物の趣味が、こう、手が込んでて。オークの造りとはぜーんぜん違っててさぁ。スピネイル様なんてまさにこれ全身細造り、はあれまぁ、帝国さんは女の人もこんなきれいなんだわぁ、なんて思ったもんでございますよ」


「フー、お前失礼ではないか。私的な酒の席とは言え」

「いいじゃないの兄さん。目の保養だよォ、私の!」

「ははは、別に構いませんよ。気兼ねない縁戚で、結構ではないですか」


 濃厚な酒を静かに煽ると、暮れなずむ夕日を受けたスピネイルの白い肌がさっと薄紅が挿したように火照った。その様の美しさに、年甲斐もなくフーはうっとりと見惚れる。


「こういうのを『絵になる』って言うんだろうねぇ」

「お前絵など見るのか?」

「馬鹿言うんじゃないよ兄さん。あんたの稼ぎで絵なんて描いてもらえるものかい」


 アメンブルクを訪れる帝国人の中には、その風物を記録して本土に持ち帰ろうと様々な学者や建築家が訪れてて、彼らは時折オークに請われ、その姿を絵や彫刻に残す。


「兄さんも慕われるのはいいけどさ、若衆の面倒で金も麦もどんどん食っちまうから、家計のやりくり大変なんだよ」


「ぬぅ、それを今言うな。耳が痛いではないか」

「そう思うんなら、もっとその自慢の槍で働いて頂戴な。……あらいやだ。今何時?」


 暮れる夕日が家を囲む垣根の下に消え掛かっているのを見て、フーは飛び上がった。


「いっけないわぁ! 若衆に夕餉を出してやらないと……じゃあね、スピネイル様、ゆっくりしていってね」


 慌ただしく部屋を出ていく姿を憎々し気にハイゼは見る。


「まったく、落ち着かん奴め」

「にぎやかでいいではないですか。私も領地では、そのように暮らしたいものです。にぎやかで、心温まる場所としたい……」


 干した杯を置いて、スピネイルは露台から庭へと出た。垣根で囲われているだけの空間だが、ここでも稽古をしているのか案山子や篝火が脇に並べられている。


「ハイゼ殿……」

「何か?」

「貴方は、嘗てのホン・バオ・シー殿下のことを覚えておいででしたね。オークの社会は激しく動きました。これからも動くでしょう。その中で彼女のことはいずれどこからも消えてしまうでしょう。過日、殿下の部屋が開けられ、一掃されたように」


 何故それを、とハイゼが口にしようとして、スピネイルが振り返った。

 その顔には得も言われぬ表情があった。微笑みが、悲しみが、喜びがあった。火照った美しい肌、切れ長の瞳は薄っすらと緋色に輝き、一筋の涙を流した。


「お忘れになられぬように。たとい数多の時の流れの後でも消えぬようになされよ。それが彼女の供養になりましょう」


「……それを貴殿が何故望まれるのか?」

「さぁ、分かりませぬ。あの部屋を検めた時のことがふと、頭をよぎったのです。ははは、酒が入りすぎて感傷的になっているのかもしれませんなぁ」


 笑って一、二歩駆けて、スピネイルは腰の鞭を取った。


「少し酒を抜きましょう。ハイゼ殿、一手御指南頂戴したい」

「……よろしい。参ろうか」


 薄闇の中で篝火が焚かれ、二人の戦士は戯れるように互いの得物を振るった。


 

 ウファーゴ王の治世四年、晩春。アメンブルクに駐留していたレムレスカ帝国軍部隊は、その規模を大きく縮小し、実質解散した。一部は領内の同国人のために残り、他の物は帝国属州へと帰還し、除隊者は近郊の村へと流れた。


 駐留部隊を率いていた帝国貴族、スピネイル・ハジャールは任を解かれ、彼女の領地であるウェイダ村へ、モグイ族の従者を共として赴くのだった。


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