キャッチボール
土曜日の午後、普通の高校生であれば青春を謳歌して遊びまわっていてもおかしくない年頃なのだが、美術部員の斉藤サイトは
来週の発表会に向け休日返上、といわんばかりに朝から絵を描き続けていた。サイトはノートの最後のページに猫が
こちらをみている絵を描き終えると大きく息をはいてベッドに寝そべった。今週の半ばからずっと絵を上手く描くことばかり考えている。
サイトの絵は以前と比べだいぶマシになってきたがそれでも猫の体のバランスの悪さ、現物との配色の微妙なズレなどまだまだ
完成に向けて詰めていく部分がたくさんあった。喉が渇いた。サイトはベッドから起き上がり下の階から飲み物を取りに階段を下った。
サイトが階段を降りきると笑い声が二つ聞こえた。1つは母の恵美の声だが、もうひとつは母の同級生の青山大輔だった。
サイトはちっと、舌打ちを打つと冷蔵庫からだした麦茶をコップに注ぎ自分の部屋に戻ろうとした。
が、居間と台所はドア一枚で区切られているためサイトの存在に気がついた大輔が
「おう、サイト君いたのか。」とドアを開け、声を掛けてきた。
サイトはこの大輔おじさんがあまり好きではなかった。母が離婚してから急に近づいてきたこの男は、馴れ馴れしくも自分の家に
毎週のように招かれており家の経済状況を知ってか知らないでか、独り身の恵美にやたらとモーションをかけているような感じを
サイトは受けていた。虫のいいハイエナ野郎。サイトはども、と頭を下げ部屋に戻ろうとしたが、まてまて、と大輔に制止された。
大輔はガサガサとビニール袋から野球のグローブを取り出してテーブルの上にほうり投げた。
「どうだ、サイト君。天気もいいことだしキャッチボールでもしないか?」
「はぁ?」
「キャッチボールだよ。やったことないのかい?僕は先に中庭で待ってるから準備が出来たら来る様に。」
そういうと大輔は袋から自分用のグローブを取り出し、早く来いよというようなジェスチャーをして玄関を出た。
うぜぇ。なぜ突然赤の他人と休日の午後にキャッチボールをしなければならないのか。麦茶を持っていた右手が震えた。
サイトは母の恵美に大輔との関係を問いただしたかったが、かあちゃんも独りで色々と大変だろうからと、怒りを飲み込んで
ここは少年らしく素直に大輔の要望に答えることにした。サイトは麦茶を飲み干し、左手にグローブをはめ、
玄関先に置いてあった西部ライオンズの野球帽を頭に乗っけると暖かい光が包んでいる中庭に向かって歩き出した。
サイトがざっざっ、と砂利の散らばる路地を通り抜けると中庭で大輔がマウンド上のピッチャーのように足場をならしていた。
おいおい、その中年太りで名投手きどりかよ。鼻で笑うと大輔がサイトが被っている帽子を見て言った。
「お、野球帽にあうねぇ。ひょっとして僕と同じ西部ファン?」
これはあんたが持ってきたモンだろうが。聞こえるか聞こえないかギリギリのボリュームでサイトは答えた。
大輔がグローブに納まっていたボールを取り出しサイトに向かって山なりのボールを投げた。投げ終わると体勢を立て直し、
サイトにグローブを向ける。サイトがボールを投げ返す。キャッチボールが始まった。
「4月から高校生だっけ?学校はどう?」
あんたには関係ない。
「部活は?お母さんから美術部に入ってるって聞いたけど?」
別に答える必要ないだろ。
「僕が何か手伝える事があったら言ってくれよな。すぐに駆けつけるから。」
そんな必要はない、サイトが言うと胸に速球が返ってきた。なんだこの野郎。サイトが睨みつけると大輔は言った。
「サイト君、年上の人に対してその態度はないと思うな。僕だって君や君のお母さんを心配してやって来てるのに。その調子じゃ
学校でもうまくいってないんだろう。雰囲気でわかるんだよ。そういうの。」
サイトは大輔が言い終わるのを確認するとふー、と大きく息を吐き、テレビで見たとおりの投手のフォームで大輔のグローブ目掛けて
思い切りボールを投げ込んだ。ボールは大輔のグローブを跳ね、軟球が大輔の顔に命中した。身をかがめて顔を抑えてる大輔に
サイトは大声で言い放った。
「余計なお世話なんだよ!もう二度と家に近寄るんじゃねぇ!このハイエナが!」
グローブと帽子を地面に叩きつけると2つ3つ暴言を吐きその場を去った。サイトは自分の部屋に戻りながら
自分にこんな荒々しい一面があるのか、と驚いていた。別にケンカ慣れしている訳じゃないがひどく落ち着いているな、とさえ
感じた。とりあえずこんなふざけた出来事は忘れて発表会に向け集中しなくては。サイトは乾燥してカピカピになった
パレットの絵の具を水で溶き、新しいノートに再び猫の絵を描き始めた。