怪物
それからの私は少しずつ回復へと向かっていった。
ただ、自分が何者なのかを思い出せずにいることを除いては。
親子の楽しげな会話が歌のように聞こえてくる、夜。もうすぐ父親のイオが帰ってくると、一家の食事の始まりだ。
団欒、というのだろう。
舌に載せるのもくすぐったく感じる言葉が、この家族の中には生きている。
私はベッドに座って、その温かさにたき火のようにあたりながら、窓の外の夜を見ていた。
「起きてたのか」
奥にあるダイニングから、ジオが顔を見せた。暗いな、と言いながら部屋の灯りをともしてゆく。
彼はこの家の16歳になる次男だ。弟とは違って父親にそっくりな彼は、ポーカーフェイスの後ろに照れ屋の性分をしまいこんでいる。
「ありがとう、ジオ」
感謝を述べるとジオはよそを向いて、低い声で話をそらした。
「…なぁ。固形物っつっても白パンだし、負担少ないだろ。それもう少し食ったら、薬湯持ってくる」
「ロッタの手料理は、スープもパンも、いつもとてもおいしいのね」
自分にも料理はできただろうかと思いかけて、やめた。きっとこれも、自分にはなじみのないものだ。
最近の私はいつも、どこか自嘲的なあきらめを感じていた。
記憶をなくす前の自分は、きっとまっとうな人間ではない。
「無理して思い出そうとしたり、うちに合わせたりしなくてもいい。…うちは、ちょっと、うるさすぎるんだ」
はっとして見やったジオの背中はもう、部屋を出るところだった。
不器用な優しさの余韻が、後に残された。
その夜父親のイオは、ガッリーニ先生を連れて戻った。先生はもう引退しているけれど、まだまだ医者としてその腕を頼りにされている人だ。
「傷の炎症も治まってきた。破傷風にならずに済んでよかったわい。マートンと家族に感謝じゃな。あっちで首を長くして待っとる奴らにも、良い兆候を伝えてやらにゃの」
診察が終わって先生は、満足気に微笑みながら立ち上がった。
「なぁじいさん、こんなもん作ってみたんだが、ラウラにはまだ早いか…?」
先生の帰り際、ひょっこり顔を見せて先生を呼び止めたイオの手には、松葉杖があった。
「イオよ。お前さんとこの頑丈な男どもとは訳がちがうんじゃ。あとひと月はリハビリなんぞ考えんことじゃ」
だよな…とうなだれたイオよりも、私のほうが衝撃を受けた。
「そんな!あとひと月もだなんて…!」
思わず大きな声で反応した私を、ふたりが呆れたように振り返る。
「ケガ人はだまって寝とれ。ただ休んどるのがあんたの仕事じゃ」
ガッリーニ先生は私の抵抗を一蹴したが、ハイそうですかと納得できるものではない。
私は、今日のこの診察代すら払っていないのだから。
「おい、なんて顔してる。俺は最初に言ったぞ、ここをお前の家と思えってな。俺はうまいことも言えねぇが、二枚舌は使わねぇ。ここは、お前の家だ。弱ってるときゃ休んでりゃいいんだ」
そういうもんだろ、とイオは少し怖い顔で私の頭をなでた。
グローブみたいな手からぬくもりが伝わる。
一家に親切に温かく受け入れてもらうほどに、私の中の異質感は膨らんでゆく。
持っていないものへの、強すぎる憧憬なら良かったのに。
こうしていつしか私は、自分の中の怪物の影に怯えるようになっていた。
暗い…!暗いよ!!