09. 霧の谷の呼び声
霧の谷への出発は三日後と決まった。
その間、三人は入念な準備を進めた。ガレンは、騎士団時代のコネを使い、霧の谷に関する過去の調査資料をかき集めた。エリスは、古代遺跡で必要になるであろう解毒薬や、特殊なポーションの調合に没頭した。
そして、にえは。
彼女は、ロンドの町の小さな図書館に通っていた。
守護者から託された『真理の刃』は、言霊の力を増幅させる。だが、にえが使える日本語の「単語」は、まだあまりにも少ない。「守る」「壊れろ」「止まれ」。それらは全て極限の状況下で、無意識に、あるいは本能的に発せられたものばかりだった。
もし、意図的に様々な言葉を力として行使できるとしたら。
それは今後の生存確率を、飛躍的に向上させるはずだ。
『仮説:【言霊術式】は、単語の意味、および使用者の意志の強さに応じて、効果が変動する。より複雑で、強力な現象を具現化するためには、語彙の拡充と、各単語に込められた概念の深い理解が必要』
だが、この世界に日本語で書かれた書物など、存在するはずもなかった。
にえは、ただ、古代の文献に残された意味不明とされる記号の羅列の中に、日本語の痕跡を探し続けていた。
その日も、にえは図書館の薄暗い書庫の片隅で、分厚い古文書のページを、一枚、また一枚と、めくっていた。
その時だった。
不意に、背後から影が差した。
【危機感応】は、何の反応も示していない。敵意はない。
にえが顔を上げると、そこに立っていたのは、一人の、見慣れない老婆だった。その老婆のオーラは、まるで枯れ木のように、ひどく色褪せてはいたが、その中心には、長い年月を生きてきた者だけが持つ、深い知恵を示す、静かな紫色の光が灯っていた。
「……面白いものを読んでおるのう、嬢ちゃん」
老婆がしわがれた声で話しかけてきた。
「それは、初代の王、アルトリウスが編纂させた、『禁断の聖典』の写本じゃ。そこに書かれているのは、神々の言葉。我ら人間には、到底、理解できぬと言われておるが」
老婆は、にえが読んでいたページを覗き込んだ。
そこには、にえにしか読めない日本語の文章が書かれていた。
――『言葉は、世界を映す鏡であり、世界を創る、力である』
「……あなたには、これが読めるのかえ?」
老婆が、探るような目で、にえを見つめる。
にえは答えなかった。肯定も、否定もしない。それが、最もリスクの少ない選択だと思考が判断したからだ。
老婆は、ふ、と息を吐くと、懐から古びた一枚の羊皮紙を取り出した。
「……わしは、もう長くない。じゃが、死ぬ前にどうしても、この言葉の意味を知りたいんじゃ」
その羊皮紙にも、日本語が書かれていた。
それは、一つの短い詩のようだった。
――『空は、なぜ青いのか。花は、なぜ咲くのか。答えは、風の中に。答えは、君の中に』
「これは、わしの一族が、代々、守り伝えてきた、お守りのようなものじゃ。誰も、その意味を知らぬ。じゃが、わしには分かる。これは、ただの飾りではない。世界の大いなる秘密が、隠されておる」
老婆はその羊皮紙を、にえの手にそっと握らせた。
「……もし、お前さんが、この言葉の意味を、いつか理解できたなら。……その時、わしの魂も、ようやく安らげるじゃろう」
老婆は、それだけ言うと、静かに書庫の闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、一枚の謎の詩が書かれた羊皮紙だけだった。
にえは、その詩をじっと見つめた。
空は、なぜ青いのか。
その問いに、にえの思考は、答えを出せない。青いのは、光の散乱によるものだ。だが、この詩が問うているのは、そういう科学的な事実ではないのだろう。
【言霊術式】の、新たな手がかり。
だが、それはこれまでのどの脅威よりも難解で、そして、根源的な問いを、にえの魂に投げかけていた。
出発の朝。
ロンドの町の門の前で、三人は最後の準備を整えていた。
ガレンは、騎士団の資料から書き起こした、霧の谷の簡易的な地図を広げている。
エリスは、調合したポーションの数を最終確認していた。
にえは、あの老婆から受け取った、謎の詩が書かれた羊皮紙を、大切に懐にしまった。
「よし、準備はいいな」
ガレンが、顔を上げた。
「霧の谷は、ここから北へ、馬車で三日の距離だ。谷に入れば、深い霧で、昼でも視界がほとんど効かなくなる。そこからは、にえ、お前の索敵能力だけが頼りだ」
「うん」
にえは短く頷いた。
「谷の奥にある遺跡は、古代の高度な罠で守られているらしい。絶対に一人で先行するな。必ず俺の指示に従え」
「分かってる」
三人は顔を見合わせ、頷き合った。
そして、ロンドの町に別れを告げ、北へと続く街道を、進み始めた。
道中は、穏やかだった。だが、進むにつれて、徐々に空気が変わっていくのをにえは肌で感じていた。
【危機感応】が、特定の方向――北の空から、常に微弱なしかし、不快なノイズを拾い続けている。
三日後。
一行は、霧の谷の入り口に到着した。
そこは、巨大な岩壁が、まるで門のようにそびえ立ち、その奥は、乳白色の濃い霧で完全に覆い隠されていた。
霧の中からは、時折風に乗って、不気味な獣の鳴き声のようなものが聞こえてくる。
「……ここから先は未知の領域だ。何が起きてもおかしくない。気を引き締めていけ」
ガレンの言葉に、一行はゴクリと唾をのんだ。
三人は、一列になって深い霧の中へと足を踏み入れた。
一歩中に入っただけで、世界は、その姿を一変させた。
視界は数メートル先までしか見通せない。太陽の光も届かず、まるで巨大な生き物の体内に迷い込んだかのような、閉塞感。
そして、空気が重い。
【危機感応】が、空間全体に満ちる、濃密な魔力の存在を、感知していた。それは、マリアンヌのそれとは違う、もっと古く、混沌とした自然そのものに近い強大な力だった。
「……エリス、聖なる光を。魔除けになる」
ガレンの指示で、エリスが杖の先に浄化の光を灯す。その温かい光が、三人の周囲だけをぼんやりと照らし出した。
この、視界の効かない世界では、にえの【危機感応】と【心象読解】だけが、唯一の羅針盤だった。
にえは、意識を集中させ、周囲のオーラを探る。
霧そのものからは、ただ、強大な魔力溜まりであることを示す、深い紫色のオーラが放たれているだけだ。だが、その中に、時折敵意を示す濁った色のオーラが点在しているのが視えた。
『前方、右三十度、距離二十メートル。敵性個体、三。脅威レベル4』
にえが、無言で右後方を指さす。
ガレンが、即座に盾を構えた。
霧の奥からずるりと、異形の影が三体姿を現した。
それは、巨大な狼のような姿をしていたが、その全身は、霧と同じ、乳白色の実体のない身体でできていた。そして、その眼だけが、憎悪を示す赤い光をたたえている。
「……ミストウルフか! 厄介な奴らだぞ!」
ガレンが叫ぶ。
ミストウルフは、物理攻撃がほとんど効かない。実体のない身体は、剣や矢をすり抜けてしまうのだ。
一体が、にえめがけて霧の身体を広げ、襲い掛かってきた。
にえはそれを冷静に見据える。
そして、白銀の短剣『真理の刃』を抜き放つと、日本語で静かに呟いた。
「――斬る」
その一言に、短剣の刃が淡い光を帯びる。
にえが、その刃を横薙ぎに一閃させると、ミストウルフの霧の身体が、まるで布のように真っ二つに切り裂かれた。
「ギャン!」という、断末魔の悲鳴と共に、狼の姿が霧散していく。
言霊の力は物理的な実体だけでなく、魔力で構成された概念そのものにさえ干渉できるのだ。
ガレンとエリスが、その光景に息をのむ。
「……すげえな、おい」
「言霊の力……。本当に、世界の理を書き換えるのね」
残る二体のミストウルフも、にえのたった二振りの斬撃によって、あっけなく霧の中へと消え去った。
脅威は、去った。
だが、にえは知っていた。
これは、まだほんの序の口に過ぎないことを。
この谷の奥で、本当に恐ろしい何かが、彼らを手招きして待っている。
その正体を探るため、三人はさらに霧の奥深くへと進んでいった。