第九話 東出先生だって葛藤するんです
昨日から今朝にかけて東出先生は当直。
あらめて当直とは何ぞやと話を聞いてみると、ずっと起きているわけではなくて、交替で仮眠も取れるから、先生曰く、思っているほど過酷な状況でもないらしい。もちろんそれは、何事もない時に限ってのことだし、過酷でないというのは、あくまでも先生の主観なんだけど。
そして、当直明けの夕方には先生から電話がかかってきて、キャラメル同伴でいつものカフェで待ち合わせをして、早めの晩御飯を食べるというのが、私達の決まりになっていた。
……そう、決まりになるぐらい私とキャラメルは、先生のお宅に現在進行形で長期滞在中。気がついたらすでに、一ケ月が経ちました。なんだか時間が経つのが早すぎて、気がついたら一年も居候してました!なんてことになりそうでちょっと怖い。
そして相変わらず先生は、私が炊事洗濯掃除をするのが気に入らないらしくて、いつも渋い顔をしている。だって生活費も受け取ってくれないんだもの、そのぐらいさせてもらわなきゃ、落ち着いて生活できませんと言い張って、やっと黙認してもらっている状態だ。しかもその黙認だって渋々なんだよ? それっておかしくない? もうとっくに微熱も出なくなったって言うのに、まだ私のことを病人扱いするんだから!
「今日は急患が多い日なのかなあ……。ねえ、キャラメル。ご飯を食べずに待ってるのに、先生遅いね」
自宅アパートの更新手続きの書類を書きながら、壁の時計を眺めて呟いた。そろそろキャラメルはお腹が空いてきたのか、カリカリを入れる器の前をウロウロしている。私は我慢できるけど、ニャンコには先生の事情なんて分からないよね。仕方がない、ちょっとだけ入れておこう。
カリカリをお皿に入れたところで、鍵が開いて玄関ドアが開く音がした。あれ? もしかして私の電話、電池切れだった? 慌てて携帯電話を確認すると、まだ十分に電池は残っているし着信履歴もついていない。ってことは、先生が電話をせずに帰ってきたってことだ。
「お帰りなさーい……先生、顔色が悪いけど大丈夫?」
不機嫌そうな顔をしているのは珍しくないことだけど、今日は何だか顔色まで悪い。どうしたのかな? 体調でも崩した?
「大丈夫だ。着替えてくる」
そう言って、先生は書斎へと入っていった。最近は、私が使わせてもらっている本来の先生のお部屋から、書斎へとどんどん服が移動中なんだよね。しかも寝るのはリビングのソファ。なんだか申し訳なくて、元気なんだからそろそろベッドを明け渡しますと言っているのに、それも聞き入れてもらえない。これじゃあ、どっちがこの部屋の主か分からないじゃない? 先生は病院で慣れているから気にするなって言うけどさ。
しばらくして、着替えた先生がリビングに出てきて、ソファにドカッと座った。そして大きな溜め息をつく。カリカリを食べていたキャラメルも何かを察したのか、先生の足元に寄ってきてニャーと鳴くと膝に飛び乗った。
「本当に大丈夫?」
横に立って、キャラメルを撫でている先生の顔を覗き込む。もしかして風邪でもひいたのかなと思って、いつも先生が私にやるみたいに、おでこに手を当ててみた。普通、かな?
「風邪なんかひいてないぞ?」
「でも顔色が悪いですよ? 病院で、何か問題でも起きたとか?」
「んー……」
顔をしかめたところを見ると、どうやら図星みたい。あ、もしかして噂の事務局長さんと、とうとう大喧嘩しちゃったとか?
「守秘義務があるのは分かってますけど、話したらすっきりするかも? まあ、私にはお医者さんの話なんて、半分も理解できないと思うけど……あ、四分の一以下かもだけど」
そう言いながら先生の横に座った。ちょっと間があって、先生が口を開いた。
「日付が変わる直前に急患が運ばれてきた。交通事故で、自転車で走っていたところを突っ込んできた大型車両にはねられたらしくてな。うちに運び込まれてきた時は、すでに心肺停止状態だった。亡くなったのは、四月から社会人になる女の子だった」
「ってことは、高校か大学を卒業したばかりってこと?」
「ああ。なんとか蘇生しようとしたが、助けられなかったよ。事故の原因は、相手の車の居眠り運転らしい」
先生は溜め息をついて、キャラメルを膝から下ろして立ち上がると、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを出して戻ってきた。そしてソファに再び座る。そんな先生の膝にキャラメルはまたよじ登って、先生の顔を見て一声鳴くと毛づくろいを始めた。
「かけつけた親御さんが、えらく取り乱してな。うちの研修医につかみかかって、大変だった」
「それで落ち込んでるの? その子を助けられなかったから?」
その問いかけに、先生はビールを一口ゴクリと飲んだ。
「言葉は悪いが、こういうことは救命救急では珍しい事じゃない。しかしそのたびに思うんだ。他にもっと良い治療方法があったんじゃないか、もしかしたら助かる手段があったんじゃないかってな」
「でも、東出先生も研修医の先生も、その時その時で精一杯のことをやってるんでしょ?」
「それは間違いない。その時点で出できる限りのことをする。それが俺達の仕事だ。……なんだ?」
私が先生の頭を撫でたので、変な顔をしてこっちを見る。
「えっと、どう慰めて良いのか分からないし、よしよしってすることぐらいしか思いつかなくて」
先生は物凄く困惑した顔をしていたけど、やがて口元に笑みらしきものを浮かべた。
「だったら、この程度のことはしてくれると嬉しいんだが」
そう言って腕を私の腰に回して抱き寄せると、私の頭の上に顎を乗せた。先生的には、よしよしって頭を撫でられるよりも、ぎゅっとハグされた方が良いってことらしい。
「他の先生と慰め合ったりしないの?」
抱き締められながら尋ねてみる。
「他の連中はともかく、俺が弱気になったら示しがつかんだろう。なにせ救命救急は最後の命の砦だ、そこの大将がメソメソしていたら統率が乱れる。それに、こんなことをしたら変態だろ。看護師はともかく、医者は男しかいないんだら」
あの時の三人の若い先生達と、東出先生が抱き締めあっているところを想像して、変な笑いが込み上げてきた。うん、たしかにちょっと変態ちっくで色々と誤解されそうだから、やめておいた方が無難っぽい。
「これは特別って言うか……言ってるのはそういうことじゃなくて」
さらに引き寄せられて、いつの間にかキャラメルに代わって私が先生の膝の上に座っていた。場所を取られたキャラメルは抗議の声をあげながら、私の膝の上に爪を立ててよじ登ると、先生の胸のあたりに前足を伸ばしてきた。それを見て先生が笑い声を漏らす。
「一人と一匹に慰められるのが、クセになりそうだな」
「今まではどうやって乗り切ってきたの?」
「できる限りのことはしたと自分に言い聞かせ、考えないようにしてきた。すぎたことを考えても、失われた命は戻ってこないからな。それに次から次へと患者は運ばれてくる。感傷にひたっているヒマも時間も、俺達には無いのが実情だ」
「ふーん。じゃあ今夜は例外なんだ?」
「急に弱音を吐きたくなったというところだな」
先生がどんな顔をしているか知りたくなって、そっと見上げてみる。ちょっとだけ自虐的な考えに陥っている感じ? それとも弱音を吐きたくなった自分に戸惑っている感じ? とにかく、いつもとはちょっと違う表情をしていた。
「聞くだけならいつでもどうぞ? だけど毎回これは困るかな」
「どうして?」
「ほら見て、キャラメルの爪が食い込んで血が出ちゃってる。先生が弱音を吐きたくなるたびにこれじゃあ、私の足がボロボロになっちゃうもの」
部屋着にしているスウェットパンツに小さな穴があいて、血がにじんでいるのを指さした。
「爪切りでちゃんと切ってやらないと、爪とぎだけじゃ駄目だな。そのうち俺の服にも、穴をあけられそうだ」
気が晴れたらしい先生は、笑いながら私とキャラメルを膝から下ろしてくれた。そしてその視線が、テーブルの上に置かれていた書類の上で止まる。
「これは?」
「ああ、それはね。今住んでいるアパートの更新手続きの書類。四月からの分だから、そろそろ出さないといけないの」
先生はしばらく、不動産会社のロゴマークが印刷されている封筒を見下ろしていた。
「なあ。君さえ良ければ、ここにずっと居てもかまわないんだぞ。ここはペット可の物件だから、猫のことも心配する必要も無い」
「え?」
意外な言葉にびっくりしてしまう。
「ここに留まれば、少なくとも家賃分は浮くわけだし、必要経費の算段で毎日頭を悩ませる必要もなくなるだろ。微熱が続いていたのは、ストレス性の発熱だった可能性もある。ここでのんびり暮らしたらどうだ。それに……」
「それに?」
先生は、少しだけ困ったような顔をした。
「俺としては、ずっと居てくれると嬉しいんだがな、君も、猫も」
「えっとそれって……どういう?」
大きな手が私の頬に添えられて、先生の顔が近づいてきたかと思ったら、唇に温かくてちょっとかさついたものが重なって、口の中にビールの味が広がった。
「つまりこういうことだ」
唇に押し当てられたものが離れたので思わず閉じた目を開けると、先生が怖い顔、じゃなくて真面目な顔をして、私のことを見詰めていた。