第四話 二人と一匹、初めての晩御飯
お店の中は、ワンコやニャンコのグッズであふれていた。「売り物じゃないけど、好きに見てもらって結構ですよ」って店長さんに言われて、嬉しくなってあっちこっちを見回しながら、テーブル席に座った。
「うわあ、可愛い♪」
テーブル席に座ってからあっちこっちを見ていると、奥の壁にかかっている時計が目についた。茶トラ猫の振り子時計で、振り子の部分が猫の尻尾になっている。
「あ、あの壁にかかっている時計、近くで見たい」
「その前にこっちを決めろ」
東出先生は、立ち上がりかけた私の服の袖をつかんで座らせると、目の前にメニューを突き出した。
「……あ、すみません。えっと……この和風ガパオライス……って?」
「普通のガパオライスは、香辛料やニンニクが使われているんですが、それが苦手だとおっしゃるお客さんも少なくないので、そういうお客様用に、うちがアレンジしたものなんですよ」
お店の人が、私の質問に説明をしてくれた。なるほど。私、辛い物が苦手だから、エスニック料理で食べてみたいなと思うものに出会っても、なかなか注文ができないんだよね。味は本場とちょっと違うかもしれないけど、食べた気分は味わえるかな?
「へえ……。じゃあ、私は和風のほうをお願いします」
「じゃあ俺はいつものを。ドリンクは俺はアイスコーヒー、そっちは?」
「温かいほうじ茶で」
「分かりました。猫ちゃんは、なににしましょうか?」
お店の人がバスケットを指さした。
「えっと……?」
まさか、この子の注文まで聞かれるとは思わなくて困っていると、東出先生が、メニューの後ろのページを開いてくれた。そこにはワンちゃん用、猫ちゃん用のメニューが書かれている。
「おお、芸が細かい~」
「かなり小さい子猫なんだ。まだ、生まれてそれほど経っていないと思う」
「じゃあ、子猫のミルクで良いですかね」
「それで頼む」
「あ、それと、走り回らない限り、猫ちゃんをバスケットから出してもらっても、大丈夫ですよ」
お店の人がテーブルを離れたところで、先生がバスケットを開けると、子猫が顔を出してミャーミャーと鳴き声をあげる。まるで、狭いところに閉じ込められていたのを、抗議しているみたい。
「獣医には?」
「今日は休診日なので、明日、連れて行こうと思ってます」
「まあ元気そうではあるが、野良はどんな虫を飼っているか分からんからな。診てもらう方が安心だ」
先生は大きな手で子猫の頭を撫でた。タオルで拭いていた時も思ったけど、大きな手なのに子猫を触る手つきはとても優しそう。あの手で撫でられたらどんな感じがするんだろう?なんて、ちょっと関係ないことが頭の中を横切っていく。
「名前は決めたのか?」
「まだなんですけど、明るい茶色だからキャラメルはどうかなって」
「……キャラメル」
先生の口元がムニュッと歪んだ。
「え、変ですか? 可愛いと思うんだけどな。だったら先生は、どんな名前が良いと思うんですか?」
「…………」
先生は猫を撫でながら考え込んでいる。なんだか目つきが極悪な感じだ……ああ、これが世に言う強面さんってやつなのか。一度も私が描いたことのないタイプだ。しっかり観察して、次に男の人のイラストを描く時の参考にさせてもらおう。
「川で拾ったんなら、リバーとかそんな感じならどうだ」
「うーん、それって男の子みたいな名前じゃないですか。この子、女の子ですよ?」
「じゃあリバ子?」
ちょうど店員さんが、ミルクを持ってきたタイミングだったので、お姉さんが横でフフッと吹き出した。そして子猫も、合いの手を入れるようにミャーと鳴く。
「女の子の名前だからって、子をつけたら何でもそれらしくなるってわけじゃ、ないんですけど……」
「……リバ美?」
「だからそうじゃなくて……」
子猫が、ミャーッと甲高い声で抗議をするように鳴いたので、先生は困った顔をした。
「……まったく浮かばん。いっそのこと、猫田リバ子でどうだ」
「もう! いい加減に川から離れましょうよ。ねえ、困った先生ですねえ、ミルク、飲もうね~」
店員さんが持ってきてくれたのは、小さな哺乳瓶に入れられたミルクだった。子猫を抱いてから、ゴム製の乳首を口元に持っていくと、スポイトやお魚の醤油さしとは比べ物にならないぐらい、元気よく飲み始めた。やっぱり哺乳瓶が飲みやすいんだ、さっきのペットショップで買っておいて良かった。
「タマやミケなんていう、昔ながらの名前じゃ気に入らないんだろうな」
「イヤです」
「トラ子」
「却下です」
「トラ江」
「なんか、昔のギャグ漫画に出てきそう」
そんな感じで、子猫がお腹いっぱいになって満足して、私の注文した和風ガパオライスと、先生が注文したタイ風ヤキソバが出てくる頃には、この先生には猫ちゃんだけではなく、ペットに対するネーミングセンスがまったく無いってことがはっきりした。お医者さんだから頭は良いはずなのに、ネーミングセスがゼロというのは、なんだか意外な感じ。
「もし、自分が猫を飼うとしたらどうするんですか、名前」
「猫って名前をつける」
ダメじゃん……。
「やっぱりキャラメルにします。先生に任せたら、リバリバとか川太郎とか、変な名前になっちゃいそうだし」
「なんだ、俺に命名権を譲ってくれたわけじゃないのか」
「だってリバ子とか有り得ない。キャラメルが可愛いです」
先生は思いっ切り異議ありって顔をしたけど、リバ子より断然キャラメルって名前が可愛いと思う。
「ところで先生は、このお店の常連さんなんですか? ほら、注文をする時に、いつものって言ってたでしょ?」
その言葉に、店員さんも特に戸惑った様子も無かったし。
「仕事の帰りに立ち寄るって言っただろ? 最近は、何処に立ち寄るか考えるのが面倒なんでな。ここだと、自宅に戻る途中で楽なんだ」
「お家でご飯作ってるのにって、叱られません?」
「誰に?」
「誰にって奥さんですよ。あ、それとも奥さんもお医者さんで遅いとか?」
「いや、俺は独身だ」
先生の口調が、ぶっきらぼうなものになる。
「……」
「なんだ、その沈黙は」
「え、いえ、ごめんなさい。特に意味は無いんです、うん、そうなのかーって思っただけ……」
「変なことを考える前に言っておくと、離婚したわけでもない。勝手に、俺の人生を波乱万丈なものにするな」
「あ、はい」
病院での仕事が激務すぎて、奥さんに逃げられちゃった可哀想な先生ってのを、勝手に頭に浮かていたので、先生のその言葉に慌てて打ち消す。
それから食後のデザートに、ここの奥さんお手製のブランマンジェを食べて、お腹がいっぱいになる頃には、夕方のお散歩帰りの、ワンちゃんと飼い主さんが何人もお店にやってきて、結構にぎやかなことになっていた。しかも、どのワンちゃんもとてもお行儀が良く、ちゃんと躾けをされているんだなって感心してしまう。
「そろそろ出るか?」
「そうですね、キャラメルも寝ちゃったみたいだし」
「ん。慌てずに出る準備をすれば良いから」
そう言って先生は、テーブルに置かれたお会計伝票をさっと取り上げて、席を立った。コートを着て、バスケットとバッグを持ってレジにたどりつく頃には、すでにお支払いは終わっていた。
「こんな小さなお客さんは久し振りで、哺乳瓶があって良かったですよ、また来てくださいね、お待ちしています」
お店の御主人はそう言って微笑むと、ショップカードをくれた。ここにも可愛い猫ちゃんのイラストが描かれている。誰が描いたのかな、もしかして御主人が自ら? もっとお近づきになってから、それとなく聞いてみよう。お店の外に出ると、すっかり日が落ちていた。
「今日は御馳走様でした。なんだか申し訳ない気分です」
「気にするな。誘ったのは俺だ。ところで、ペットショップでなにか買ったとか言っていたが、荷物はどうした」
「お店が閉店してから届けてくれるんですよ。閉店してからだから、あと一時間後ぐらいかな。十分に間に合います」
腕時計を見ながら答える。
「送っていこう」
「いえいえ、もうすぐそこなので」
「なにか言ったか?」
こっちを見下ろす顔がちょっと怖い。
「……いえ、送ってくださってありがとうございます」
よろしいと東出先生はうなづくと、私の横を歩き始めた。そして、東出先生に送ってもらって分かったことが一つ。先生の自宅があるマンションは、うちのアパートの窓からもよく見える、比較的新しいマンションだった。つまりは私と東出先生は、そう遠くはないどころか結構な御近所さんってこと。
+++++
そして、帰ってからペットショップの人が買った商品を届けてくれた後、なんとなく描きたい気分になったので、スケッチブックを引っ張り出して、子猫とちょっと強面な男の人のツーショットを何枚か描いた。描き始めると意外とお似合いだったので、さらに数枚描いて色づけもしてみる。
途中でキャラメルのミルク催促で作業は中断したけど、そのツーショットを描いたことが良い気分転換になったのか、途中で放り出していたイラストの仕事が嘘のように進んで、夜明け前に完成させることができた。
「キャラメル、やっぱり君は福を招くニャンコかもしれないねえ……」
膝の上で丸くなって寝ているキャラメルを見下ろしながら、私はそんなことを呟いた。