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姫騎士の敗北

 剣筋が通らない、という経験は初めてだった。


 リシン・ダオの動きはスピネイルの知っている戦士の体捌きとは少し異なっていたが特筆するほどでもなく、その速さやキレも標準よりやや巧い程度と見ていた。


 リシンは手の棍棒を叩きつける、あるいは鋭い石突を槍のように繰り出す。スピネイルはそれを余裕をもって躱し、返す体の動きで抜刀、手首を切り飛ばすべく迫った。


 だがその切っ先はリシンの皮一枚切ることが出来なかった。太い太い大木の幹に打ち込んだように刀の動きが止められたのだ。リシンの手は触れていない。軽くかざしているだけだ。


「その刀で余を切ることは出来ない」


 涼しい声音が癇に障る。スピネイルは黒玉の瞳を紅に光らせて刀を乱舞させた。


 尋常な立ち合いなら相手を四散させるに足る斬撃は、ただの一度も通らなかった。


「どうした小さき者の女」

「黙れ! これもお前の呪いか!」

「如何にも。余が触れていた物に及ぼす『念動力』である。その刀はもともと余の持ち物だったのだからな。故に、このようにもできる……!」


 突如、スピネイルの持つ刀が独りでに動き出した。リシンの手元へ向けて引っ張られているのだ。


「く、この……!」スピネイルが驚くほどの力が掛かっていた。

「ほう、抗しうるのか。では……」


 はたと引っ張る力が無くなり、踏ん張っていたスピネイルの体が泳いだ。と同時にリシンが棍棒を振りかぶって飛び込む。


「は!?」間一髪スピネイルはそれを避け、地を転がりながら距離を取った。


 同時に刀を鞘に納め、鞘に巻いた鎖分銅を解いた。


「お前の言うことが本当なら、この鎖を止めることは出来ないはずだ」


 分銅が風を切って回転する。徐々に加速し、先端が視認出来ないほどになる。


「ふふふ、ならば他の術を使うとしよう。むん!」


 リシンの突き出された掌から閃光が生まれた。スピネイルはそれを直観に従って横っ飛びに躱す。


 スピネイルの立っていた位置に稲妻めいた光が着弾して地面を砕き、芝を焼く。


「余の『雷光』はそう何度も躱せる代物ではないぞ」

「試してみれば、分かるさ!」


 スピネイルの手から鎖が飛んだ。拳大の鉄球がまっすぐリシンの顔面を狙いすます。


 リシンはそれを辛うじて棍棒で払い飛ばした。棍棒の幹をえぐった分銅が投擲されたのとほとんど変わらない速さで引き戻される。


 スピネイルの手に分銅が戻ってくる間もなく、リシンから二度目の雷光が飛んだ。再び回避に成功、しかし最初よりも余裕がない。


 手元に戻った鎖に再び加速をつけるべく回転を加えるスピネイルは、それを少し前方へ傾けて楯とした。回転する鎖越しにリシンを見る。


「それで身を防いでいるつもりか?」


「さてね……」正直なところ、スピネイルは攻めあぐねていた。リシンの放つ雷光はまさに光の早さで飛ぶので、瞬を捉えなければ躱すことが出来ないのだ。そして鎖を放った後にそれを引き戻すまでの間、自身が無防備になる。


 リシンは棍棒を前に突き出すように構えていた。スピネイルの鎖を撥ね退けると同時に雷光を放つに違いない。


(あの棍棒、意外と邪魔だね)


 睨み合った両者はじりじりと動いた。


 と、その時。別所で戦っていたもう一組から流れてきた一発の火球が二人の間をすり抜けた。


 スピネイルは動いた。最初よりも加速された鎖分銅がリシンに飛ぶ。リシンもそれを受けるべく目で追った。


 スピネイルは分銅が棍棒に当たる寸前に手首を使い、それまで一直線に伸び切っていた鎖を撓ませた。強かに受け止めるつもりだったリシンの手元で鎖が蛇のようにしなり、棍棒に絡みつく。


「む?!」


 ずっしりとした分銅の重みがリシンの腕に伝わった。と思った途端、しっかり握っていたつもりの棍棒が跳ねた。スピネイルが鎖を引き戻したのだ。


 リシンは不快に目を細めながら、雷光を放つ。


 スピネイルは鎖を引き戻しながら跳ぶ。右足に衝撃が走った。


 転げながら戻した鎖から棍棒を取って陣外に捨て、片膝立ちになって構える。


「次の鎖は防げないな」

「そなたも次の雷光は躱せまい」


 沈めた右足が焼けるように熱く、感覚がない。さっきまでのように跳ぶことは出来ないだろう。


「次で終わりだ……ふん!」


 リシンの手から雷光が発射される。スピネイルの手からも鎖が放たれる。


 二つの飛翔物は両者の中間点で激突した。砕け散った雷光の中から分銅の黒い光沢が飛び出してリシンの腹にぶち当たった。


「ぐふっ」スピネイルははっきりとリシンの呻きを聞く。そして這うような動きで、片手片足を使い、低く飛んだ。


 鎖を引きながら鞘の先を突き出した。リシン・ダオの脳天は固く革で締められた硬木の鞘でかち割られるはずだった。


 

 背中を激痛が襲った。


 

 姫騎士は原野の草地に、うつ伏せに倒れた。


 その背中には、彼女が投げ捨てたはずの、リシンの杖が突き刺さっていた。


「はぁ……はぁ……うっ」痛みの余り、息が苦しかった。


 ねめつける様に見上げると、リシンが手をかざして俯いていた。


「……惜しかった。今少し遠くへ杖を捨てていれば、余の念動力の届かぬ所へ捨てていれば、そなたの勝ちもあったものを」


 リシンの手が力強く握り込まれる。同時に突き刺さった杖がより深くスピネイルの体へねじ込まれた。


 悲鳴は上げなかった。懸命になって飲み込んだ。


 一筋の鮮血が口の端からこぼれた。


「余の勝ちだ。小さき者の女よ」


 ゆっくりと近づき、リシンは言った。スピネイルの背中から杖を引き抜くと、足で彼女を転がし、胸を踏みつけた。


 先ほどまで肉に食い込んでいた赤く染まった石突が柔らかい首筋を狙って突き出され、皮一枚で止まった。


「それともまだやるか?」


 オークの平均より劣るとはいえ、人間の少女の体であるスピネイルから見れば、リシン・ダオは巨漢と言うべき男だ。拳を振るっても届きはしない。


 血の香る息を吐きながら、そして無念の意思を込めながら言った。スピネイルは残念なことに、それが分かるだけの冷静な精神を残していた。いっそ破滅的闘志に身を委ねて嬲り殺された方が清々しい!


「私の負けだ……リシン・ダオ」


 

 体中から薬の匂いをぷんぷんと漂わせ、微動だにしていなかったが、スピネイルは覚醒していた。


 野営地に担ぎ上げられて収容され、傷の手当をされている間も、こうしている今も、目は溶けそうなほど焼いた鉄のように真っ赤に光っていた。


「酷く臭うでしょ? 下がっていていいのよ」

「お嬢様からしていると思えばなんのことはありませんわ」


 むしろ芳しいです。と言いたかったが、そんな雰囲気でもないのでインファは言葉を呑み込んだ。


 決闘は事実上引き分けになり、互いの要求は飲まれることなく流された。


 今は両軍とも、前夜と同じように自陣に戻り沈黙している。


 ブッフケルンからの輸送隊を待つ、そのための時間を稼ぐという意味では、今回の決闘はスピネイル達の勝ちだったと言える。


 だが単純な勝負の次元で負けていたことが、スピネイルの戦士としての矜持を酷く傷つけていた。それが他者から子供っぽく見えていることにも気づいているが、不快なことには変わりない。


 こういう時、インファは彼女がどういう行動を取るのかよく知っている。まだ幼い頃、ホン・バオ・シーだった頃も、こうして不機嫌の極みになると、誰の言動も撥ね退けてじっとうずくまっているようになるのだ。


(涙を流さなくなったのは、成長の証なのでしょうか)


 大きな体を丸めていた昔をほんの少し思い出し、今に戻る。スピネイルの体は魔術人の呪いを寄せ付けないため、ヨアレシュによる癒しの呪いを受けられない。そのため傷を癒すために使える薬品類が限られた。


 だから、あのように目を光らせて肉体を活性化させているのも、傷の治りと言う目で見ればそう悪いことではない。問題は、スピネイルの気持ちだった。


「あのリシンと名乗った男、海の向こうにあるブレッドヴァルという場所から来たそうね」


 ぽつり、ぽつりとスピネイルが口を開く。


「仄聞すると、そのようですね」

「ブレッドヴァルってどんなところか、インファは知ってる?」

「皆様よりは知っているかもしれません。ですがそれほど確かなことは存じませんわ」

「何でもいいわ。話して」


 人は挫折するとそれを脳裏で繰り返すことがあるという。それから遠ざかってもらえるならなんでもしてやるのがインファの務めだ。


 だから、インファは話した。


「ブレッドヴァルというのは二つの島で成り立っているそうです。小さい方がレンラント、大きい方がアルビアントと言います。その二つの島には現在の帝国人によく似た人々が僅かに暮らしていたと、モグイ族の古人いにしえびとの口伝が残っておりますわ。ですが今より三、四百年ほど昔、オーク諸族の一派とされる巨人種族が極北の地より海を渡り、元の島人を追いやって二つの島を支配したそうです。その後、そうして渡ったオーク部族は七つに分裂して、島の中で互いに争っているうちに、いつしかこのソフロニア大半島の歴史から姿を見せなくなっていった……と言ったところです」


 ブレッドヴァルとは古いオークの言葉で『離れている』という意味の語から来ている。離れた所に住んでいるオーク、その子孫がリシンたちということだ。


「元々いた島人はどうなったのかしら。奴隷にでもされたのかしらね」

「さて。何しろかの地にはモグイ族とて気やすく行ける場所ではございませんので」

「遠く離れた場所で暮らしていると、オークのような強壮な種族でもあんな風に様変わりしてしまうものなのかしら……」


「それについては私も一言言いたいことがある」


 二人が振り返ると、垂れ幕を持ち上げてヨアレシュが入ってくるところだった。手には、もったりと強いとろみのつけられた黒麦の粥の乗った盆を持っている。


「ほらよ、晩御飯。今日は血の腸詰と南洋松の身が入ってるから、傷によく効くよ」

「ありがとう。うん、いい匂いだ……!」


 目から暗い印象が拭い去った様子を見て、インファは安心した。


 三人はそのまま食事を摂った。芳しい腸詰の刻みと、甘く歯ざわりの良い南洋松の身が混じった粥は戦場で食べる最高の御馳走だった。


 腹がある程度満たされると、スピネイルは先の話の続きを求めた。


「ヨアレシュ、さっきの話の続きなんだけど……」

「うん……待って待って」三人の中で一番食べるのが遅いヨアレシュは残りの粥を一気に流し込んだ。

「へふぅ。あ~腹重い。……ええとね、おっちゃんとスピネイルが頑張って戦ってくれていたおかげで、私は近くからあの呪いもどきをじっくり観察することが出来たわけだ」


「危ない橋を渡りますわね」

「いや、実際危なかったよ。火の玉が隣に飛んできた時は正直ビビったし」


 ヨアレシュはあの時、お得意の姿晦ましの呪いを襤褸に施して、決闘の陣のすぐ近くに居たのだ。


「で、私の見たところ。やっぱりあれは呪いだね。ただし、相当に汚れて、劣化している」

「よく分からないな。どういう意味?」

「つまりだね、私らヤオジンの呪いは、それほど使い勝手が良くないのさ。呪いは掛けたら掛けっぱなし、勝手に消えたりしない。同じ場所、ものに掛けたかったら、一々前の呪いを消してやらなきゃいけない」


 なるほど、そうだ。癒しの呪いによる深い眠りでさえ、ある程度効果が出れば消してやらなければならないのだ。そういう意味では使い勝手が良いとは言えない。


 それはスピネイル自身、自分の体でよく分かっている。


「そんで、あいつらの使ってる呪いもどきはその場でだけ効果を発揮してるんだ。火の玉も雷も、発射されて砕け散ったら、それでおしまい。あの石の壁も、多分壊れたら直せないんじゃないかな」


「ほほう」ヨアレシュの指摘はいたく興味をそそられるものだ。それなら、昨日の攻めで壊れた箇所が放置されていたのも納得できる。


「それをヨアレシュ、君は魔術人の力が『劣化』したものだと考えているわけだね」

「うん。だってあれ、大したことないよ」

「ははは。死人が大層出てウファーゴ王は相当に気を揉んでいるというのに?」

「そうさ」ヨアレシュはそう言うと空になった粥の腕から木匙を取り出すと、地面に刺した。


 そして懐からアゾット剣を取り出し、指先を突いて血を一滴垂らした。


 パチン、と指を鳴らすと、湿り気を帯びていた木匙は松明のように燃え上がり、あっという間に燃え尽きた。


 だが、匙そのものが燃え尽き、もう燃えるものが無くなったはずの火はそのまま絶えず、元の木匙の形を保って燃え続け、やがて白色の塊と化す。


 手で揉み潰せるほどの小さな火とは思えない熱波が、スピネイルの天幕一杯に広がった。涼しいくらいだった夏の夜に突如、真夏の太陽が現れたかのようだった。


「ヨアレシュ、もういい、もういいよ!」

「目が、目が潰れてしまいますわ!」

「うん」二人の要請でヨアレシュは懐から呪い消しの水を出して呪いを消した。


「ヤオジンの呪いは使い勝手が悪いって言ったでしょ。あんな風に使うには力が強すぎるのさ。だから、汚れて劣化してると、私は思ったのさ」


「なるほど……」ちょっと怒ったようなヨアレシュの言い方にスピネイルは苦笑する。彼女にも魔術人……ヤオジンとしての矜持がある。小手先の力ででかい顔をしてる (ように見えている) リシンたちブレッドヴァルのオークに、何か思うところがあるのだろう。


 みんな同じだ。自分の資質に多少なりとも自信があり、それを支えに生きている。


 こんなことは挫折とさえ言えない。うじうじするまでもない。


「リシン・ダオとその一派の力の秘密が分かってきましたが、お嬢様はどうなさりますか?」

「そうだね……ドルメンの補給隊は何処まで来てるかな?」

「物が物ですから、恐らく明日の正午前には到着するのではないでしょうか」


 流石のモグイ族でも、重い砲撃槍を担いで早駆けすることは出来ない。


「……予定では、明日は象騎兵を集めて壁際まで寄って、相手を挑発してみようと思っていたけれど」

「けれど?」

「止めた。ヨアレシュ、至急用意してもらいたいものがあるんだ」

「なんだい? 私に用意できるものなんだろうね」

「それはね……」


 スピネイルはヨアレシュに耳打ちする。


「出来る?」

「そりゃ、出来なくもなかろうさ。どれだけいるのさ?」

「なるべく沢山」

「あいよ。そんじゃ私は行くね。ついでにおっちゃんに飯を届けてくるから」


 おやすみ、と言ってヨアレシュは天幕から出た。


「あの子も随分とハイゼ様に執心してらっしゃると思いません?」

「インファもそう思う? 面白いよね。向き合うと憎まれ口ばかり叩いてる気がするのに」


 晴れやかに笑い、スピネイルは横になった。


「は~、ご飯食べたり、喋ったりしたら、なんだか眠くなってきたよ」

「お休みなさいませ。私はもう少し雑事を済ませてきますわ」

「うん。お休み……」


 インファは見た。眠りにつくスピネイルの瞳は、甘くやわらかな夜の闇のような、輝く黒に戻っていた。


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