06. 失われた言葉を求めて
作戦決行の夜。
月明かりもない、新月の闇が、王都を深く包み込んでいた。聖誕祭を前にした街は、奇妙なほど静まり返っている。
にえ、ガレン、エリスの三人は、夜陰に紛れて『救済の家』を抜け出した。アンナが教えてくれた、警備の死角となる裏口から。
「……アンナ、子供たちのことを頼む」
ガレンが、見送りに来たアンナの頭を、優しく撫でた。
「うん。ガレンさんたちも、気をつけて」
アンナは、不安そうな顔をしながらも、力強く頷いた。彼女のオーラは、心配の色の中に、仲間を信じる、強い信頼の光を灯している。
一行は、王都の闇の中を、音もなく進んでいった。
目指すは、王都の心臓部、白亜の神殿。
アンナの情報通り、聖誕祭の準備のためか、夜間の巡回兵の数は、普段より明らかに少なかった。だが、要所には、教会の精鋭である神殿騎士が、鋭い視線を光らせている。
その全てを、にえの【危機感応】が、事前に察知した。
『前方、五十メートル。角の向こうに、敵性個体、二。脅威レベル4』
にえが、物陰から指をさす。ガレンが、その指示に従い、息を潜めて待機する。騎士たちが通り過ぎるのを待って、一行は再び闇の中へと溶け込んでいった。
まるで、未来を予知しているかのような、にえの完璧なナビゲート。ガレンとエリスは、改めて、その異常な能力に舌を巻いていた。
やがて、一行は、神殿の巨大な外壁の下にたどり着いた。
「ここだ。アンナが言っていた、古い地下水路への入り口……」
ガレンが、苔むした壁の一角を指さす。そこには、巧みに隠された、鉄格子の扉があった。
ガレンが、その頑丈な錠前に、特殊な工具を差し込み、慎重に解錠していく。その間、にえとエリスは、周囲を警戒する。
鉄格子が、軋む音も立てずに開いた。
中からは、ひやりとした、カビ臭い空気が流れ出してくる。
地下水路は、完全な暗闇だった。ガレンが、魔道具のランタンに、ごく小さな光を灯す。
「ここからは、俺が先導する。地図は頭に入れた。ついてこい」
一行は、迷路のように入り組んだ地下水路を、慎重に進んでいった。
時折、水中から、不気味な魔物が姿を現したが、それらは、ガレンの剣と、にえの短剣によって、音もなく処理されていく。
どれくらい、進んだだろうか。
不意に、にえが立ち止まった。
「……こっちだ」
彼女は、ガレンが進もうとしていた方向とは、別の、小さな脇道を指さした。
「何を言っている、にえ。地図によれば、真っ直ぐのはずだ」
ガレンが、訝しげに言う。
「……こっちから、声がする」
にえは、そう答えた。
もちろん、物理的な声ではない。【危機感応】が、その脇道の奥から、救いを求める、無数の魂の悲鳴を、ノイズとして感知していたのだ。
それは、神官の手帳には書かれていなかった、未知の領域。
『予定外のルート。だが、この先に、システムの核心に繋がる、重要な何かがある』
にえの、あまりに確信に満ちた様子に、ガレンは一瞬、迷った。だが、これまでの経験が、彼女の直感を信じさせる。
「……分かった。お前を信じよう」
一行は、にえが指し示した、暗い脇道へと、足を踏み入れた。
その道は、徐々に、上り坂になっていた。そして、壁の材質も、古い石から、神殿で使われている、磨かれた大理石へと変わっていく。
明らかに、神殿の地下構造の一部に侵入している。
やがて、一行は、一つの巨大な扉の前にたどり着いた。
扉からは、これまでの比ではない、強大で、邪悪な魔力が、オーラとなって溢れ出していた。
そして、その扉の中からは、無数の人々の、苦悶の声が、微かに聞こえてくる。
「……ここか。マリアンヌの、心臓部……」
ガレンが、息をのむ。
扉には、複雑な魔法の鍵がかかっていた。だが、その術式を見た瞬間、にえは、それが解読可能であると、直感した。
なぜなら、その術式の核を構成しているのは、やはり、日本語だったからだ。
にえは、扉にそっと手を触れると、静かに、解錠のための言葉を、紡ぎ始めた。
「――開け」
その一言と共に、古代の魔法で閉ざされた扉が、重々しい音を立てて、ゆっくりと、開いていった。
その先に待つのが、地獄であることを、まだ、誰も知らなかった。
扉の向こうに広がっていたのは、広大な、円形の広間だった。
天井はドーム状になっており、その中央には、巨大な黒水晶――『救済の家』にあったものよりも、さらに巨大で、禍々しいオーラを放つ「コア」が、鎖によって吊り下げられている。
そして、一行は、その広間の壁を見て、戦慄した。
壁一面に、無数の水晶が、まるで蜂の巣のように埋め込まれている。そして、その一つ一つの水晶の中には、人の顔が、苦悶の表情を浮かべたまま、閉じ込められていたのだ。
その数、数百、いや、千は下らないだろう。
「……なんだ、これは……」
ガレンが、愕然とした声を漏らす。
【心象読解】が、その光景の正体を、にえに告げていた。
水晶に閉じ込められているのは、魂だ。「聖女の涙」によって思考力を奪われ、教会に魂を捧げた者たちの、成れの果て。彼らの魂は、ここで純粋な魔力へと変換され、マリアンヌの力の源泉として、貯蔵されているのだ。
魂の貯蔵庫。ここが、マリアンヌの力の、本当の源泉だった。
「ひどい……こんなことが、許されていいはずがない……!」
エリスが、杖を握りしめ、怒りに声を震わせる。彼女の橙色のオーラが、これまでになく激しく燃え上がった。
その時だった。
広間の中央、コアの真下にある玉座から、一つの影が、ゆっくりと立ち上がった。
それは、全身を、古代の様式で作られた、黒い全身鎧で覆った、巨大な騎士だった。その背丈は、ガレンよりもさらに頭一つ分は大きい。
その騎士からは、オーラが一切、感じられなかった。生命の気配がない。だが、その眼窩の奥で、冷たい、青白い光が、侵入者である一行を、静かに捉えていた。
「……ゴーレムか? いや、違う……」
ガレンが、警戒しながら剣を構える。
【危機感応】が、これまでにない、特殊な警報を発していた。
『警報。対象個体、生命反応なし。魔力反応、極大。脅威レベル9。これは、魂を持たない、純粋な「殺戮機械」』
その騎士は、一言も発さず、ただ、その手に持っていた、巨大な黒い大剣を、ゆっくりと持ち上げた。
次の瞬間、その姿が、掻き消えた。
「――!?」
ガレンが反応するよりも速く、黒い騎士は、にえの目の前に出現していた。瞬間移動に近い、超高速の動き。
振り下ろされる、黒い大剣。
死。
にえの脳が、初めて、回避不能な死を、明確に予測した。
だが、その絶望的な一撃が、にえに届くことはなかった。
ガキン!という、凄まじい金属音。
ガレンが、にえと大剣の間に、身を滑り込ませ、その盾で、渾身の力で攻撃を受け止めていたのだ。
「ぐ……おおおおおっ!」
ガレンの腕が、悲鳴を上げる。盾には、深い亀裂が入り、彼の足は、地面にめり込んでいた。
「……こいつ、化け物だ……! エリス、にえを連れて逃げろ! ここは、俺が食い止める!」
ガレンの青いオーラが、仲間を逃がすための、自己犠牲の決意を示す、鮮やかな赤色へと変わっていく。
だが、にえは、動かなかった。
彼女の視線は、黒い騎士の、その動きの奥にある、ある一点に、釘付けになっていた。
騎士の動きは、完璧だ。無駄がなく、洗練されている。だが、それ故に、その動きは、完全に、予測可能だった。
なぜなら、その動きは、魔法によってプログラムされた、ただの「術式」に過ぎなかったからだ。
そして、その術式を構成している言語は、やはり――。
『システムの制御言語、日本語。行動パターンの書き換え、可能』
にえは、ガレンの背後から、一歩前に出た。
そして、黒い騎士に向かって、静かに、しかし、はっきりと、言葉を紡いだ。
それは、この世界の誰も知らない、魂の言語。
「――止まれ」
その一言に、黒い騎士の動きが、ぴたり、と止まった。
振り上げた大剣を、そのままの形で、静止させる。
ガレンが、エリスが、信じられないといった表情で、その光景を見ていた。
にえは、続けた。
「あなたの、主は、誰?」
黒い騎士は、答えなかった。だが、その全身を覆う鎧の、胸の部分の紋章が、青白い光を放ち始めた。
そして、にえの脳内にだけ、直接、声が響き渡った。
『――我は、古代の王に仕えし、守護者。我が主の命により、この聖域を、汚す者から守り続ける』
古代の王。
にえは、その言葉に、何か、重要な繋がりを感じていた。
『――このコアは、お前の主が作ったものか?』
『――否。我らが封印した、邪悪の源。何者かが、その封印を解き、悪用している』
やはり、そうだった。
にえは、確信した。
この騎士は、敵ではない。
にえは、黒い騎士に、静かに語りかけた。
「私は、この邪悪を、壊しに来た。……あなたの、本当の主の、意思を継ぐために」
その言葉に、黒い騎士の青白い光が、激しく揺らめいた。
長い、長い沈黙の後、騎士は、ゆっくりと、その大剣を下ろした。
そして、にえの前に、片膝をつき、恭しく、頭を垂れた。
それは、絶対的な忠誠を示す、騎士の、最上級の礼だった。
黒い騎士――守護者が忠誠を誓ったことで、広間の空気は一変した。殺意に満ちた脅威は消え去り、代わりに、数千年の時を超えた、厳かな静寂が一行を包み込む。
ガレンは、まだ事態が飲み込めないといった様子で、盾を構えたまま硬直している。エリスもまた、目の前で起きた奇跡に、ただ息をのむばかりだった。
守護者は、立ち上がると、その巨大な身体で、広間の中央に吊るされた黒水晶のコアを指し示した。
『――我が主、古代王アルトリウスは、かつて、この地に封印されし邪神の欠片――『渇望の石』の力を逆用し、この国を繁栄に導いた。だが、石の力はあまりに強大で、人の心を蝕む。王は、自らの命と引き換えに、石をこの聖域の最深部に封印し、我にその番人たることを命じた』
守護者の言葉が、にえの脳内に直接響く。それは、この国の、忘れ去られた本当の歴史だった。
『――だが、数十年前に、一人の女が、この聖域に侵入した。女は、巧みな言葉で我を欺き、封印の一部を解いて、石の力を盗み出し始めた。それが、今の偽りの聖女、マリアンヌだ』
やはり、マリアンヌが全ての元凶だった。彼女は、古代の王が命がけで封印した災厄を、自らの野望のために解き放ったのだ。
「……では、この壁に囚われた魂たちは……」
エリスが、震える声で尋ねる。
『――石の贄だ。マリアンヌは、石の力を完全に制御できぬ。故に、贄として、無垢な魂を捧げ続けることで、かろうじてその暴走を抑え、力を搾取しているに過ぎぬ』
その言葉に、ガレンは怒りで拳を握りしめた。
「……人々を救うどころか、生贄に捧げていたというのか。聖女の名を騙る、悪魔め……」
守護者は、再び、にえへと向き直った。
『――言霊の使い手よ。お主の言葉は、我が主と同じ、世界の理を紡ぐ力を持つ。マリアンヌは、『渇望の石』の力を吸収し続け、聖誕祭の日、神の器たる『聖体』へと至るつもりだ。そうなれば、もはや、誰にも止められぬ』
『石を壊せば、贄の魂は還らない。石の力を吸収し続け、その魂と一体となるその時に、マリアンヌの魂そのものを破壊し石の力と同時に断つ』
『――それができるのは、石の制御言語を理解し、その魂に干渉できる、お主しかおらぬ』
守護者はそう言うと、自らの胸の紋章に手を当てた。すると、その黒い鎧が、光の粒子となって霧散し、中から、一体の美しいゴーレムが姿を現した。その身体は、ミスリル銀でできており、全身に、精緻な魔法陣が刻まれている。
そして、そのゴーレムの手には、一振りの、白銀に輝く長剣が握られていた。
『――これは、我が主アルトリウスの剣、『真理の刃』。言霊の力を増幅させ、所有者の魂の形に応じて、その姿を変える、伝説の武具だ』
守護者は、その剣をにえの前に恭しく差し出した。
『――お主こそ、我が真の主。この剣を受け取り、偽りの聖女を討ち、この国の魂を、解放してはくれぬか』
それは、古代の王からの遺言であり、未来を託す最後の願いだった。
にえは、その白銀の剣を見つめた。
その剣からは、これまで感じたことのない、清らかで、力強いオーラが放たれていた。それは、正義や善といった、単純な色ではない。ただ、この世界を、そこに生きる人々を心から愛したという、一人の王の、純粋な想いの色だった。
にえは、おずおずとその剣に手を伸ばした。
彼女の小さな手が、剣の柄に触れた瞬間。
白銀の剣が、まばゆい光を放ち始めた。そして、その形を急速に変化させていく。
長大な長剣は、光の中で収縮し、やがて、にえの身体に合わせた、一本の、美しく、そして恐ろしく鋭い白銀の短剣へとその姿を変えた。
それは、にえの魂の形――最小限の動きで、的確に、急所を貫くという、彼女の生き方そのものを写し取ったかのような完璧な武器だった。
にえは、その白銀の短剣を強く握りしめた。
その手には、もはや迷いはなかった。
古代の王の想い。仲間たちの信頼。そして、助けを求める無数の魂の声。
その全てが、今、彼女の力となる。
『最適行動を、最終確定。目標、聖女マリアンヌの討伐。および、『渇望の石』の完全な機能停止』
にえは、広間の中央に吊るされた、巨大な黒水晶を、静かに、見据えた。
決戦の時が、迫っていた。
守護者から『真理の刃』を託された一行は、ひとまず地下の聖域から撤退することを決めた。マリアンヌにこちらの動きを悟られる前に、万全の準備を整える必要がある。
守護者は、再び黒い騎士の姿に戻ると、彼らに一つの護符を手渡した。
『――これがあれば、神殿内の、我の魔力が及ぶ範囲であれば、いつでも、この聖域へと直接転移できる。決戦の時まで、身につけておくといい』
それは、王都のどこからでも、敵の本拠地の心臓部へと直接乗り込むことができる、究極の切り札だった。
一行は、守護者に礼を言うと、再び地下水路を通り、王都の闇の中へと戻っていった。
宰相アレンに用意された、秘密の隠れ家。そこで、三人は、最後の作戦会議を開いていた。
聖誕祭は、明日。残された時間は、もうない。
「……マリアンヌは、聖誕祭の儀式の場で、民衆の信仰心が最高潮に達した瞬間を狙って、国中の魂から生命力を奪うつもりだ。守護者によると、それを止めるには儀式の最中にマリアンヌの中にある石の力を破壊するしかない…か…」
ガレンが、険しい表情で言う。
「でも、儀式の場には、教会の全ての戦力が集結するはずよ。親衛隊に、神殿騎士団……。どうやって、マリアンヌまでたどり着くの?」
エリスが、不安げに尋ねる。
その問いに、にえは、守護者から受け取った護符を、静かにテーブルの上に置いた。
「……これを使う」
「……なるほど。これなら、敵の戦力を無視して、直接、心臓部を叩ける」
「でも、転移した先には、あの守護者しかいない。ガレンと私で、マリアンヌの側近たちをどれだけ引き付けられるか……」
作戦は、極めてシンプル、かつ、無謀だった。
ガレンとエリスが、転移した先で、マリアンヌの護衛を引き付け、時間を稼ぐ。
その間に、にえが、一人でコアの破壊に向かう。
全ては、にえ一人の双肩にかかっていた。
「……無茶だ。だが、これしか方法がないのも事実か」
ガレンは、覚悟を決めたように、自分の剣を手入れし始めた。
エリスは、祈るように胸の前で手を組んでいた。彼女の橙色のオーラが、不安と、決意の間で激しく揺れている。
にえは、そんな二人を、ただ黙って見つめていた。
そして、新しく手に入れた、白銀の短剣を、静かに鞘から抜いた。
その刃は、部屋のわずかな光を反射し、美しい、冷たい輝きを放っている。
この剣が、全てを終わらせる。
その夜、にえは眠ることができなかった。
【絶対精神障壁】は、恐怖や不安を完全に遮断している。だが、思考は明日起こりうるあらゆる事態を想定し、何万通りものシミュレーションを休むことなく繰り返していた。
その時、部屋の扉がそっとノックされた。
入ってきたのは、エリスだった。彼女は、温かいミルクが入った、二つのカップを持っていた。
「……眠れないのかと思って」
エリスはそう言うと、一つのカップをにえの前に置いた。
「……ありがとう」
にえは、短く礼を言うと、その温かいカップを、両手で包み込んだ。
二人の間に、しばらく、沈黙が流れた。
やがて、エリスが、おずおずと口を開いた。
「……ねえ、にえ。もし、全てが終わったら……あなた、どうするの?」
その問いに、にえは、答えられなかった。
これまで、生き延びることだけを考えてきた。その先の未来など、一度も、想像したことがなかったからだ。
『……目標達成後の行動プラン。未設定』
にえが黙っていると、エリスは、寂しそうに微笑んだ。
「……そっか。……じゃあ、約束して」
「約束?」
「うん。もし、全てが無事に終わったら、一緒に、ロンドの町に帰りましょう。そして、三人で、また冒険者を続けるの。……ダメかな?」
エリスの橙色のオーラが、懇願するように、にえを包み込む。
それは、にえにとって、初めて交わす「未来」の約束だった。
にえは、温かいミルクのカップをこくりと一口飲んだ。
味は、しなかった。
だが、その温かさだけが、凍てついた魂に、じんわりと、染み込んでいくような気がした。
にえは、エリスの顔をまっすぐに見つめ返した。
そして、色のない瞳で静かに、しかし、確かに頷いた。
その小さな約束が、明日の決戦を戦い抜くための、何よりも強い力になることを、まだにえは知らなかった。