05. 秘密の孤児院
王からの密命を受けた一行は、表向きは聖女の招きに応じた形で、王都の郊外に建つ『救済の家』へと向かった。
そこは、高い塀に囲まれた、巨大な邸宅だった。建物は白で統一され、庭には花が咲き乱れている。一見すれば、恵まれない子供たちのための、理想的な施設に見えた。
だが、にえの【危機感応】は、その美しい景観とは裏腹に、敷地全体が、魂を捕らえるための、巧妙な結界で覆われていることを感知していた。
『結界内部、精神干渉および魔力吸収効果あり。脅威レベル6。一度入れば、脱出は困難』
門の前で、一行は、マリアンヌの側近である神官に出迎えられた。その神官のオーラは、信仰心を示す敬虔な紫色をしていたが、その奥に、他者を見下す、傲慢な黒い色が隠れている。
「ようこそ、『ロンドの聖女』御一行様。マリアンヌ様は、心よりお待ちしておりました」
神官は、にこやかな笑みを浮かべ、一行を施設の中へと案内した。
内部は、清潔で、静かだった。廊下ですれ違う子供たちは、皆、揃いの白い衣服を身につけ、一様に、無表情だった。
彼らのオーラは、王都で見た人々と同じ、均一で、生命感のない緑色をしていた。まるで、感情を抜き取られた、美しい人形のようだ。
『施設の子供たち、全員が精神干渉下にあると断定。個々の自我は、ほぼ消失している』
その光景に、エリスは、唇を固く噛み締めていた。彼女の橙色のオーラが、悲しみと怒りで、ちりちりと燃えている。
案内されたのは、施設の賓客をもてなすための、豪華な一室だった。
「あなた方には、今日からここで生活していただきます。仕事は、子供たちと触れ合い、彼らの心を『導く』こと。詳しいことは、また後ほど、マリアンヌ様ご自身から説明があるでしょう」
神官はそう言うと、部屋の扉を閉めた。カチャリ、と外から鍵をかけられる音が、静かな部屋に響き渡る。
ここは、鳥籠だ。
「……完全に、閉じ込められたな」
ガレンが、忌々しげに呟く。
エリスは、窓の外を見つめていた。庭で遊ぶ子供たちの姿が見える。彼らは、笑いもせず、ただ、決められた動きを繰り返しているだけだった。
「……あの子たち、昔の私を見ているようだわ。何も感じず、何も望まず、ただ、生かされているだけ……」
その声は、震えていた。
にえは、部屋の中を黙って調べていた。壁、床、天井。結界の構造を分析し、脱出経路の可能性を探る。
だが、結界は完璧だった。物理的に破壊しようとすれば、即座に外部にいる神官や兵士に察知されるだろう。
『現状での脱出成功確率、2%。極めて低い』
その時、部屋の扉が、静かにノックされた。
入ってきたのは、一人の小さな少女だった。年の頃は、十歳にも満たないだろうか。彼女もまた、この施設の子供らしく、白い衣服を身につけ、無表情だった。そのオーラも、他の子供たちと同じ、生命感のない緑色をしている。
少女は、お盆に乗せたお茶を、テーブルに置くと、深々と頭を下げた。
そして、帰ろうとして、にえの目の前で、わざとらしく、小さなハンカチを床に落とした。
にえが、そのハンカチを拾い上げようとした瞬間。
少女の緑色のオーラが一瞬だけ、強くまたたき、その奥に隠されていた、別の色が、にえの【心象読解】にだけ、はっきりと視えた。
それは、助けを求める、必死な、悲痛な赤色だった。
そして、にえの脳内にだけ聞こえる、か細い声が響いた。
『――助けて。今夜、地下の祭壇へ』
少女は、何も言わずに部屋を出て行った。
後に残されたのは、一枚のハンカチと、魂からのSOSという、危険なメッセージだけだった。
にえは、そのハンカチを、強く握りしめた。
この鳥籠の中で、まだ、自我を失っていない子供がいる。
それは、この絶望的な状況を覆すための、たった一つの、しかし、極めて重要な変数だった。
夜。
『救済の家』は、不気味なほどの静寂に包まれていた。子供たちの寝室からは、寝息一つ聞こえてこない。まるで、死んだように眠っているかのようだ。
にえたちの部屋。ガレンは、扉の前で見張りに立ち、エリスは、不安げに窓の外を見つめている。
にえは、昼間の少女が落としたハンカチを広げていた。そこには、インクではなく、果実の汁か何かで、施設の簡単な見取り図と、地下へと続く隠し通路を示す印が、か細い線で描かれていた。
「……本当に行くのか? 罠かもしれないぞ」
ガレンが、低い声で尋ねる。彼のオーラは、警戒を示す強い青色をしていた。
「行く」
にえは、短く答えた。
『あの少女のオーラに、嘘はなかった。助けを求める、純粋なSOS信号だった。この情報は、信頼できる』
エリスが、決意を固めたように、杖を握りしめた。
「私も行くわ。あの子を、見捨てるわけにはいかない」
彼女のオーラは、恐怖を押し殺し、仲間を守ろうとする、強い橙色に輝いていた。
三人は、音を立てずに部屋を抜け出した。夜間の施設内は、見回りの兵士が数名いるだけだ。【危機感応】を持つにえが先導し、一行はその気配を完璧に避けながら、ハンカチに示された隠し通路へと向かう。
それは、書庫の奥にある、一つの本棚だった。特定の書物を引き抜くと、本棚が静かに横へスライドし、地下へと続く、冷たい石の階段が現れた。
階段の下からは、淀んだ空気が吹き上がってくる。そして、【危機感応】が、これまでで最も強烈な、魂を直接削るような、邪悪な波動を感知していた。
『警報。高濃度の魔力汚染を確認。精神耐性のない者は、長時間滞在不能』
「……エリス、大丈夫か?」
ガレンが、顔を青くしているエリスを気遣う。
「ええ……なんとか」
エリスは、聖なる光を自らの身体にまとわせ、邪悪な気配から身を守っていた。
階段を下りきると、そこには、広大な地下空間が広がっていた。
そして、一行は、その光景に絶句した。
空間の中央には、巨大な黒水晶でできた祭壇が鎮座している。その周囲には、魔法陣がいくつも描かれ、禍々しい光を放っていた。
そして、その魔法陣の上には、昼間見た、あの無表情な子供たちが、まるで人形のように、等間隔に寝かされている。
子供たちの身体からは、生命力そのものであるオーラが、青白い光の糸となって引き出され、中央の黒水晶へと吸い込まれていく。
黒水晶は、そのエネルギーを吸収し、増幅させ、浄化された純粋な魔力として、祭壇の上空に浮かぶ、もう一つの水晶――マリアンヌの紋章が刻まれたそれへと、供給していた。
これは、儀式だ。
子供たちの魂を「贄」として、聖女の奇跡の力の源泉となる、膨大な魔力を「収穫」するための、非道な儀式。
「……なんて、ことだ……」
ガレンが、怒りに声を震わせる。
「あの子たちは、癒されてなんかいなかった。……ただ、魔力を搾り取られるための、家畜だったなんて……!」
エリスの瞳から、涙がこぼれ落ちた。彼女の橙色のオーラが、激しい怒りと悲しみで、炎のように燃え上がった。
その時、祭壇の奥の暗闇から、一人の人物が姿を現した。
昼間、一行を出迎えた、あの神官だった。
「おやおや、こんなところまで嗅ぎつけるとは。ネズミにしては、上出来ですな」
神官は、笑っていた。そのオーラは、もはや敬虔な紫色などではなく、全てを見下す、どす黒い傲慢の色に染まっている。
「だが、見てしまったからには、生かしてはおけません。あなた方のその新鮮な魂も、マリアンヌ様の偉大な力の、礎となるがよい!」
神官が杖を振り上げると、祭壇を守るように配置されていた石像――ガーゴイルたちが、生命を宿し、赤い光を目に灯して動き始めた。
その数、四体。
絶望的な状況。罠に、はめられたのだ。
だが、にえは冷静だった。
彼女の視線は、神官でも、ガーゴイルでもなく、ただ一点、祭壇で眠らされている子供たちの中の一人へと、注がれていた。
昼間、自分に助けを求めてきた、あの少女だ。
彼女のオーラだけが、まだ、完全には緑色に染まっていなかった。その中心で、消え入りそうになりながらも、必死に、助けを求める赤い光を明滅させていた。
『目標を再設定。第一優先、少女の保護。第二優先、祭壇の機能停止。第三優先、脅威の排除』
にえは、短剣を抜き放った。
その色のない瞳の奥に、初めて、明確な「敵」を捉えた冷たい光が宿っていた。
「行け、神の番兵どもよ! 侵入者を排除せよ!」
神官が甲高い声で命じると、四体のガーゴイルが、硬い翼を広げ、一斉に襲い掛かってきた。石でできた身体は、並大抵の物理攻撃を弾き返すだろう。
「エリス! 子供たちを頼む! 俺がこいつらを引き付ける!」
ガレンが叫び、盾を構えてガーゴイルの前に立ちはだかる。彼の青いオーラが、仲間を守るという決意で激しく燃え上がった。
エリスも、すぐに自分の役割を理解した。彼女は、祭壇へと駆け寄り、眠らされている子供たちを覆う邪悪な魔力の拘束を、浄化の魔法で解こうと試みる。
「聖なる光よ、この子たちの魂を縛る、穢れた枷を打ち砕け!」
だが、神官はそれを嘲笑った。
「無駄だ、治癒師崩れが。その祭壇は、マリアンヌ様ご自身が作り上げた、魂の牢獄。貴様ごときの聖なる力で、どうにかなるものではないわ!」
神官の言う通り、エリスの光は祭壇の黒水晶に触れた瞬間力を失い、霧散してしまう。
一方、ガレンは二体のガーゴイルを相手に、苦戦を強いられていた。彼の剣は、硬い石の身体に、浅い傷しかつけられない。
『状況は、極めて不利。ガレンの消耗率、予測を上回る。エリスの魔法、無力化。このままでは、十分以内に戦線は崩壊する』
にえの思考が、高速で最適解を弾き出す。
ガーゴイル、神官、そして祭壇。三つの脅威を、同時に、かつ迅速に無力化する必要がある。
そのためには――。
『協力者の能力を、最大効率で利用する』
にえは、ガーゴイルの一体を回避しながら、エリスに向かって叫んだ。
「エリス! 私に光を! あの時と同じように!」
その声に、エリスは、はっと顔を上げた。あの時――遺跡で、スケルトンナイトを倒した時の、光の刃。
「でも、あれは……!」
「いいから、やれ!」
それは、にえが初めて発した、命令だった。感情のない、だが、有無を言わさぬ、絶対的な命令。
エリスは、一瞬、戸惑った。だが、にえの真剣な瞳を見て、迷いを振り払う。
「……分かったわ!」
エリスは、杖をにえに向け、再び、聖なる力の全てを注ぎ込む。
「我が魂の全てを捧ぐ! 彼の者を、聖なる刃と化せ――ホーリー・ブレイド!」
眩い光が、再び、にえの短剣に宿る。
神官が、その光景を見て、初めて焦りの表情を浮かべた。
「な、なんだ、その力は!? ありえん、ありえんぞ!」
にえは、光り輝く刃を手に、ガーゴイルへと向き直った。
【危機感応】が、石像の動きを完璧に予測する。聖なる力をまとった短剣は、もはやただの鉄ではない。ガーゴイルの硬い石の身体を、まるでバターのようにたやすく切り裂いていく。
一体、二体。ガーゴイルが、次々と崩れ落ちていく。
その、あまりに人間離れした光景に、神官は恐怖で顔を引きつらせた。
「ば、化け物め……! だが、子供たちを人質に取れば、貴様とて……!」
神官が、祭壇で眠る子供の一人に手をかけようとした、その瞬間だった。
彼の動きが、ぴたりと止まった。
彼は、信じられないといった表情で、自分の胸を見下ろす。そこには、背中から突き出た一本の矢が、深々と突き刺さっていた。
矢を放ったのは、ガレンだった。彼は、ガーゴイルとの戦闘の合間を縫って、隠し持っていたクロスボウで、神官を正確に射抜いたのだ。
「……子供に手を出す奴は、誰であろうと、俺が許さん」
ガレンの低い声が、地下空間に響き渡る。
神官は、信じられないといった顔で、ゆっくりと崩れ落ちた。そのどす黒いオーラが、生命の光と共に、急速に消えていく。
主を失った祭壇の魔法陣が光を失い、子供たちを縛っていた魔力の拘束が解けていく。
残った最後のガーゴイルを、ガレンが渾身の一撃で粉砕した。
静寂。
後に残されたのは、眠りから覚め、呆然と座り込む子供たちと、荒い息をつく三人の姿だけだった。
『脅威、完全排除。目標達成』
にえは、短剣から光が消えるのを確認すると、それを鞘に収めた。
すると、祭壇で目覚めた子供たちの中から、一人の少女が、おずおずと立ち上がった。
昼間、にえに助けを求めてきた、あの少女だった。
彼女は、まだ虚ろな目をしていたが、そのオーラの中心には、再び、自我の赤い光が力強く灯り始めていた。
少女はまっすぐににえの元へと歩み寄ると、その服の裾を小さな手でぎゅっと握りしめた。
そして、か細い声で呟いた。
「……ありがとう」
その、たった一言。
その言葉が、にえの【絶対精神障壁】に、これまでで最も深く、そして温かい亀裂を、一つ、刻み込んだ。
少女の「ありがとう」という言葉は、静かな地下空間に、不思議なほど強く響いた。
その一言が、まるで合図であったかのように、祭壇で目覚めた他の子供たちからも、ぽつり、ぽつりと、自我の光が灯り始めた。彼らの均一な緑色のオーラに、戸惑いや安堵、そして微かな希望を示す様々な色が混じり始める。
「……よかった。みんな、無事なのね……」
エリスが、涙ながらに子供たちに駆け寄り、一人一人の身体を、浄化の光で優しく包んでいく。長期間にわたって魔力を吸い上げられた彼らの身体は、ひどく衰弱していた。
ガレンもまた、安堵の息をつき、壁に寄りかかって座り込んだ。彼のオーラは、激しい戦闘の消耗を示すように、色褪せてはいたが、その中心には、仲間と子供たちを守り抜いたことへの静かな満足感が輝いていた。
にえは、その光景をただ黙って見つめていた。
自分の服の裾を握る、少女の小さな手の感触。それは、これまでの人生で経験したことのない、温かい重みだった。
『……未知のデータ。解析不能。ただし、不快ではない』
にえの思考が、珍しく結論の出ないループに陥っていた。
その時、絶命した神官が身につけていたポーチから、一冊の黒い手帳が転がり落ちたのに、にえは気がついた。
『新たな情報源。確保を推奨』
にえは、少女の手をそっと離すと、その手帳を拾い上げた。
中を開くと、そこには几帳面な文字で、この『救済の家』で行われていた非道な儀式の全てが詳細に記録されていた。
子供たちの名前、魔力の抽出量、そしてその魔力がどこへ送られていたのか。
全ての魔力は、王都の神殿にある聖女マリアンヌの私室に設置された、巨大な増幅装置へと供給されていた。そして、その純粋な魔力こそが、彼女が「奇跡」と称して行う、大規模治癒や人心掌握の力の源泉となっていたのだ。
さらに、手帳の最後には、恐るべき計画が記されていた。
「――来る『聖誕祭』の日、王都中の民の信仰心を最大まで高め、それをトリガーとして、この国に存在する全ての魂から、生命力を強制的に徴収する。そのエネルギーをもって、マリアンヌ様は、人を超え、神へと至る――」
「……なんだって……」
手帳を読んでいたガレンが、愕然とした声を上げる。
聖誕祭まで、あと、七日。
マリアンヌは、この国そのものを、自分一人が神になるための、巨大な生贄の祭壇にしようとしていたのだ。
「間に合わない……。今から王に報告して信じてもらえたとしても、教会を動かすには時間がかかる……!」
エリスが、絶望的な声を上げる。
だが、にえは冷静だった。
彼女は、手帳のあるページを指さした。そこには、魔力供給システムの詳細な魔法回路図が描かれていた。
「……これを、壊す」
にえが短く言う。
「壊すって、どうやって! 王都の神殿は、教会の本拠地だぞ!正面から乗り込んでも、犬死にするだけだ!」
ガレンが叫ぶ。
その通りだ。だが、にえには一つだけ確信があった。
この回路図によれば、供給システムの中枢は、たった一つの、巨大な魔力結晶体によって制御されている。そのコアさえ破壊すれば、マリアンヌの計画は、根底から崩壊する。
そして、そのコアを破壊できる可能性を持つのは、この世界で、おそらく自分だけだ。
なぜなら、そのコアの制御に使われているのは、この世界の魔法言語ではない。
手帳には、その言語がこう記されていた。
――『古代神聖語』と。
だが、にえにはその文字がはっきりと読めた。
それは、見慣れた自分の魂の言語。
日本語だった。
『システムの制御言語、日本語。外部からのハッキング、および内部からの破壊工作、実行可能。成功確率、42%』
決して、高くはない。だが、ゼロではない。
にえは、手帳を閉じると、仲間たちに向き直った。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「私が行く」
その言葉は、初めて彼女が、誰かのためではなく、自分自身の意志で未来を選択した瞬間だった。
自分の過去を、そしてこの世界の理不尽を終わらせるために。
色のない少女の静かな反逆が、今、始まろうとしていた。
にえの言葉に、ガレンとエリスは息をのんだ。
「一人で行くつもりか!? 無謀だ!」
ガレンが、即座に反対する。彼の青いオーラが、心配と焦りで激しく揺れていた。
「でも、他に方法がないわ……。私たちが正面から乗り込んでも、マリアンヌの親衛隊に阻まれるだけ……」
エリスが悔しそうに唇を噛む。彼女の橙色のオーラもまた、無力感に沈んでいた。
にえは、首を横に振った。
「一人では、ない」
彼女の視線は、部屋の隅で不安そうにこちらを見つめている、子供たちへと向けられていた。
そして、その中の一人――最初ににえに助けを求めてきた、あの少女をまっすぐに見つめた。
「あなた。名前は?」
少女は、ビクリと肩を震わせたが、にえの真剣な瞳を見て、か細い声で答えた。
「……アンナ」
「アンナ。あなたに、頼みたいことがある」
にえは、神官の手帳をアンナの前に差し出した。
「この施設の、構造、警備の時間、兵士の数。あなたが知っている、全ての情報を、教えてほしい」
アンナは、戸惑いながらも、その手帳に描かれた地図とにえの顔とを交互に見つめた。
「……どうして、私に?」
「あなたは、まだ魂を完全に支配されていなかった。この場所で、最後まで抵抗し続けた、強い魂の持ち主だから」
にえの言葉には、感情は乗っていなかった。だが、それはアンナの存在を、初めて誰かが認め肯定した瞬間だった。
アンナの瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。彼女のオーラの中心で、か弱く灯っていた自我の赤い光が、その涙と共に、力強く鮮やかに燃え上がった。
「……うん。わかった。私、協力する」
アンナは、涙を拭うと、力強く頷いた。
その日から、一行の秘密の作戦会議が始まった。
アンナは、にえが驚くほど聡明な子供だった。彼女は、この施設で働く大人たちの会話を盗み聞きし、警備の交代時間や、兵士たちの巡回ルート、そして、神殿へ続く秘密の通路の存在まで、驚くほど正確に記憶していた。
『アンナの情報により、潜入成功確率、15%上昇。極めて有益な協力者』
ガレンはその情報を元に、神殿への最も安全な侵入経路を計画する。
エリスは衰弱した子供たちの看護をしながら、にえが作戦で使うための、聖なる力を込めたお守りを作っていた。
そして、にえは、アンナから提供された情報と、神官の手帳に書かれた回路図を元に、目標である「コア」を、最短かつ最も効率的に破壊するための、完璧なシミュレーションを、頭の中で、何百回、何千回と繰り返していた。
作戦決行は、三日後の夜。
聖誕祭の準備で、王都全体の警備が、最も手薄になる日だ。
「……本当に、大丈夫なのか?」
作戦前夜、ガレンが、不安げににえに尋ねた。
にえは、答えなかった。
大丈夫ではない。成功確率は、全ての好条件が重なっても、60%に満たない。これは、客観的な事実だ。
だが、にえは、窓の外を見つめていた。そこには、エリスに手当てを受け、ようやく穏やかな寝息を立て始めた、子供たちの姿があった。彼らのオーラは、まだ弱々しいが、確かに、それぞれの色を取り戻し始めていた。
そして、自分の隣には、作戦の地図を、真剣な眼差しでなぞっている、アンナがいる。彼女は、もはや、無力な被害者ではなかった。自らの意志で、未来を切り開こうとする、小さな「共犯者」だった。
にえは、自分の胸に、そっと手を当てた。
感情はない。だが、そこには、これまで感じたことのない、不思議な感覚があった。
温かいような、少しだけ、くすぐったいような。
それは、仲間との「絆」という、新しい変数が、にえの魂に、確かな根を張り始めている証拠だった。
『……計算外の要素。だが、悪くない』
にえは、短剣の柄を、強く握りしめた。
これは、ただの生存戦略ではない。
初めて、自分の意志で、守りたいものができた。
そのために、この不確定要素に満ちた未来に、全てを賭ける。
にえの色のない瞳に、初めて、未来を見据える、強い光が灯った。