この傷の痛みを知る人が
誰かの感情が、痛みとして流れ込んでくる少女。
ただ一人、“痛くならない人”と出会った。
いつからだろう。
人が怒った時、胃の奥に鈍い痛みを感じるようになったのは。
人が泣いた時、ズキリと頭が痛むようになったのは。
人が笑う時、胸に小さな痛みが走るようになったのは。
──それが、自分のものじゃないと気づいたのは。
一体、いつからだったろう。
誰かが何かを感じるたびに、何もしていないのに、身体が勝手に痛む。
理由はわからない。
──これは、私の痛みじゃない。
その日は、少しだけうるさかった。
教室のあちこちで、声が飛び交っている。
笑い声。苛立った声。小さな舌打ち。
それだけで、じわりと胃の奥が重くなる。
(……やだな)
息を吐くたびに、何かが刺さるみたいだった。
早く終わってほしい。静かになってほしい。
そう思っても、音は止まらない。
むしろ、少しずつ増えていく。
誰かが笑う。
胸が痛む。
誰かが苛立つ。
今度は頭が重くなる。
ぐら、と視界が揺れた。
(……無理)
このままだと、また倒れる。
そう思って、逃げるように席を立った。
特に行き先があったわけじゃない。
ただ、人の少ない方へ。
廊下に出ようとして、ふと足が止まる。
──そこに、彼はいた。
窓際の席。
ひとりで、ぼんやりと外を見ている人。
特別なことは何もしていない。
ただ座っているだけなのに。
その周りだけ、妙に静かに見えた。
なんとなく、そっちへ足が向く。
理由は、わからない。
ただ。
少しだけ近づいた、その瞬間。
「……あれ」
痛くない。
さっきまであったはずの重さも、鈍い痛みも。
全部、消えている。
思わず、もう一歩近づく。
それでも、痛くない。
(なんで)
困惑したまま立ち尽くしていると、ふいに、その人がこちらを見た。
目が合う。
特に驚いた様子もなく、ただ少しだけ首を傾げる。
「……何?」
淡々とした声だった。
「……あ、いや……」
うまく言葉が出てこない。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
「……ここ、いい?」
気づけば、そう言っていた。
その人は少しだけ間を置いてから、
「別に」
とだけ答えて、また視線を外に戻した。
名前も知らないまま。
でも、その日から。
私は、よくその席の近くにいるようになった。
「……ねえ」
ある日、不意に話しかけられた。
「名前は?」
「……未玖」
「そう」
「……あなたは?」
「紘」
それだけだった。
「紘くんは、……なんで私がここに来るか、聞かないの」
「別に。興味もないし」
「……じゃあ、なんで名前、聞いたの?」
少しだけ間があって、
「……こう毎日近くに来られたら、名前くらい気になるだろ」
そう言って、紘はまた窓の外に視線を戻した。
それ以上、会話は続かなかった。
理由はわからないまま。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
この人の隣だけは、
──痛くなかった。
───────
その日は、最初から少しおかしかった。
朝から、ざわざわしている。
教室の空気が、どこか落ち着かない。
小さな苛立ちや、不満や、焦りみたいなものが、あちこちに散らばっている。
それが、全部、伝わってくる。
(……やだ)
椅子に座っているだけなのに、じわじわと身体が重くなる。
深呼吸をしても、意味がない。
吐いた分だけ、また何かが入り込んでくる。
誰かが舌打ちをする。
胃の奥が痛む。
誰かが声を荒げる。
頭が、ずきりと軋む。
「いい加減にしろよ!」
不意に上がった怒鳴り声に、びくりと肩が揺れた。
その一言だけで、視界が歪む。
(……無理)
限界だった。
立ち上がる。
何も考えずに、教室を飛び出した。
廊下に出ても、空気は軽くならない。
ざわざわとした感情が、まだ追いかけてくる。
足がふらつく。
呼吸が浅くなる。
(どこ、どこに……)
考えるより先に、身体が動いていた。
──逃げよう。
向かう先は、ひとつしかない。
教室の中。
窓際の席。
あの場所。
扉を開ける。
視界の端に、見慣れた姿が映る。
(いた)
それだけで、少しだけ息ができる気がした。
ふらつく足で、近づく。
一歩。
また一歩。
「……未玖?」
紘の声が、遠くに聞こえた。
その一言だけで、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる。
もう、無理だった。
言葉が出ない。
息も上手くできない。
ただ、苦しい。
その場に崩れそうになるのを、なんとか踏みとどまる。
視界が滲む。
何が痛いのかも、もうわからない。
全部が、痛い。
「……なんか、痛いの?」
その声はいつも通りで、
でも、ほんの少しだけ、“他人事みたいに”聞こえた。
変わらない。
焦りも、戸惑いも、あまり感じられない声。
それが、少しだけ可笑しくて。
少しだけ、安心した。
答えようとして、喉が震える。
声にならない。
代わりに、涙だけが落ちた。
ぽたり、と床に落ちる。
それを見て、紘は少しだけ眉をひそめた。
「……どうすればいいのか、わかんないけど」
少し間があって、
「ここ、座る?」
そう言って、少しだけ自分の隣のスペースを空けた。
それだけだった。
抱きしめるわけでもなく。
慰めるわけでもなく。
ただ、場所を作るだけ。
それでも。
その隣に座った瞬間、
すっと、呼吸が戻った。
痛みが、消えたわけじゃない。
でも、耐えられる程度にまで、落ち着いていく。
肩の力が抜ける。
涙が、少しずつ止まっていく。
「……落ち着いた?」
「……うん」
かすれた声で、なんとか答える。
それ以上、会話はなかった。
ただ、隣に座っているだけ。
それだけで、よかった。
紘も、何も言わない。
しばらくして。
完全に呼吸が戻った頃。
ぽつりと、未玖は呟いた。
「……ねえ」
「なに」
「私、ずっとこうなのかな」
少しだけ間があって。
紘は、窓の外を見たまま答えた。
「さあ」
あまりにもあっさりとした返事だった。
でも、それが紘だった。
期待もしないし、無責任に励ましもしない。
ただ、わからないことは、わからないと言う。
「……そっか」
未玖は、小さく笑った。
少しだけ、泣きそうな顔で。
「……かさぶたと同じなんだよ。傷付いて、怪我した部分にかさぶたができても、傷付いたって事実はなくならないし、そのまま消えずに痕になる時だってある」
私は突然、何を言い出すのだろう。
そう思ったけれど、口から出てくる言葉は止まらなかった。
「傷付く、って、……傷付けられた、って、そういうこと」
紘は、黙って聞いている。
「本当に傷付いたことは忘れられない。忘れたくても、傷の痕をみれば思い出すよ。思い出しちゃうんだよ」
「……じゃあ未玖は、その傷をどうするの」
ただの疑問。紘の声は、そんな温度だった。
「……わからない」
それは、本心だった。
「でも」
言葉を続ける。
「ここに来れば、大丈夫だから」
その言葉に。
紘はほんの少しだけ、視線を動かした。
「……そう」
それだけ言って、また視線を外す。
肯定でも、否定でもない。
でも、拒まなかった。
それで、十分だった。
未玖は、ゆっくりと目を閉じる。
完全に消えることのない痛みと。
それでも、少しだけ楽になれる場所と。
その両方を抱えたまま。
今日もまた、ここにいる。
隣には、何も変わらない人がいる。
救われたわけじゃない。
終わったわけでもない。
ただ、
「……紘」
「なに」
「……ありがとう」
少しだけ間があって。
「別に」
そう返す声が、すぐ隣にあった。
それだけで、よかった。
これは、私の痛みじゃない。
……でも、ここにいれば、少しだけ忘れられる。
……そう、思いたかった。
この傷の痛みを知る人が、──どうか、幸せに死ねますように。




