第十二話 締め出されて御立腹
そして次の週末に、ベッドが家具屋さんによって運び込まれた。本体は組み立て式だし、シーツや上掛けなんかは畳めるから心配してなかったけど、問題はマットレス。さすがにエレベーターには収まりきらず、配送業者のお兄さん達は、四苦八苦しながら階段を使って部屋に運び込んでくれた。
「先生が帰ってくるまで、寝心地を試すのはやめておこうと思ったのにまったく……」
ベッドの上で、ゴロゴロと喉を鳴らしながら寝っ転がっているキャラメルを見下ろしながら、溜め息をつく。
せっかく一番乗りをしようと思っていたのに、先を越されてしまった。一緒に使い初めしようねって言っていた先生も、今日の帰宅時間は不確定な感じだ。と言うのも、さっきのニュースで、近くの商業施設で火事があって、お客さん達が病院に運び込まれたと放送していたから。この辺の救命救急と言えば、先生が勤めている病院だし、先生は救急の主任だものね。患者さんが運び込まれたら、自分だけ帰宅するわけにはいかないもの。
「先生には申し訳ないけど、使い初めは私とキャラメルでしておこうか?」
そう言って、キャラメルの横に寝っ転がる。私が寝っ転がったのを見たキャラメルはこっちに寄ってくると、私の鼻に自分の鼻をくっつけてフンフンしてから、満足げに寝っ転がった。
「ほんと、すっごい寝心地良いよね。これだったらすぐに、熟睡できちゃうかも」
そして、夕飯を食べてお風呂から出る時間になっても、先生は帰宅しなかった。連絡を入れる時間が無いぐらい、大変なのかなと思いつつ寝る準備を始める。
「ちゃんと夕飯、食べられたかなー?」
先生だけでなく、研修医の先生達もちゃんとご飯食べられただろうか。時間が無くて、トイレに行くついでに歩きながらパンを詰め込むなんてことも珍しくないらしいし、下手すると、トイレに行くヒマも無いとか言っていたものね。救命救急って、本当に大変な職場だよ。
+++++
頬になにかが触れるのが分かって、目が覚めた。目を開けると薄暗い部屋の中、先生がこっちを覗き込んでいる。頬に触れていたのは、先生の手だったみたい。
「せんせー、お帰りー」
「すまない、起こしたか」
「いま何時ー?」
「ちょうど日付が変わったところ」
「遅くまでお疲れ様。ニュースでやってたよ? 火事で怪我した人達、大丈夫だった?」
ベッドに腰掛けた先生は、すでに上着を脱いでいた。
「ああ。火災が起きたのが商業施設だったから、運び込まれた人数は多かったんだが、幸いなことに、重傷の患者はほとんどいなかった。不幸中の幸いってやつだな」
「そっか、良かった。ご飯は?」
「いつもの店で食ってきた。シャワーを浴びる前にのぞいたんだ」
「そうだったの」
ちょっとだけ沈黙が流れる。
「……俺、ここで寝ても良いんだよな?」
「当たり前じゃない。だから新しいの買ったんでしょ? グダグダ言ってないで、早くシャワーしてきなさい」
「分かった分かった」
先生は笑いながら立ち上がって、部屋を出て行った。
それから三十分ほどして、Tシャツとトレーナーのズボンをはいた先生が部屋に戻ってきた時には、一緒にベッドで寝ていたはずのキャラメルの姿は無かった。部屋に入ってくる直前に、キャラメルの鳴き声と先生のボソボソと話す声が聞こえた気がしたんだけどな。先生が隣に体を横たえると、石鹸の匂いが漂ってきた。
「恵?」
「なに?」
返事をしたら、大きな体が覆いかぶさってきた。
「抱いてもいいのか?」
何てストレートな言葉なんだろうって驚きつつ、変に甘い雰囲気作りをしない方が、先生らしいやと思ってしまう。だから私も、ちゃんと言っておかなくちゃって思った。
「あのね先生、私、実のところ初めてで……」
「知ってた」
「え?! なんで?! どうしてそんなことが分かるの?! それって、お医者さんだから分かることなの?!」
そんなこと一度も話してないよね、私。い、いやさ、恋愛の話もしたことが無いから、話すほどの経験も無いんだろうなって思われていたなら、そうなのかもしれないんだけど!! 慌てふためく私のことを、先生は愉快そうな顔をして見下ろしている。
「これだけ俺に対して無防備に接してくるんだ。きっと付き合った経験がほとんど無いんだろうなって思ってた。そのせいで、逆にこっちは手が出しづらくなったんだがな。で、キスをした時の反応で、それは確信に変わった」
キスした時に? どうやったら分かるんだろ……。
「えっと、ほら、キスした後、なにもなかったのはそのせい?」
「これでも、こんな年上の男に縛りつけて良いものかって、随分と悩んだんだ。帰したくなくて引き止めたまでは良かったが、あの時点で恵に経験が無いことが分かって、さらに迷うことになった。で、今に至る」
「そっか。私、てっきり先生は、私に興味ないんだって思ってたよ」
「まさか。単に俺がヘタレてただけだ」
ということは、少なくともあれ以前から、私に対して先生は色々と思うところがあったんだ。
「ねえ、いつから私に興味あったの?」
「今それを聞くのか?」
先生は、信じられないという顔で私のことを見下ろした。
「だめ?」
先生が溜め息をつく。
「……恵が、ブルブル震える茶色い毛玉を俺に差し出してきた時から。もちろんその時は、医者として患者の容体が気になるだけだと、思い込んでいたけどな。これで満足か?」
「えっとそれとね……」
「まだあるのか」
先生が勘弁してくれと言わんばかりに、私の肩におでこをくっつけてうめく。押し付けられた先生の体の熱を感じながら、準備万端になった男の人にとって、こういう時に待ったをかけられるのは、本当に辛いらしいってことが、いまさらだけど分かってきた。
「えっと、ごめんなさい、じゃあ後で良いです……」
「いや、今のうちに聞け。納得できないことがあるままで抱くのは気がひける」
「納得できないとか、そういうことじゃないんだけどね、熱が出て寝込んでいた時に、ここに連れてきてくれたでしょ? 最初のプランAって実行する気でいた?」
「もちろんだ」
なんかちょっとだけ、目が泳いだ気がするのは気のせいかな?
「本当に?」
「ああ」
「本当に本当?」
あ、完全に目をそらしちゃったよ。
「……実のところ、頭に浮かんだのはプランBの方が先だった。それを慌てて打ち消して、プランAを出したんだ。あの時、恵の実家が都内近辺だったら間違いなく送り届けていたよ。まさか新潟だったとはな」
お蔭でこうやって、一緒にいられるわけだがと付け加える。
「それで? もう聞きたいことは無いのか?」
「うーん……」
「考えないと出てこないということは、先に進んでも良いってことか?」
「あ……」
「今度はなんだ?」
めちゃくちゃ不機嫌そうな顔になったので、思わず吹き出しそうになる。
「ごめんなさい、これで最後だから。あのね、先生は私のこと好き?」
「当たり前だ。そうでなきゃこんなことはしない。恵は?」
「大好きだよ。いつからって聞かれると答えられないけど、今じゃ、先生に優しく撫で撫でされているキャラメルを見てると、嫉妬しちゃうぐらい先生のことが好き」
私の言葉に、先生が初めて嬉しそうな顔をした。
「だったら、今夜は心ゆくまで撫でてやるから、覚悟しろ」
「なんかそれ日本語がおかしい気がする……」
「気のせいだ」
先生は体を起こすと、Tシャツを脱ぎ捨てて私のパジャマのボタンを外し始めた。
そして先生は、私のことを優しく“撫でて”くれた。手と唇を使って、頭の先からつま先まで触れていないところが無いっていうぐらい、くまなく。そして、お互いの吐息が溶け合うようなキスをして抱き合っているうちに、もっと先生に近づきたいっていう気持ちが、急に湧き上がってきた。
「先生……?」
自分の中から湧き上がってくる衝動に戸惑って先生を見上げると、見下ろしている先生も、なぜかこわばった顔をしていた。
「本当にいいんだな? この先に進んだら、二度と手放してやれないぞ?」
「うん。私のこと、ずっと離さないでいてくれると嬉しいかな」
「前言撤回なんてのは認めないからな」
先生は低い声で唸るように呟くと。私の腰に腕を回して体を抱き寄せる。
その直後に私と先生の体は、これ以上は無いってぐらいの親密さで結ばれた。ちょっぴり痛かったけど、先生のことを全身で感じられるのが嬉しくて、とても素敵な初めての経験だった。
+++++
お互いの心臓の鼓動が元に戻ってからも、しばらく抱き合ったまま余韻にひたっていたんだけれど、やがて私から体を離した先生は、ベッドの縁に座ってズボンをはくと、閉じられていたドアに向かった。なにしに行くのかな?と見守っていると、そっと開けられたドアの隙間からキャラメルが部屋に飛び込んできて、一目散に駆け寄ってきてベッドに飛び乗ると、私達の向かって訴えるように鳴き声をあげた。
初めてのことで舞い上がっちゃって、キャラメルのことすっかり忘れてた……。
「ドアの前で鳴いているのが聞こえたんだが、意外と静かに待っていてくれたな」
ドアを少しだけ開けたままにして、先生が笑いながらこっちに戻ってくる。
「でも、なんだか顔が怒ってるよ」
「しかたがない。こればかりはこいつにも我慢してもらわないと。いくら猫だからって、見られながら恵のことを抱くのは、さすがに抵抗がある」
キャラメルは私達のことを睨んでから、なぜか私達にお尻を向けて、ベッドの真ん中にドスンと座り込んだ。きっと締め出されたことへの、キャラメルなりの抗議なのかも。先生がベッドに腰を下ろしてキャラメルを撫でたけど、御機嫌は斜めのままらしく、尻尾を振り回しながら知らんぷりを決め込んでいる。
「もしかして嫌われたか?」
「ひどいパパとママだって、怒ってるんじゃないかな」
「なんだ、パパとママが仲が良ければ問題ないだろう?」
それは人間の言い分であって、キャラメルにとっては、そんなことはどうでも良いみたい。チラリと振り返って私達のことを一睨みすると、なぜか溜め息をついて、プイッとあっちを向いてしまった。部屋から閉め出されたことで、かなり御立腹みたいだ。
「やれやれ、わがままなお嬢ちゃんだ」
先生は再びベッドにあがると、イヤがるキャラメルごと私を抱き締めた。
「ここで暮らすんなら慣れてもらわないとな。いてっ」
キャラメルが、小さな前足で先生の鼻を叩き、後ろ足で先生の胸を蹴っている。これもこの子なりの、抗議の一環なのかも。
「なんなんだ。グミ、お行儀が悪いぞ」
「グミじゃなくてキャラメルだってば。まだ爪を立てないだけマシでしょ? 本気で引っ掻かれないだけ、感謝しなくちゃ」
「まったく。手も足も出る我がわがままお嬢ちゃんとはな。さあ、いい加減に大人しくするんだ、キャラメル。俺も恵も、クタクタなんだから寝かせてくれ」
先生はさらに腕に力を込めると、私とキャラメルをしっかりと抱き寄せて目を閉じた。