第一話 急患は一人と一匹 side - 東出
珍しく救急搬送されてくる患者のいない、静かな夜が終わろうとしていたある明け方近く、救急車からの受け入れ要請の電話が入った。搬送されてくるのは成人女性、何故か、こんな朝早くから川で溺れていたらしい。
「意識レベルはⅠ-2。川の中にかなりの時間いたらしいので、大事をとって連れて来たいとのことでした。受け入れをOKしましたけど、良かったですか?」
電話をとった研修医の山南が、確認と報告をしてきた。
「かまわん。今夜は静かだったしな。俺が診よう。山南、お前は上がっても良いぞ。いまのうちに寝ておけ」
やれやれ。午前様のOLが、酔っ払って川にでも飛び込んだのか? まだ寒い日が続いていると言うのに、物好きな人間もいたものだと、溜め息をつきながら立ち上がり、両肩を回しながら体をのばした。
「酔っ払いというのはまったく……」
二年前の年末に、酔っ払いの派手な転倒に巻き込まれ怪我をして、自分の職場に世話になったことを思い出す。まったく酔っ払いというのは、本当にロクなことをしないな……。
しばらくして、サイレンの音と共に、救急車が病院の敷地内に入ってきた。そして搬入口で止まると、救急隊員に支えられて、毛布にくるまれた女が入ってくる。靴が片方なくなってはいたものの、自力で歩けるなら、それほど心配することもないなと思いつつ、歩み寄る。
「川で溺れたって? 原因はアルコールか?」
まずは、顔見知りの救急隊員に声をかけた。
「いえ、この人は酔っぱらってはいませんよ。流されていたところを、新聞配達をしていた人が見つけて、通報してきたんですよ。一昨日の大雨で、川の水位が上がっていましたからね。誤って流されたということです」
なにをどう誤ったら流される事態に陥るのか、いまいち謎ではあるが、それはこちらには関係ないことだ。
「じゃあ、取り敢えずはこちらにどうぞ」
毛布女を、ヒーターを横に置いたベッドの方へと連れて行く。
「先生、これを渡しておきます。この人の荷物です。中身はまあ、使い物にならないでしょうけど」
「そこに置いといてくれ」
救急隊員は、気の毒そうな顔をして、肩にかけていたカバンをこっちに差し出したので、ベッドの足元を顎でさす。置いた途端に、ズシャッという音がして、床に水が広がった。
「おい、もう少し水気を取るとか、そういう気遣いはないのか?」
「下手に触ると、カバンの中の物が無くなったとか、後でうるさく言う人もいるものですから」
「やれやれまったく。世の中どうかしているな。あとはこっちでしておこう。ご苦労さん」
「では頼みます」
そう言ってヤツは軽く頭を下げると、搬入口から出て行った。
「溺れたって?」
こちらの問いに、その女は震えながらうなづいた。顔色はそれほど悪くないので、見た限り重篤な低体温症ではないようだ。とは言え油断はできない、まずは、ずぶ濡れ状態をなんとかしなければ。
「まずは、濡れた服をどうにかしないといけないな。一人で着替えられますか?」
そう尋ねると同時に、看護師の吉永さんが、上下のトレーナーを持って入ってきた。
「東出先生、相手はお年頃のお嬢さんですよ? そんなところで先生が仁王立ちしていたら、着替えたくても着替えられないじゃないですか。少しは遠慮なさったらどうです?」
「仕方がないだろ。ここには女性の医師がいないんだから」
密かにここに引っ張ってこようと考えていた、腕の良い女の研修医が去年まではいたのだが、残念なことに結婚を機に、海外へと旅立ってしまった。そのお蔭で、今現在の救命救急の担当医師は、研修医を含めて野郎共ばかりだ。
「私がいることをお忘れですか? 患者さんが着替えている間に、温かい飲み物でも用意していただけると、時間の無駄がはぶけて、大変ありがたいんですけれど」
「やれやれ、どっちが偉いのか分からんな。コーヒーで良いかな?」
「……です」
震えながらその患者が何か言った。
「ん?」
「……コーヒーは苦手なので、なにか別のものが、良いです」
「だそうですよ?」
「あとはお茶ぐらいしかないが、それでも良いかな?」
「お願します……あ、それと、あの、この子も診てもらえませんか?」
ベッド周りの間仕切りカーテンを閉めて、立ち去ろうとしていた俺に、彼女はブルブルと震えながら、腕に抱いていた小さな毛玉を差し出した。
「……?」
その毛玉には耳と尻尾があり、俺と目が合ったとたんに、か細い声でミャーと鳴き声をあげる。彼女が差し出したのは、ずぶ濡れ状態の茶トラの子猫だった。
「猫、なのか?」
「猫、ですね」
吉永さんも戸惑った顔で、その毛玉を見下ろしている。
「お嬢さん、残念だがうちは人間の病院であって、動物病院じゃないんだが……」
「えっと、じゃあこの近所に、獣医さんはありませんか? この子は私よりも長く水の中にいたんです。早く診てもらわないと……」
「貴女もずぶ濡れなのよ、放っておいたら風邪をひいてしまうわ」
「でも」
慌てた様子でベッドから立ち上がろうとする患者を、吉永さんが押しとどめた。そして俺の方に目を向ける。いったい俺にどうしろと?
「先生、基本は人間と同じだと思うんですけど」
「って、俺が面倒を見るのか?!」
「獣医さんの場所さえ教えてもらえば、私が連れて行きます。できれば乾いたタオルを貸してもらえると、助かるんですが……拭いてあげないと……」
「先生?」
吉永さんの目が、「さっさと面倒を見なさい」というものになった。本当にどっちが偉いんだか分からないな、まったく……。だがこの毛玉のことがなんとかならない限り、人間の患者の方が着替えようとしないのは、火を見るより明らかだった。
「分かった分かった。そっちの患者が着替えている間に、こっち患者の面倒は俺が見る。それで良いんだな?」
「よろしくお願いします」
その患者は、安心した様子で頭を下げてきた。
「まさか猫の急患まで、診る羽目になるとは。事務局長に知れたら、どれだけグチグチ言われることやら」
か細い声で鳴く茶色の毛玉を受け取ると、渡されたタオルで拭きながら、温かい飲み物を取りに行く。誰もいない静かな廊下に、子猫の声が響き渡る。
「おい、静かにしろ。他の連中に見つかったら大変なんだぞ」
とは言え、こっちの思い通りに静かになってくれるわけでもなく、哀れな様子で鳴き続けている。腹でも空かせているのだろうか? だったら、自販機で売っている牛乳でも与えてみるか。そんなことを考えつつ、仮眠室の前を通りかかったところで、山南が何事かと顔を出した。
「東出先生、もしかしてさっきの急患って、猫だったんですか?」
「いや、人間もちゃんといる。吉永師長が着替えさせているところだ。温かい飲み物を用意しろと、俺が使いっ走りにされた」
山南の後ろから、もう一人の研修医、岡北が顔をのぞかせた。俺が猫を抱いているのを見て、目を丸くしている。
「子猫だ……東出先生が子猫を抱いているなんて」
「なにか文句でもあるのか、え?」
「いや、その……。あ、猫にも温かい飲み物ですよね。普通の牛乳はやめた方が良いですよ、子猫はお腹をくだします。それ用のミルクを飲ませないと」
「そんなものがここにあると思うか? ここは動物病院じゃないんだぞ」
顔をしかめると、さらに部屋から眠そうな顔をした葛西が出てきた。
「おはようございます、先生。岡北、たしか商店街のコンビニに、売ってたんじゃなかったっけか猫のエサ。そこにミルクもあったような気がする」
「そうなのか? じゃあ買ってくる」
「……おい」
「それまでは、お白湯でも飲ませていてください。俺、自転車でひとっ走り行ってきます」
「猫のベッドも用意しなきゃな。ペットボトルとタオルと……他になにが必要だったっけ」
「人間の患者さんへの飲み物は、俺が用意して持っていきます。先生は子猫を頼みますね」
「おい……お前達なんでそんなに熱心なんだ」
俺の問い掛けに、三人が動きを止めてこっちを見た。
「「「そりゃあ猫だから?」」」
そんなわけで、その日一番に我が病院にやって来た急患は、成人女性一名とチャトラの子猫一匹だった。