初めての本格水彩画
水を汲み終わると、サイトは水の入った容器を神崎のとなりの席に置いた。神崎に水彩画を教えてもらうためだ。
神崎はおもむろに自分の水が入っているバケツをひとつずれた席の机に置いた。やはりまだサイトには心を開いてはくれないようだ。
神崎が水彩画用のキャンバスノートを持ってくるように言い、サイトは水彩画セットと授業で使っている筆記用具をもって神崎の
となりの、となりの席に座った。神崎はいつも絵を描く時に使っている画用紙を新規に透明のファイルから取り出し、
水彩セットから筆を何本かと絵の具が入っているケースを取り出した。絵を描く準備が整ったようだ。
サイトは参考書に書かれているラクダの絵を今日は描くことに決めた。筆に色を乗せ、勢い良くノートに描こうとすると
神崎が「まてまて、まてーい」と制止してきた。あれ?俺なにか間違った事したか?神崎が間に合ってほっとした、という表情で言った。
「水彩画を描く時はまず筆で画用紙に水を含ませるんだよ。そのほうが色が乗りやすいし、色彩も映える。
いまからやってみせるからちょっと見ててみ?」
サイトはいつか神崎が絵を描く時にそんなことをやっていたのを思い出した。そうか、それにはそんな意味があったのか。
神崎は大目に水を含ませた筆で画用紙全体をいきおいよくシャっ、シャっと塗ると画用紙が乾く前に女性が化粧で使うコットンパブを
軽く絵に押し当てた。家族のだれかが使っているモノなのだろうか。サイトは思っていた事を神崎に聞いた。
「ねぇ、これ水分を吸う時ティッシュとかじゃだめなの?」
「ティッシュの場合だと濡れて破れた部分が画用紙の上に残っちゃうからオススメしないね。ほら、サイトもやってみ?」
サイトの質問に即答すると、神崎はコットンを使っていいよ、と渡してきた。サイトはありがとうと言うと神崎がやっていたように
水を含ませたノートにコットンを押し付けた。これでほんとに見栄えがよくなるのだろうか。サイトが疑問に思っていると
神崎が下書きもせずに画用紙の上を薄い青の絵の具を含んだ筆で、すいー、と画用紙の表面を軽くなでた。
そうするとまるで魔女が杖を振りかざして魔法をかけたように鮮やかなブルーが画用紙の上部に広がった。
サイトがおお~と歓声をあげると、神崎が照れくさそうに言った。
「下地に水を含ませてると色が濃い目になるから注意な。それと下書き時に鉛筆の折れた芯なんかが残ってると絵の具と絡まって色が
にじんだりする。できれば下書きせずいきなり色を付け出した方が見栄えが良くなるんだ。」
サイトは神崎の言うことが初耳だったのでほえ~、と豆知識を1つ知ったような口調で関心した。
中学の時に水彩画を描いたことがあるけどそんな事をしているヤツなどひとりもいなかった。
やれやれ、コイツも天才か。サイトがフッ、と諦めたように笑うとラクダの目になるべく予定の黒の絵の具を筆ですくい、
ノートの中央に色を置いた。するとみるみるうちにノートが黒一色に侵食されていった。悪性のガンが急速に育っていくような
背筋がぞっとするようなパニックを感じ、サイトはうわ、助けてくれ!とものり!と声を挙げた。
席をひとつ挟んでとなりのサイトが、助けてくれ!とものり!と叫んだので、とものりこと神崎智紀はサイトのノートを覗き込んだ。
ノートの中央に配置した黒の絵の具が大きくにじんでいくのが見えた。神崎は呆れながら言った。
「まず薄い色を配色してから黒や茶色の重い色を塗ってくのが水彩画の基本でしょうが。いきなり真ん中に黒を置かれたら
他の色の印象がうすくなっちまう。」
サイトはふえ?そうなの?と聞き返すと不機嫌そうに神崎が続けた。
「名前の下の方で呼ぶのはやめてくれよな。そのマヌケな名前を聞くとイライラする。」
サイトは神崎が一番最初に会ったときに自分のことをかんざきともき、と名乗ったのを思い出した。
彼なりの自意識があるのだろうか。サイトは「わかった、今度から愛称はともちゃんで固定するよ。」と言うと
「それでいい。」と神崎が答えた。サイトはノートの次のページをめくり神崎に言われたとおり薄い色からじょじょに
色を付けていくことにした。書き直しか。一回のミスも許されないのはシビアだな、とサイトは独り言を言うと
図書館で神崎が言っていた「水彩画はごまかしができない」という言葉を思い出した。なるほどこれのことだったのか。
サイトはこれ以上神崎の絵を描く邪魔はできない、と思い参考書を見ながらひとりで絵を描くことに決めた。
小一時間ほど絵を描き始めるとふわぁ~と息を吐き出しながら机に突っ伏した。
なかなか上手くいかず4回ほど描きなおしたのだが、どれもラクダの体の色と目や風景などの違った色が混ざってしまい、
どの絵も非常にごちゃごちゃした感じの絵になってしまった。サイトはすこし休憩しよう、と立ち上がると後ろの方で描いて
いた大和がきょろきょろと落ち着かない様子で体を動かしていた。サイトがなんだ、トイレに行きたいのか、と茶化すと
大和が違うよ、と言ってサイトに聞いてきた。
「今、描いてる絵って...ラクダの絵だよね?」
ああ、そうだよとサイトがいうと机の上にサイトが絵を描くために参考にしていた本とまったく同じ本が置いてあった。
びっくりした顔をしているサイトに大和が言った。
「この本、結構有名な人が書いた本だから...俺も、ラクダの絵...描いてみたんだ...よかったら見て行ってよ。」
サイトがごくっ、とツバを飲み込むと大和は水彩画用のノートを広げた。サイトはうわ、やられた、と天井を仰いだ。
ノートにはサイトと同じ、ラクダの絵が描かれていた。サイトとは比べ物にならないくらいうまくラクダの輪郭が取れていたが
驚いたのはその配色である。なんとその絵は黄土色一色で描かれていた。微妙に水分で色の濃さを変え、2頭の同じ色である
はずのラクダがそれぞれ混ざり合わず独立して描かれており、うすい蜃気楼のような背景が砂漠の厳しい環境で生き抜く
強い生物を引き立てていた。サイトは感動するというか呆れたようにうわ、ありえね。と言うと廊下のトイレを目指して教室を出た。
サイトの目からは涙が零れていた。自分の能力の無さが悔しかったのと、大和の絵の凄さによる感動、確実に迫り来るタイムリミット
など、色々な感情が胸に去来し、気持ちが抑えられなくなっていた。しばらくすると誰かが教室を出た音がしたのでサイトは
洗面所に行き、泣き顔を隠すため顔を水でおもいきり洗い出した。
ややこしい話ですが神崎の本名はかんざきとものりです。
サイトに対して自己紹介した時は「とものり」より「ともき」の方がカッコイイと思ったのでしょう。
いわゆる中二病ってヤツです(ちがうかも?)