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第二話 一人と一匹を診察

 水を吸って重たくなった服は、洗えるものは洗って乾燥機で乾かしてきますねと、着替えを手伝ってくれた看護師さんが持ち去ってしまい、残された私は、人気のない診療室のベッドに座って、お茶を飲みながら、あらためて周りを見回した。資料でしか見たことのない医療器具が、あっちこっちに置かれている。


 ここは、よくドラマで見るような救命救急センターそのものだ。後々のために、スケッチをしておきたいなと思ったけど、カバンは水浸しで、使えるような筆記具もメモ帳も残っていない。だからせめて、今のうちにしっかりと目に焼き付けておかなければと、人がいないのを良いことに、あっちこっちに視線を巡らせた。


 そんなことをしているうちに、廊下から子猫の鳴き声が聞こえてきて、最初に出迎えてくれた先生が顔を出した。


「もし良ければ、こっちの控室に来なさい。ヒーターを入れておいたから、ここより温かいはずだ」


 ぶっきらぼうな口調でそう言うと、私のことを手招きした。


 慌ててベッドから降りると、出してもらったスリッパを履き、重たくなったカバンと、お茶が入っているプラスチック製のコップを持って、先生の後ろについていくことにする。廊下を歩く間も子猫は鳴き続け、先生が「腹が減っているのは分かるが、いい加減に静かにしないか」と話しかけているのがおかしくて、つい笑ってしまった。それが聞こえたのか、振り返った先生が顔をしかめる。


「笑いごとじゃない。衛生面からすると動物、しかも野良猫を院内に入れることは非常にまずい。バレたら大問題になる」

「すみません……」

「いや……まあそれはこっちの問題だし、助けた命を放り出すわけにはいかないから、特例扱いにはなるんだろうが」

東出(ひがしで)先生、これ、猫の簡易ベッドにどうぞ」


 先生が気まずそうに頭を掻いていると、若い先生が小走りにやってきて、タオルの入った小さな段ボール箱を差し出してきた。その先生が、私を見て軽く会釈をしたので、私も頭を下げる。


「助かる。猫用物資はまだか?」

「これから引き返すって連絡が入りましたから、あと十分程度で戻ってきますよ。ペット用のウェットティシュもあったと言ってたので、猫を綺麗にしてやれると思います」

「……その世話も俺がやるのか?」

「そうですね、先生が担当医ですから」

「俺は獣医科の医師じゃないんだがな……」


 段ボール箱を受け取ると、先生は顔をしかめながら、大きな溜め息をついた。


「じゃあ、僕は救急のほうで詰めています」

「なにかあれば遠慮なく声をかけろ。吉永(よしなが)さんがこっちに戻ってきたら、一人と一匹は控室Bにいると伝えてくれ」

「分かりました。じゃあ、お大事に」


 若い先生は、もう一度、私に頭を下げて立ち去った。そして先生が連れてきてくれたのは、壁際に二段ベッドが設置されているそこそこ広い部屋。テレビだけではなく本棚もあって、誰かが読んだであろう漫画雑誌が、テーブルに放り出されていた。


「君が一人なら、診療室で服が乾くまで待っていてもらうんだが、猫もいるのでな。申し訳ないが、ここにいてもらうことにした」


 そう言いながら、窓際の引き出しから大きなゴミ袋を引っ張り出し、私に突き出してくる。


「?」

「カバン、そのままにしておいたら、床に水溜りができて後の掃除が大変だから、乾かしたいものだけテーブルの上に出して、あとはこれに入れておけ」

「あ、すみません」


 ゴミ袋を受け取ると、カバンをそのまま放り込む。


「良いのか? 携帯電話とか財布とか」

「どのみち、もう使い物にならないでしょうから……」


 私の言葉に納得したようにうなづくと、先生はテーブルを挟んで反対側に座り、段ボールの小箱をテーブルに置いてから、鳴き続ける子猫をタオルで拭き始めた。見た感じ、いかつくて大柄な先生だったから、子猫が乱暴に扱われたらどうしようって内心は心配していたけど、意外と優しい手つきなので安心した。


「ところで、この猫はどうするんだ?」

「うちがペット可のアパートなので、引き取るつもりです」

「そうか、なら安心だな。……いや待て。これだけ小さかったら、そこそこ育つまで世話が大変で、外出もままならなくなるんじゃないのか? そのへんは大丈夫なのか?」

「在宅の仕事なので問題ないですよ。それに、前にもこのぐらいの小さい子の、お世話をしたことがありますから」

「なるほど」


 ドアがノックされて、また違う先生が顔を出した。その手にはレジ袋がぶら下がっている。


「お待たせしました。猫ちゃん用のミルクとウェットティシュです。さすがに哺乳瓶は売ってなかったんで、これ、使えるんじゃないかって葛西(かさい)が。あ、ちゃんと念入りに消毒しておいたから、心配ないって言ってました」


 先生が手にしているのは、よくコンビニ弁当に入っている、お魚の形をした醤油入れ。


「うちの救命救急が動物病院化しているな……」

「私、ミルクの用意しますね。ありがとうございます。後でお代金お返ししますから」

「いやいや、このぐらいどうってことないから、気にしないでください。じゃあ、お大事に」


 先生はにっこりと微笑むと、部屋から出ていった。


「あとのお世話は私がしますから、先生はお仕事に戻ってください」

「綺麗にするぐらいなら、俺にもできる」


 そう言って先生は、レジ袋の中からウェットティシュを引っ張り出した。


「ところで、なんでまた、猫と一緒に川に流されることになったんだ? まあ、だいたいの見当はつくんだが」


 目やにが凄いことになっているぞと言いながら、子猫の顔を拭いていた先生から、いきなり質問が飛んできた。


「えっと、実は今している仕事で、ちょっと煮詰まってしまって。夜明け前に近所のファミレスに行って、その帰り河川敷を散歩していたんです。そしたら、その子の鳴き声が聞こえて。探したら、段ボール箱ごと流されてるのを見つけたので……」

「鳴いていたのはこいつ一匹だけ?」

「もしかしたら、他にも兄弟がいたのかもしれないんですけど、私が見つけた時はこの子だけでした」

「そうか。こいつは運が良かったんだな」


 私が見つける前に、溺れ死んだ子がいるかもしれないと思うと辛いけど、この子だけでも、助けられて良かったと思う。


「だが、増水した川に単身で踏み込むとは、愚の骨頂だな。猫を助けたい気持ちは分からんでもないが、この場合は119に通報するべきだった。君もこの猫も運よく助かったから良かったものの、新聞配達をしていた人が見つけてくれなかったら、そのまま溺死していたかもしれないんだぞ」

「……すみません。あんなに川の流れが強いとは思わなくて……」

「まあ、気持ちは分からんでもないが……うわっ」


 顔をしかめていた先生が、慌てた様子で両手で子猫を持ち上げた。タラタラと子猫から垂れている水。多分おしっこだ。


「まったく、お前ってやつはせっかく綺麗にしてやったのに、なんで尿を漏らすんだ……ミャーじゃないぞまったく」

「先生、おしっこが出るところを拭いていたでしょ? 子猫って、最初の頃は親猫が嘗めて刺激を与えないと、おしっこもうんちもしないんですよ」

「つまりはこの惨状は、猫のせいではなく俺のせいと言うわけだな……」

「そういうことですね。あ、私が代わります」

「やれやれ、慣れないことはするもんじゃないな」


 先生はぼやきながら、子猫を私に差し出した。丁寧に拭いてもらったお蔭で、ずぶ濡れだった体も随分と乾いたようだし、目やにだらけだった顔も綺麗になっている。明日にでも本当の獣医さんに連れて行かなくちゃ。あ、その前に銀行でお金を下ろさなきゃ……水に浸かったキャッシュカードは、ちゃんと使えるかな……?


「すまないが、着替えてくるので席をはずすが、大丈夫か?」


 気がつけば、立ち上がった先生がこっちを見下ろしていた。


「ミルクを飲ませて、ヒーターの前に箱を置いて暖かくしていたら、大丈夫だと思います」

「猫じゃなくて、君のことを尋ねたんだが……」

「あ、ごめんなさい。私もお蔭さまで大丈夫です!」


 部屋を出ようとした先生が立ち止まる。


「ああ、そう言えばまだ名前も聞いていなかったな。そちらの名前は? 猫ではなく人間の」

猫田(ねこだ)です。猫田(ねこだ)(めぐみ)

「猫……」


 先生が口元が歪んだ。


「人に名前を聞いておいて、笑うことないじゃないですか、たしかに変わった苗字だとは思いますけど。えーっと、先生は……と……とう、でる?」


 先生が首から下げている、IDカードに印字された文字を読もうとして、首をかしげる。下にローマ字で読み仮名が書いてあるんだけど、反射してここからじゃ読めない。


「ひがしで、だ」

「ああ、東出(ひがしで)って読むんですね、なるほど」


 それから看護師さんが服を届けてくれるまで、私は控室で子猫と一緒に隠れていることになった。子猫がここにいることは秘密のはずなのに、なぜか看護師さんが差し入れと称しては、ひっきりなしにやってきて箱の中を覗き込んでいく。子猫はちょっとしたアイドル扱いだった。



+++++



 それからしばらくして、着替えを手伝ってくれた看護師さんが乾いた服と、裸足よりはマシだからと、ナース用のサンダルを持ってきてくれた。はあ……あの靴お気に入りだったのに、今頃どの辺を流れているんだろう。


 子猫はお腹がいっぱいになったのか、今は大人しく箱の中で丸くなって眠っている。東出先生が箱ごと入れていけと、まちの広い紙袋を持ってきてくれたので、そこに入れて連れて帰ることにした。


「色々とありがとうございました。その、専門外だったのに」

「まあこ、ういうこともたまにはあるさ」


 先生に伴われて病院の玄関口に向かうと、すでに外は明るくなっていた。


「もし気分が悪くなったら、ここじゃなくても良いから病院に行くように。川の水には、どんな菌が潜んでいるのか分かったものじゃないからな」

「はい」

「支払いに関しては、猫の世話もあるだろうし、都合のつく時でかまわないから慌てなくていい」

「ありがとうございます」


 ドアのところで、お世話になりましたと頭を下げて立ち去ろうとしたのに、東出先生はそのまま後ろからついてきた。


「あの……?」


 エントランスに一台のタクシーが入ってきて、私達の前に止まった。


「さすがに、重たいカバンと猫を連れて、歩いて帰るわけにもいかないだろ。乗ってけ」

「え、でも私、今はお金が……」


 東出先生は運転席の方へと回り込むと、ポケットから出した紙幣を何枚か、運転手さんに手渡している。


「自宅が何処かは知らんが、これだけあれば充分だろ。うちの大切な患者さんだ、よろしく頼みます」

「分かりました。お嬢さん、どうぞ」

「あの、ちゃんと返しますから!」

「あてにせずに待ってる」

「いえ、本当にちゃんと返しますからね!」

「分かった分かった。さっさと帰って、猫の世話をしてやれ」


 先生はうるさそうに手を振ると、私がタクシーに乗り込むのを見届けることなく、病院内へと引き返していった。

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