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この傷の痛みを知る人が

作者: 春川 丈
掲載日:2026/04/18

誰かの感情が、痛みとして流れ込んでくる少女。

ただ一人、“痛くならない人”と出会った。


いつからだろう。

 人が怒った時、胃の奥に鈍い痛みを感じるようになったのは。

 人が泣いた時、ズキリと頭が痛むようになったのは。

 人が笑う時、胸に小さな痛みが走るようになったのは。


 ──それが、自分のものじゃないと気づいたのは。


 一体、いつからだったろう。


 誰かが何かを感じるたびに、何もしていないのに、身体が勝手に痛む。

 理由はわからない。


 ──これは、私の痛みじゃない。


 その日は、少しだけうるさかった。


 教室のあちこちで、声が飛び交っている。

 笑い声。苛立った声。小さな舌打ち。

 それだけで、じわりと胃の奥が重くなる。


 (……やだな)


 息を吐くたびに、何かが刺さるみたいだった。

 早く終わってほしい。静かになってほしい。

 そう思っても、音は止まらない。


 むしろ、少しずつ増えていく。


 誰かが笑う。


 胸が痛む。


 誰かが苛立つ。


 今度は頭が重くなる。


 ぐら、と視界が揺れた。


 (……無理)


 このままだと、また倒れる。


 そう思って、逃げるように席を立った。


 特に行き先があったわけじゃない。

 ただ、人の少ない方へ。


 廊下に出ようとして、ふと足が止まる。


 ──そこに、彼はいた。


 窓際の席。

 ひとりで、ぼんやりと外を見ている人。


 特別なことは何もしていない。

 ただ座っているだけなのに。


 その周りだけ、妙に静かに見えた。


 なんとなく、そっちへ足が向く。


 理由は、わからない。


 ただ。


 少しだけ近づいた、その瞬間。


 「……あれ」


 痛くない。


 さっきまであったはずの重さも、鈍い痛みも。

 全部、消えている。


 思わず、もう一歩近づく。


 それでも、痛くない。


 (なんで)


 困惑したまま立ち尽くしていると、ふいに、その人がこちらを見た。


 目が合う。


 特に驚いた様子もなく、ただ少しだけ首を傾げる。


 「……何?」


 淡々とした声だった。


 「……あ、いや……」


 うまく言葉が出てこない。


 ただひとつだけ、確かなことがあった。


 「……ここ、いい?」


 気づけば、そう言っていた。


 その人は少しだけ間を置いてから、


 「別に」


 とだけ答えて、また視線を外に戻した。


 名前も知らないまま。


 でも、その日から。

 私は、よくその席の近くにいるようになった。


 「……ねえ」


 ある日、不意に話しかけられた。


 「名前は?」


 「……未玖」


 「そう」


 「……あなたは?」


 「紘」


 それだけだった。


 「紘くんは、……なんで私がここに来るか、聞かないの」


 「別に。興味もないし」


 「……じゃあ、なんで名前、聞いたの?」


 少しだけ間があって、


 「……こう毎日近くに来られたら、名前くらい気になるだろ」


 そう言って、紘はまた窓の外に視線を戻した。


 それ以上、会話は続かなかった。


 理由はわからないまま。


 でも、ひとつだけ確かなことがある。


 この人の隣だけは、


 ──痛くなかった。


───────


その日は、最初から少しおかしかった。


 朝から、ざわざわしている。

教室の空気が、どこか落ち着かない。


 小さな苛立ちや、不満や、焦りみたいなものが、あちこちに散らばっている。


 それが、全部、伝わってくる。


 (……やだ)


 椅子に座っているだけなのに、じわじわと身体が重くなる。


 深呼吸をしても、意味がない。

吐いた分だけ、また何かが入り込んでくる。


 誰かが舌打ちをする。


 胃の奥が痛む。


 誰かが声を荒げる。


 頭が、ずきりと軋む。


 「いい加減にしろよ!」


 不意に上がった怒鳴り声に、びくりと肩が揺れた。


 その一言だけで、視界が歪む。


 (……無理)


 限界だった。


 立ち上がる。


 何も考えずに、教室を飛び出した。


 廊下に出ても、空気は軽くならない。


 ざわざわとした感情が、まだ追いかけてくる。


 足がふらつく。


 呼吸が浅くなる。


 (どこ、どこに……)


 考えるより先に、身体が動いていた。


 ──逃げよう。


 向かう先は、ひとつしかない。


 教室の中。


 窓際の席。


 あの場所。


 扉を開ける。


 視界の端に、見慣れた姿が映る。


 (いた)


 それだけで、少しだけ息ができる気がした。


 ふらつく足で、近づく。


 一歩。


 また一歩。


 「……未玖?」


 紘の声が、遠くに聞こえた。


 その一言だけで、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。


 もう、無理だった。


 言葉が出ない。


 息も上手くできない。


 ただ、苦しい。


 その場に崩れそうになるのを、なんとか踏みとどまる。


 視界が滲む。


 何が痛いのかも、もうわからない。


 全部が、痛い。


「……なんか、痛いの?」


 その声はいつも通りで、

でも、ほんの少しだけ、“他人事みたいに”聞こえた。


 変わらない。


 焦りも、戸惑いも、あまり感じられない声。


 それが、少しだけ可笑しくて。


 少しだけ、安心した。


 答えようとして、喉が震える。


 声にならない。


 代わりに、涙だけが落ちた。


 ぽたり、と床に落ちる。


 それを見て、紘は少しだけ眉をひそめた。


 「……どうすればいいのか、わかんないけど」


 少し間があって、


 「ここ、座る?」


 そう言って、少しだけ自分の隣のスペースを空けた。


 それだけだった。


 抱きしめるわけでもなく。


 慰めるわけでもなく。


 ただ、場所を作るだけ。


 それでも。


 その隣に座った瞬間、


 すっと、呼吸が戻った。


 痛みが、消えたわけじゃない。


 でも、耐えられる程度にまで、落ち着いていく。


 肩の力が抜ける。


 涙が、少しずつ止まっていく。


 「……落ち着いた?」


 「……うん」


 かすれた声で、なんとか答える。


 それ以上、会話はなかった。


 ただ、隣に座っているだけ。


 それだけで、よかった。


 紘も、何も言わない。


 しばらくして。


 完全に呼吸が戻った頃。


 ぽつりと、未玖は呟いた。


 「……ねえ」


 「なに」


 「私、ずっとこうなのかな」


 少しだけ間があって。


 紘は、窓の外を見たまま答えた。


 「さあ」


 あまりにもあっさりとした返事だった。


 でも、それが紘だった。


 期待もしないし、無責任に励ましもしない。


 ただ、わからないことは、わからないと言う。


 「……そっか」


 未玖は、小さく笑った。

 少しだけ、泣きそうな顔で。


 「……かさぶたと同じなんだよ。傷付いて、怪我した部分にかさぶたができても、傷付いたって事実はなくならないし、そのまま消えずに痕になる時だってある」


 私は突然、何を言い出すのだろう。

そう思ったけれど、口から出てくる言葉は止まらなかった。


 「傷付く、って、……傷付けられた、って、そういうこと」


 紘は、黙って聞いている。


 「本当に傷付いたことは忘れられない。忘れたくても、傷の痕をみれば思い出すよ。思い出しちゃうんだよ」


 「……じゃあ未玖は、その傷をどうするの」


 ただの疑問。紘の声は、そんな温度だった。


 「……わからない」


 それは、本心だった。


 「でも」


 言葉を続ける。


 「ここに来れば、大丈夫だから」


 その言葉に。


 紘はほんの少しだけ、視線を動かした。


 「……そう」


 それだけ言って、また視線を外す。


 肯定でも、否定でもない。


 でも、拒まなかった。


 それで、十分だった。


 未玖は、ゆっくりと目を閉じる。


 完全に消えることのない痛みと。


 それでも、少しだけ楽になれる場所と。


 その両方を抱えたまま。


 今日もまた、ここにいる。


 隣には、何も変わらない人がいる。


 救われたわけじゃない。


 終わったわけでもない。


 ただ、


 「……紘」


 「なに」


 「……ありがとう」


 少しだけ間があって。


 「別に」


 そう返す声が、すぐ隣にあった。


 それだけで、よかった。


 これは、私の痛みじゃない。

 ……でも、ここにいれば、少しだけ忘れられる。


……そう、思いたかった。


この傷の痛みを知る人が、──どうか、幸せに死ねますように。

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