第十六話 番猫継続中
そして翌日、朝ご飯を食べているお兄さんのことを、キャラメルは相変わらず胡散臭げな顔で、遠巻きに眺めていた。お兄さんはキャラメルの視線に、物凄く居心地が悪そうだ。
「キャラメル、お兄さんに失礼だよ?」
そう言って聞かせても目つきは悪いまま。ちょっとでもお兄さんが動いてキャラメルとの距離が縮みそうなものなら、唸らないまでも鼻にシワを寄せてイカ耳状態。そして私の近くにお兄さんが立ったら、物凄い唸り声をあげて駆け寄って来るんだもの、一晩明けても番猫モード全開って感じだ。
「そんなに睨まなくても良いのに。俺は君の御主人様になにもしないよ」
お兄さんが話しかけても胡散臭げな顔のまま。まだ、シャーッて言わなくなっただけでもマシかもしれない。
「そのうち慣れると思うので、気長に付き合ってやってください」
「俺、めったに来ないからきっと忘れられちゃうよね。ここに来るたびに唸られるのは、ちょっと切ない気がするな」
見るからに厳ついお兄さんが、子猫に唸られてビクビクしているのは、見ようによっては微笑ましい感じではあるけれど、唸られるお兄さんからしたら困った事態だよね。来るたびにこれじゃあ、ちょっと気の毒かな。キャラメルがもう少し、態度を軟化させてくれれば良いんだけれど。
「しかたがない、諦めろ」
先生は先生で、お兄さんにまったく容赦ない。とは言えこの状態のお蔭で、お風呂場でなにも着ていないお兄さんと、御対面してしまった気まずさを感じなくて済んでいるのだから、その点ではキャラメルに感謝なのかもしれないけど。
「克俊は威嚇されたりしないのか?」
「俺は最初から問答無用で世話したからな。ピャーピャー鳴かれる以外、唸られたことは一度もないぞ」
「うらやましい……」
あれ? もしかしてお兄さんは猫好き?
「あの、お兄さん、もしかして猫ちゃん好きなんですか?」
「うちの嫁と結婚した時に、嫁入り道具と一緒に猫もやって来てね。二年前に老衰で死んじゃったけど。賢い爺さんで、なかなか自宅に戻れない俺に対しても不思議とよく懐いていたなあ」
だから余計に、キャラメルの態度が切ないってことみたい。
「それよりもちゃんと家に帰れよ、猫に顔を忘れられるのは良いとしても、子供達に顔を忘れられでもしたら一大事だろ」
そんなに自宅に戻れないものなの?と驚いていると、護衛艦や潜水艦で勤務している海上自衛官さんは、これが普通なんだよってお兄さんが教えてくれた。人によっては、一年の半分ぐらい、家族に行き先も告げらない状態で海に出てしまうらしい。たしかに先生よりも過酷だ……。
「せっかくの休暇なんだ、ちゃんと帰るよ。克俊の彼女がどんな人か、情報を仕入れることができたし。俺が帰って報告するのを、みんなで楽しみに待ってるってさ」
「いつ連絡したんだ」
「昨日の晩」
お兄さんは、家族の話になるとニコニコしてとても嬉しそう。なかなか帰れないお仕事でも、話を聞く限り家庭は円満で、奥さんとはラブラブみたいだ。なんだかうらやましいな。
「そんなに義姉さん達の声が聴きたいなら、昨日のうちに帰れば良かったじゃないか」
「ここに来るのは家族公認で、お前の生存確認も兼ねてるんだから、良いんだよ。一人暮らしで、孤独死でもしていたら一大事だからな。ま、これからは恵さんもいるから、俺はそろそろお役御免だな」
「俺を子供扱いするのはいい加減によせ……恵もそこで笑うな」
お兄さんと先生のやり取りを聞きながら笑っていたら、睨まれてしまった。
「でも先生、上からしたら下の弟妹のことは、いつまでたっても心配なんだよ? 特に先生は末っ子だもの。ねえ、お兄さん」
私が同意を求めると、お兄さんもうんうんとうなづいた。
「そんな弟が可愛い彼女と一緒に暮らし始めたとなれば、まあアレだな。もしなにか困ったことがあれば、俺と上の兄貴に言いつけてこれば良いからね、きちんとこいつのことは叱ってやるから。後で、俺と兄貴の携帯電話の番号を教えるよ」
「おい、兄貴……」
先生がイヤそうに顔をしかめる。
「先生先生って呼ばれて、患者にペコペコされるのが当然な医者のせいか、俺様で超我が儘だろ? ま、女癖が悪くないところだけは褒めてやるが」
「おい、よせ。そういう余計なことを恵に吹き込むのは」
「ワガママだが誠実な男だって褒めてやってるんだから、文句言うな」
「それの何処が褒めてるんだ!」
先生がちょっと怒った口調で言い返したしたん、キャラメルが一緒になって唸る。その様子にお兄さんが苦笑いした。
「まったくこのチビスケときたら、まるで忠犬ハチ公だな」
お兄さんは、素早くキャラメルに手を伸ばして頭を撫でて、反撃される前にさっと手を放す。キャラメルは唸っていた相手にいきなり撫でられたものだから、一瞬だけ唸ることを忘れ、目を真ん丸にしてお兄さんのことを見上げた。そしてハッと我に返り、慌てた様子で取り繕うように体をなめはじめる。
そんなキャラメルの様子を見ていたお兄さんが、ニヤニヤしながら先生のことを見た。
「小さい頃のお前を見ているようだな」
「なんでだ」
「小さいくせに、やたらと気が強いところなんてそっくりだ」
そう言いながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて私のことを見た。
「こいつ、小さい頃の話なんて喋ったことないでしょ? そのうち話して聞かせるから、楽しみにしておいで」
「わあ、楽しみです♪ 是非たくさん聞かせてください」
「飯を食い終わったんならさっさと帰れ。俺もそろそろ出掛ける時間だ」
「つれないなあ、克俊君」
「やかましい。ここは俺の家だぞ。よけいな事ばかり喋るよそ者は、さっさと出ていけ」
先生は、お兄さんの前にある空になった食器を、さっさと自分のお皿に重ねてシンクへと持って行った。お兄さんはその様子に、やれやれと笑いながら椅子から立ち上がる。
「恵さん、朝からよけいな手間をかけさせてすまなかったね。御馳走様、美味しかったよ」
「いえいえ。もし良ければ生存確認にまた来てください。今度はお兄さんがお風呂に入っていても、ドアを開けたりしないので」
私の言葉にお兄さんは愉快そうに笑いながら、荷物を取りに私の仕事部屋へと戻っていった。
先生は、今では私の仕事部屋になっている何でも部屋を、お兄さんに使わせることに抵抗を感じていたみたい。お兄さんも、潜水艦の中の寝床のことを考えれば何処で寝ても気しないよって言ってくれたんだけどね。だからと言って、お客さんをリビングのソファや書斎の床に、マットレスを敷いて寝かせるわけにはいかないじゃない?
「先生の子供の頃の話、聞くの楽しみだなあ」
「当分は来ない」
不機嫌そうな顔で先生はそう言うと、出掛ける準備を始める。ま、お兄さんのことだから、そのうち来てくれるよね? その時まで楽しみにしていよう。そんなことを考えニマニマしながら片づけをする私の横で、キャラメルは何か言いたげな顔をしながらチョコンと座っていた。
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「ああそうだ、恵。今日からきっと帰りが遅くなると思う。夕飯は適当に食って帰るから、俺の分は何もしなくても良い」
それから三十分後、お兄さんを玄関から押し出しながら、先生が振り返った。
「そうなの? どうしてだか聞いても良い?」
「今日から、桜川の花見会場が解禁になるだろ」
「ああ、お花見って今日からだっけ。すっかり忘れてた」
だけど、それと先生の帰りが遅くなるのと何の関係が?と首をかしげる。
「毎年のことだが、遅くまで花見をしている酔っ払い連中が、うちに運び込まれてくるからな」
年末年始の忘年会新年会シーズンと、歓送迎会と時期が重なるお花見シーズンは、急性アルコール中毒で運び込まれてくる人やら、酔っ払い同士でエキサイトしちゃって喧嘩して、病院に運び込まれてくる人が増えるらしい。
「ああ、なるほど。あ、先生?」
「ん?」
「相手が酔っ払いだからって、乱暴に治療したら駄目だからね?」
「分かっている」
「すでにゲロ甘新婚夫婦だな」
押し出されていたお兄さんが、ニヤニヤしながら振り返る。
「うるさい、さっさと帰れ」
「分かってるって、そんな押すな。俺はトコロテンじゃないんだ、もう少し兄貴をうやまえ」
「やかましい、うやまわれるような兄貴になってから言え」
そういうわけで、呑気な笑い声を残してお兄さんは帰っていった。
「まったく……」
「仲良しなんだね、先生とお兄さん達」
「まあ、親父達があっちこっちをに飛び回っているせいで、家に残された俺達の結束が固くなったのは間違いないな」
お互いに、家庭を持ったらその結束も弱まるんじゃないかって先生は考えていたみたいだけれど、現実はそうでもなくて、今では家族ぐるみでそれはそれは仲良しなんだそうだ。その家族の輪に私とキャラメルも入れてもらって良いのかな? まだ私と先生は一緒に暮らしているだけで、家族っていうほど確かな関係にはなってないんだけど……。
「ねえ、一番目のお兄さんも、生存確認しにきたりするの?」
「いや。上の兄貴は病院に顔を出すことの方が多いかな」
「そうなの?」
「救命救急には、その手の怪我人も運び込まれてくるからな」
捜査一課にお兄さんは先生と兄弟ってこともあって、他の課が受け持つ事件関連でも、情報の橋渡しを兼ねて病院に顔を出すことがあるらしい。
「じゃあ俺も行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい。患者さんには優しくね」
「聞き分けの良い患者にはいつも優しいぞ」
つまりはそれって、酔っ払いさんには優しくないってことじゃ?
「鍵は持ってるから、きちんと戸締りはしておけよ。いくらキャラメルが番犬並の凶暴さでも、本気になった人間にはかなわないんだからな」
「分かってるって。そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
「ん、行ってくる」
先生がドアを閉めるのと同時に、中から先生に音が聞こえるように鍵を締める。
そしてリビングに戻る途中で、キャラメルがトイレの猫砂を掻き回している音が聞こえてきた。なんだかいつもより、激しく描き回しているような気がするのは、気のせいじゃないよね? そっとトイレが置いてある脱衣所を覗き込むと、キャラメルが真剣な顔をして砂を描き回していた。
「キャラメル、なにしてるの? あまり掻き回すと砂が飛び散っちゃうよ?」
私の声に顔を上げたキャラメルは、ニャーと鳴きながらトイレから飛び出してリビングに走っていく。そして今度はそっちからバリバリという音が。今度は爪とぎを引っ掻いているみたい。まだ子猫なのに、こういう激しいところが野良ちゃんっぽい。
「お兄さんに不意打ちでナデナデされた事が、そんなに気に入らなかったの?」
キャラメルは私の顔を見てニャーと不機嫌そうに鳴くと、さらに爪とぎを激しく引っ掻いた。