油絵の墓場
次の日、学校で美術の授業があった。サイトはそういえば顧問の大路地先生てどんな人だったけ、一応挨拶しておかなきゃ、
と思いながら前の授業から教室を移動し、美術室のドアを開けた。やはり油の臭いが少しだけする。サイト達1年3組の生徒が
席に着くと始業のチャイムがなり、奥の準備室から小奇麗なおばさんが出てきた。準備室は先生も共用しているようだ。
その年齢50歳くらいの「絵の先生」はみなさんおひさしぶり、授業を始めます、と言い号令をかけた。
今日はルネサンスの時代のVTRを見てレオナルドやミケランジェロの絵について勉強しますといい、
部室の隅にあった40型のブラウン管の乗ったキャスター付きの台を教卓の前に引っ張りビデオデッキに白く、血管の浮き出た
手でビデオをセットした。その後教室の明かりを少し落とし、画面の調整をするとビデオの本編が始まった。
先生はしばらくすると準備室の方へひっこんでいってしまった。ああ、なるほど、とサイトは思った。
だから美術の授業の先生、と言われてもピンとこなかったのだ。先生が居なくなったので前の方に座っていたヤンキーが
机の上に頭をおいて眠り始めた。まわりを見渡してもどうやらこのVTRに興味のある人間はほとんどいないらしい。
みんなどこかうつらうつらとした表情を浮かべながらテレビのレオナルド・ダビンチの作品に目を向けている。
確かに1時間ビデオを見るだけの授業はかったるい。眠くなっても仕方がない。
サイトはダビンチの作品はたまにテレビ番組で見たことがあったのでああ、この絵か、といった風に見ていたが、
ミケランジェロの絵は始めて観た気がした。神様とその周りに裸の人が大勢描かれている絵を観て
サイトは度肝を抜かれた。当時の文化にこれだけの絵を描くだけの材料があり、見たこともない景色をこれだけ鮮明に描ける
ものなのか。美術の世界って奥が深いんだなぁとサイトは改めて思った。
やがてVTRが終わり、先生が部屋から出てきた後、今日見た作品の説明を軽くして授業が終わった。終業の挨拶が終わると
生徒達が眠たそうに教室を出て行く。サイトはテレビを元の位置に戻そうとしている大路地先生に声をかけた。
「あの、おとといから美術部に入部させてもらった斉藤サイトって言います。よろしくお願いします。」
サイトがぺこりと頭をさげると今までむすっとした表情で授業を進めていたその教師は
「そう、あなたが!」と高い声をあげた。年相応のおばさん先生は生気が戻ったように目を輝かせていった。
「5人目の新入部員が入ったってノマちゃんから聞かせれていて安心してたのよ。あなたが斉藤君?
私が、知ってるかもしれないけど、顧問の大路地エツ子よ。頑張ってこれからの美術部を支えていってちょうだい。」
サイトがわかりました。期待に答えられるかわかりませんけど、と言うとあら、いいのよ、と大路地先生は笑いながらいった。
普通のおばさんのように大きなリアクションを取っているがサイトにはどこかこの年配の先生に影のような暗さがあるのを感じとっていた。
サイトは昨日から抱えていた問題を先生に相談してみることにした。もしかしたら、という期待を胸にサイトは口を開いた。
「大路地先生、俺、美術部に入ったのはいいものの、絵を描いたことがないし、油絵の道具を一切もっていないんです。
どうしたらいいでしょうか。」
サイトが言うと、へぇ~そうなの、といい美術部顧問の大路地エツ子先生はうなづいた。その後先生が考えがまとまったように
教室の壁際の方へ歩き出した。そしておもむろに下の方の棚のドアを開けた。中から色とりどりの絵の具達が顔を出した。
「ここにある絵の具は自由に使っていいわよ。OBやOGが残していったものよ。一流メーカーのものではないけど
絵の初心者が使うにはちょうどいいタイプの絵の具だとおもうわ。まずはそうやって腕を磨いていってね。」
サイトは先生の突然の提案にびっくりして声を失ったが、喜んで先輩達の絵の具を使わせてもらうことにした。
絵の具を残していった先輩ありがとう。サイトが大きな笑みを浮かべていると先生が急にまじめな顔をしていった。
「この絵の具達は、いままで入部したけど美術部で大きな結果を残せなかった生徒達が置いていったものよ。
卒業後も絵を描く生徒はそのまま自分が使っていた道具を持っていく。思い入れがあるからね。その事だけは忘れないでちょうだい。」
サイトは先生が言った事を聞いてごくりと唾を飲み込んだ。そう、ここは美術部員の無念が詰まった墓場。自分はそのなかから
必要な分だけ拝借し、自分の絵を描くため使わせて頂くのだ。サイトに後ろめたい気持ちが芽生えたが先生が笑いながら言った。
「あら、驚かしてごめんなさいね。この子達もここで眠っているよりかはあなた達に使ってもらった方が本望だと思うから。
そうやって次の世代に何かを残していくのも先輩の仕事なのよね。」
先生の話を聞いてすこし気が緩んだが、人の絵の具を使って絵を描く分、責任もっていい絵を描かなければならない。そう思いサイトは
気を引き締めた。しかし、先生が困ったように付け足した。
「でも、筆やナイフは自分で用意しなくちゃいけないのよねぇ。夏の大会のように長期間絵を描くのであれば裸で投げ出しておく
訳にはいかないし...木箱に入った美術セットがあったらいいかもしれないわね。」
サイトは、ああそうか、と再び頭を悩ませた。最低でも15000円の美術セットが必要だ。次の授業の始業のチャイムが
鳴ったようで大路地先生がほら、急がなきゃ、とサイトを促した。サイトは失礼します。これからよろしくお願いします、と言うと
急いで3階にある自分のクラスの1年3組を目指した。階段を下りながらやはりPSPを売るしかないのか、とため息をついた。