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03. 鉄の心と癒しの手

再び冒険者ギルドの扉をくぐった時、一行を迎えた空気は、行きとは明らかに異なっていた。

ガレンが、討伐の証拠であるゴブリンの耳と、ゴブリンシャーマンの禍々しい杖をカウンターに置いた瞬間、周囲の喧騒が一瞬だけ静まり、いくつもの視線がこちらへ突き刺さる。

【危機感応】が、その視線に含まれる様々な感情をノイズとして拾い上げる。驚愕、嫉妬、疑念、そして侮り。だが、以前のような直接的な敵意は薄れていた。

「……シャーマンだと!? ガレン、お前さんたちだけで仕留めたのか!」

カウンターの向こうで、受付嬢が目を丸くしている。彼女の水色のオーラが、信じられないという驚きで激しく揺れていた。

ガレンは、にえを一瞥し、ふっと息を吐いた。

「いや、俺たちだけじゃない。……この嬢ちゃんがいなければ、危なかった」

その言葉に、ギルド内がざわめく。誰もが、みすぼらしい子供にしか見えないにえと、高位の魔物であるシャーマンのイメージを結びつけられずにいた。

「冗談だろ、ガレン。そんなガキに何ができるってんだ」

酒場の方から、野次が飛ぶ。その声の主は、がたいの良い斧使いの男だった。彼のオーラは、アルコールと傲慢さで濁った赤茶色をしていた。

『脅威レベル2。直接的な危険はないが、不確定要素』

にえは、その男を一瞥した。感情のない瞳が、オーラの色をただのデータとして処理する。

斧使いの男は、にえの視線に気づくと、挑発するようににやりと笑った。

「なんだ、ガキ。やるのか?」

男が席を立とうとした、その時だった。

「やめておけ、ボルグ」

制止したのは、ガレンだった。彼の青いオーラが、静かだが強い意志を持って、斧使いの男の前に立ちはだかる。

「その子に手を出すというなら、次はあんたが依頼書の討伐対象になると思え」

その言葉には、冗談の色は一切なかった。元騎士であるガレンの実力は、このギルドの誰もが知っている。ボルグは、舌打ちすると、不満げに席に戻った。

『ガレンによる脅威の排除を確認。協力関係の有用性、再評価。信頼度、5%上昇』

受付嬢は、一連のやり取りを呆然と見ていたが、やがて我に返ると、慌てて報酬の計算を始めた。

「ゴブリン五体、シャーマン一体……討伐報酬は、銀貨八枚になります。それと、シャーマンの杖はギルドで買い取りますので、追加で銀貨五枚。合計、銀貨十三枚です」

ガレンは、カウンターに置かれた銀貨の山を受け取ると、その中から三枚を掴み、にえの前に置いた。

「今日の、あんたの取り分だ。……いや、これでも安いくらいか」

にえは、目の前に置かれた銀貨を、じっと見つめた。

これが、自分の力で得た、初めての「対価」。前世で、なけなしのお年玉を奪われ続けた記憶が、脳の片隅をよぎる。だが、【絶対精神障壁】が、それが感傷に変わる前に思考を遮断した。

『生存資源の確保。目標達成』

にえは、銀貨を無言で受け取ると、それを貫頭衣の粗末なポケットにしまった。

その時、それまで黙っていたエリスが、意を決したように口を開いた。

「……ガレン。私、この子と、パーティを組みたい」

その言葉に、ガレンだけでなく、周囲で聞き耳を立てていた冒険者たちも驚きの声を上げた。

エリスの藍色のオーラは、まだ少し揺れていたが、その中心にある橙色の光は、これまでになく強く、確かな輝きを放っていた。

「この子には、私たちが持っていない力がある。そして……この子の魂は、私が守らなければいけない気がするの」

その真っ直ぐな瞳が、にえを射抜く。

にえには、彼女の言葉の真意はまだ理解できなかった。

だが、自分に向けられた、温かい色のオーラ。それは、この色のない世界で、初めて感じる、不快ではないノイズだった。

エリスの突然の提案に、ギルドの中は再び静まり返った。誰もが、あの気難しく、他人を寄せ付けないことで有名な治癒師が、初めて会ったばかりの子供をパーティに誘うという異常事態を、信じられない思いで見つめていた。

ガレンが、最も驚いていた。

「エリス、本気か? 確かにこの子の力は本物だが、素性も分からないんだぞ」

その言葉に、エリスは静かに首を振った。

「素性なんて関係ない。私には分かる。この子は、ただ生きるために戦っているだけ。……かつての、私のように」

彼女の藍色のオーラが、過去の痛みを思い出すかのように、深く沈む。だが、その瞳は、まっすぐににえを見つめていた。

『対象からの共感を検知。協力関係における信頼度の急上昇を確認』

にえは、エリスの感情の機微を【心象読解】で読み解きながら、パーティという提案のメリットとデメリットを高速で計算していた。

『メリット:安定した収入源の確保。安全な寝床の提供。情報収集の効率化。社会的信用の獲得。デメリット:団体行動による自由の制限。未知の人間関係における精神的負荷。……結論:メリットがデメリットを大幅に上回る。提案を受諾することが最適解』

にえは、エリスに向かって、小さく、しかしはっきりと頷いた。

その返答に、エリスの顔が、わずかに綻んだ。彼女のオーラの中心にある橙色の光が、嬉しそうに、ふわりと広がった。

ガレンは、そんな二人を見て、天を仰ぐように深くため息をついた。

「……分かった、分かったよ。お前がそこまで言うなら、俺に否やはない。だが、言っておくが、俺たちのパーティは甘くないぞ」

彼はそう釘を刺すと、にえに向き直った。

「俺たちの主な仕事は、遺跡の探索だ。危険な罠も、強力な魔物もいる。それに、俺はリーダーとして、お前の安全を最優先にはできない。自分の身は、自分で守ることが絶対条件だ。それでも、いいんだな?」

その言葉は、突き放しているようで、実際には、にえの力を認めた上での対等な契約の申し出だった。彼の青いオーラは、リーダーとしての覚悟と、にえへの期待が入り混じった、誠実な色をしていた。

にえは、再び頷いた。自分の身を守ること。それこそが、彼女が生まれた時から、ただの一つだけ守り続けてきた原則だったからだ。

こうして、にえは、ガレンとエリスのパーティに、正式に加入することになった。

「よし、話は決まりだ。今日はもう遅い。宿に戻って休み、明日からのことを考えよう」

ガレンに促され、一行はギルドを後にした。

彼らが向かったのは、ギルドのすぐ隣にある「憩いの斧亭」という宿屋だった。ガレンとエリスは、普段からこの宿を定宿にしているらしい。

部屋は、二人部屋を一つ借りることになった。質素だが、清潔なベッドが二つと、小さなテーブルが置かれている。森の中で目を覚ましたにえにとって、屋根があり、鍵のかかる部屋というのは、それだけで最高の安全地帯だった。

「悪いが、ベッドは一つ、俺と使ってもらうぞ。エリスは一人でゆっくり休め」

ガレンがそう言って、にえの寝床を指定する。それは、エリスという女性への配慮と、まだ完全に信頼しているわけではないにえへの監視、両方の意味合いを含んでいるのだろうと、にえは冷静に分析した。

その夜、にえは、生まれて初めて、硬い地面や埃っぽい布団ではない、清潔なベッドに横になった。

隣のベッドでは、エリスが静かな寝息を立てている。彼女のオーラは、眠っている間も、悲しい藍色をしていた。

天井の木目を、感情のない瞳で見つめる。

パーティ。仲間。契約。

それは、にえの思考の辞書には存在しなかった、新しい単語だ。

この新しい変数が、自分の生存確率に、どのような影響を与えるのか。

にえは、その答えの出ない計算を、静かに繰り返しながら、色のない世界の、最初の夜を過ごした。

翌朝、にえは日の出と共に目を覚ました。睡眠時間は短かったが、身体に疲労感はない。【飢餓・毒物耐性】のスキルは、睡眠による回復効率も高めているのかもしれない。

『身体状況、最適。思考能力、クリア。行動に支障なし』

隣のベッドでは、まだガレンが寝息を立てている。彼のオーラは、眠っている間は穏やかな空色をしていた。

にえは音を立てずにベッドから抜け出すと、部屋の隅で、昨夜の戦闘シミュレーションを頭の中で繰り返していた。あの状況で、より効率的に、より低リスクで脅威を排除する方法はなかったか。思考は、常に生存確率の最大化を求めていた。

やがて、ガレンとエリスも起き出し、三人は宿屋の一階にある食堂で朝食をとることになった。

食卓に並んだのは、黒パンと、塩辛いスープ、そしてチーズの塊。にえは、それを味も感じずに、ただの燃料として機械的に口へ運んだ。

一方、エリスはパンをほとんど手につけず、スープを数口すすっただけだった。彼女の藍色のオーラは、朝からひどく沈んでいる。

「エリス、また食わないのか。それでは体力が持たないぞ」

ガレンが、心配そうな声で言う。彼の青いオーラに、父親のような保護の色が混じる。

「……食欲が、ないの」

エリスは、力なく答えた。

にえは、彼女のオーラを【心象読解】で観察する。藍色のオーラの奥深く、その中心で灯る橙色の光が、まるで風の中の蝋燭のように、弱々しく揺れていた。そして、その周囲には、前世で何度も見た、ある特定の感情の色が渦巻いていた。

『自己嫌悪と、深い罪悪感。対象は、過去の出来事に起因する精神的外傷トラウマを抱えていると断定』

それは、にえ自身が、かつて自らの身体に刻み込まれたものと同質の、魂の傷だった。

おそらく、彼女は貴族に虐げられたという過去を持つ。その経験が、彼女の食欲を奪い、他者への信頼を失わせ、世界を悲しい藍色に見せているのだろう。

にえは、その事実をただのデータとして認識したが、口には出さなかった。

他人の魂の傷に、どう触れていいのか分からない。そして何より、自分自身の傷でさえ、どう扱っていいのか分からないのだから。

『最適行動:不干渉。現状維持』

にえが沈黙していると、ガレンが話題を変えた。

「さて、今日の予定だが……にえ、お前にはまず、最低限の装備を揃えさせる。今のままでは、さすがに危険すぎるからな」

彼はそう言うと、銀貨を数枚、テーブルに置いた。

「ギルドからの前金だ。それと、俺とエリスからの、まあ、先行投資だと思っておけ。防具と、何か武器を選んでこい。エリス、お前はにえに付き合ってやってくれ。俺は、次の依頼の情報を集めてくる」

エリスは、驚いたように顔を上げた。

「私が……?」

「ああ。女同士の方が、何かと都合がいいだろう。頼んだぞ」

ガレンはそう言うと、足早に食堂を出て行った。

残されたのは、にえとエリス、二人だけだった。気まずい沈黙が、テーブルの上に落ちる。

エリスの藍色のオーラが、戸惑いで揺れていた。彼女は、にえと二人きりになることに、強い緊張を感じているようだった。

やがて、エリスは意を決したように、小さな声で言った。

「……行きましょうか。町には、良い鍛冶屋があるから」

にえは、無言で頷いた。

エリスは、自分の心を読まれたくないのだろう。そのオーラは、硬い殻のように、内側の橙色の光を守っていた。

にえは、その殻を無理にこじ開けようとは思わなかった。

ただ、自分と同じように、世界に傷つけられた魂が、すぐ隣にある。

その事実だけが、色のないにえの世界に、また一つ、新しいデータとして静かに記録された。

ロンドの町は、朝の活気に満ちていた。荷馬車が行き交い、市場には威勢のいい声が響き渡る。その喧騒の中を、にえとエリスは並んで歩いていた。

エリスは、数歩先を歩き、決してにえと視線を合わせようとはしない。彼女の藍色のオーラは、他者への警戒心を示すように、わずかに収縮していた。

『対象との心理的距離、約三メートル。これ以上の接近は、対象の精神的負荷を増大させると予測』

にえは、その距離を保ったまま、黙ってエリスの後をついていった。

やがて、二人は町の職人街の一角にある、一軒の店にたどり着いた。店の入り口には、槌と金床をかたどった看板が掲げられている。中からは、カン、カン、というリズミカルな金属音が聞こえてきた。

「ここが、町で一番腕のいい鍛冶屋、『黒鉄の槌』よ」

エリスが、小さな声で説明する。

店の中に足を踏み入れると、熱気と、鉄の焼ける匂いが二人を迎えた。壁には、剣や槍、鎧といった様々な武具が所狭しと並べられている。店の奥にある炉では、真っ赤に焼けた鉄を、屈強な職人が大槌で叩いていた。

「おう、エリスじゃないか。珍しいな、お前さんが一人で来るとは」

炉の前にいた、店の主人らしき大柄な男が、汗を拭いながら声をかけてきた。そのオーラは、実直な職人気質を示す、力強い鋼色をしていた。

「こんにちは、ゴードンさん。今日は、この子の装備を選びに来たの」

エリスがにえを促すと、ゴードンと呼ばれた店主は、にえの姿を一瞥し、眉をひそめた。

「……なんだ、このガキは。ガレンの奴、また厄介事を拾ってきたのか?」

その言葉には侮蔑の色があったが、オーラ自体に悪意はない。【心象読解】が、彼の言葉が単なるぶっきらぼうな表現であると判断する。

にえは、店主の言葉を意に介さず、壁に並べられた武具を観察し始めた。

剣、斧、槍、弓。様々な武器がある。どれも、今の自分の小さな身体では、まともに扱うことはできないだろう。

『身体能力と武器重量の不均衡。長物、重火器は選択肢から除外。推奨される武器カテゴリーは、短剣、投擲武器』

思考が、最適な選択肢を絞り込んでいく。

にえは、壁にかけられた一本の短剣に、目を留めた。装飾のない、実用性だけを追求した無骨なデザイン。だが、その刀身から放たれるオーラは、他のどの武器よりも鋭く、純粋な鋼色をしていた。

にえがその短剣を指さすと、店主は意外そうな顔をした。

「ほう、そいつに目をつけたか。嬢ちゃん、なかなか見る目があるじゃねえか。そいつは、ただの鉄じゃねえ。隕鉄を混ぜて打ち上げた、逸品だ。切れ味は保証するが、ちと値が張るぞ」

エリスが、その値段を聞いて、少し顔を青くした。ガレンから預かった銀貨では、到底足りない。

「そんなに高いなら、もっと安いもので……」

エリスがおずおずと言うが、にえは短剣から視線を外さなかった。

あの鋭い鋼色のオーラ。それは、この店にあるどの武器よりも、効率的に「脅威を排除できる」ことを示していた。生存確率を上げるためには、最高の道具を選ぶ必要がある。

にえは、懐から、昨日手に入れた銀貨三枚を取り出し、カウンターに置いた。そして、さらに、自分の貫頭衣の裾を、少しだけめくって見せる。

そこには、前世でトラックに轢かれる直前、子供を突き飛ばした際にできた、大きな痣がまだうっすらと残っていた。

にえは、その痣と、短剣とを交互に指さした。

『意味:この身体には、対価となる傷がある。不足分は、労働で支払う』

言葉にはならなかったが、その強い意志は、店主のゴードンに正確に伝わったようだった。

ゴードンは、最初、呆気に取られていたが、やがて、豪快に笑い出した。

「はっはっは!面白い!気に入ったぜ、嬢ちゃん!いいだろう、その短剣、持って行きな!」

彼の鋼色のオーラが、興味と好意を示す、明るい金色に輝いた。

「代金は、出世払いで構わねえ。その代わり、その短剣で、デカい仕事を成し遂げたと俺の耳に届かせてみやがれ。それが、最高の代金ってもんだ」

こうして、にえは、初めて自分の意志で、自分のための「武器」を手に入れた。

その鉄の重みが、この世界で生き抜くという決意を、改めてにえの魂に刻み付けた。

短剣と、身体に合った革の鎧。最低限の装備を整えたにえとエリスは、鍛冶屋を後にした。エリスは、信じられないといった様子で、まだ興奮が冷めやらないようだった。

「……あのゴードンさんが、あんなに気前がいいなんて。あなた、一体何をしたの?」

彼女の藍色のオーラに、純粋な好奇心を示す明るい水色が混じり始めている。それは、にえと出会ってから、初めて見せる明確な感情の変化だった。

『対象の心理的障壁、わずかに低下。良好な兆候』

にえは答えず、ただ、手に入れた短剣の柄を、確かめるように握りしめた。隕鉄を混ぜたという刀身は、ひやりとした感触で、不思議と手に馴染む。

宿屋に戻ると、ガレンが依頼書が貼られた掲示板の前で腕を組んでいた。

「戻ったか。……ほう、その短剣を選んだか。良い選択だ」

ガレンは、にえが手にした武器を一瞥すると、満足げに頷いた。彼のオーラもまた、にえの選択を肯定する、安定した青色をしていた。

「さて、次の仕事だが、ちょうどいいものが見つかった。『嘆きの水道橋』の調査依頼だ」

彼が指さしたのは、町の地下に広がる、古代の水道橋遺跡の地図だった。

「最近、そこから低級なアンデッドが湧き出しているらしい。原因を突き止め、可能なら排除するのが今回の目的だ」

アンデッド。その単語に、エリスのオーラが再び緊張で収縮した。治癒師である彼女にとって、生命を冒涜する存在であるアンデッドは、天敵とも言える相手だった。

「アンデッドは、物理攻撃が効きにくい。エリスの聖属性魔法が、今回の鍵になるだろう」

ガレンが言う。

「にえ、お前には、俺とエリスの護衛と、先行索敵を頼みたい。昨日のあの力、当てにさせてもらうぞ」

にえは、黙って頷いた。遺跡の調査。それは、未知の脅威と、未知の情報に満ちている。自身のスキルを試し、生存のためのデータを収集するには、最適な環境だった。

翌日、三人は町の管理者から鍵を借り、地下遺跡への入り口へと向かった。

ひやりとした、湿った空気が、地下から吹き上がってくる。階段を下りていくと、やがて視界が開け、広大な地下空間が姿を現した。天井は高く、いくつもの巨大な石の柱がそれを支えている。かつては、この空間を清らかな水が流れていたのだろう。だが今、そこに満ちているのは、澱んだ空気と、不気味な静寂だけだった。

【危機感応】が、空間全体に漂う微弱な悪意を感知し、常に脳内で小さなノイズを発生させている。

『遺跡内の脅威レベル、平均1。ただし、複数の敵性個体が潜伏していると予測』

ガレンが松明に火を灯し、一行は慎重に奥へと進んでいく。

エリスは、杖を強く握りしめ、周囲を警戒していた。彼女のオーラは、恐怖を示す藍色と、使命感を示す橙色が、不安げに混じり合っていた。

にえは、その二人を護るように、最後尾を歩く。彼女の意識は、周囲三百六十度に張り巡げられ、あらゆる物音、空気の流れ、そしてオーラの変化を捉えていた。

しばらく進むと、開けた広場のような場所に出た。その中央には、大きな水溜まりができており、天井から滴る水滴が、不規則な波紋を描いている。

その時だった。

キィィィン!!

これまでで最も鋭いノイズが、にえの脳を貫いた。空間が、まるで布のように激しく引き攣れる。

『警報! 脅威レベル6! トラップ作動!』

「伏せろ!」

にえは、思考よりも先に、声を発していた。

その声と同時に、広場の四方から、無数の矢が放たれた。それは、ガレンもエリスも、全く気づいていなかった、巧妙に隠された罠だった。

ガレンは咄嗟に盾を構え、エリスは悲鳴を上げてその場にうずくまる。

だが、矢の数はあまりにも多い。全てを防ぎきることは不可能だ。

絶体絶命。

その瞬間、にえは、エリスの前に飛び出していた。そして、無意識に、一つの言葉を口にする。

それは、前世の日本で、自分自身に、何度も、何度も言い聞かせた言葉だった。

「――守る」

日本語で、そう呟いた。

その刹那、にえの身体から、淡い光の粒子が溢れ出した。光は、にえとエリスの周囲に集まると、半透明の障壁を形成する。

放たれた矢が、その光の壁に次々と突き刺さり、甲高い音を立てて弾かれていく。

【言霊術式:日本語】。

その力が、初めて、明確な形で発動した瞬間だった。

ガレンが、エリスが、そしてにえ自身もまた、目の前で起きた奇跡を、ただ呆然と見つめていた。

光の壁は、数秒間だけその形を維持し、やがて静かに霧散した。壁に弾かれた矢が、カラン、カラン、と虚しい音を立てて床に散らばっている。

静寂。

ガレンは、盾を構えたまま、硬直していた。彼の青いオーラは、理解不能な現象を前にして、激しく明滅している。

「……今の、は……魔法、なのか……? 詠唱も、魔法陣もなしに……?」

エリスもまた、その場に座り込んだまま、目の前で起きた出来事を信じられないといった表情で、にえを見上げていた。彼女の藍色のオーラは、これまでにないほど大きく揺らぎ、その中心にある橙色の光が、まるで星のように強く、またたいている。

『【言霊術式】の発動を確認。消費エネルギー、不明。再現性、不明。要検証』

にえ自身も、自分の身に何が起こったのかを冷静に分析しようとしていた。ただ、「守る」という意思が、日本語というトリガーによって、現象として具現化した。それだけの事実を、データとしてインプットする。

だが、その分析を、新たな脅威が遮った。

広場の奥、暗闇の中から、いくつもの影が姿を現す。カシャ、カシャ、と骨が擦れ合う不気味な音。

スケルトン。かつてこの遺跡で命を落とした者たちの、成れの果てだ。その眼窩には、生命のない、空虚な赤い光が揺らめいていた。

数は、十体以上。

『敵性個体、十二。脅威レベル、一体につき2。総脅威レベル、4』

罠を起動させたのは、こいつらだった。

「ちっ、罠だけじゃなかったのか!」

ガレンが悪態をつき、剣を構え直す。エリスも、慌てて立ち上がり、杖を握りしめた。だが、彼女の精神は、先ほどの矢の雨と、にえの不可解な力によって、まだ動揺から抜け出せずにいる。オーラは不安定で、すぐに魔法を放てる状態ではない。

ガレン一人では、この数を相手にするのは無謀だ。

『状況分析。協力者の戦線復帰、期待不能。ガレン単独での戦闘は、消耗率が高い。最適行動を再計算』

にえは、手にした短剣を握り直した。

自分が、動くしかない。

スケルトンの一体が、錆びた剣を振りかぶり、にえへと襲い掛かってきた。

【危機感応】が、その大振りの攻撃軌道を完璧に予測する。にえは、最小限の動きでそれを回避すると、すれ違いざまに、短剣をスケルトンの脚の骨へと叩きつけた。

ゴッ、という鈍い音。骨にヒビが入るが、砕くには至らない。

『攻撃力不足。敵の構造的弱点を突く必要がある』

スケルトンは、痛みを感じない。ただ、プログラムされたように、再び剣を振り上げてくる。

にえは、次々と繰り出される攻撃を冷静に回避しながら、敵の動きを観察し、データを収集していく。関節の可動域、骨の強度、重心の移動。全ての情報を脳内で統合し、最も効率的に無力化できるポイントを探る。

そして、数度の攻防の後、最適解を導き出した。

『弱点、特定。頸椎。行動パターン、更新』

次の瞬間、にえの動きが変わった。

スケルトンの攻撃を、ただ避けるのではない。その攻撃の勢いを利用するように、相手の懐へと深く踏み込む。そして、回転する遠心力を乗せた短剣の切っ先が、寸分違わず、スケルトンの頸椎の隙間へと吸い込まれていった。

ゴリッ、という硬い感触。

首の骨を断たれたスケルトンは、頭部を床に落とし、そのまま崩れ落ちて活動を停止した。

その、あまりにも人間離れした、精密機械のような戦いぶりに、ガレンは言葉を失う。

にえは、一体を仕留めても、足を止めない。次々と現れるスケルトンの群れの中を、まるで幽鬼のように舞い、一体、また一体と、的確にその機能を停止させていく。

恐怖はない。躊躇もない。

ただ、生存という目的のために、脅威を排除するだけの、色のない作業。

だが、その光景を見ていたエリスのオーラに、明確な変化が起きていた。

彼女の藍色のオーラが、少しずつ、その色を薄めていく。そして、代わりに、中心で輝いていた橙色の光が、じわじわと、その領域を広げ始めていたのだ。

それは、感謝でも、驚愕でもない。

自分を守るために、感情もなく、ただ一人で戦い続ける、小さな少女の背中。

その姿に、エリスは、かつて自分が失ってしまったはずの、ある感情を思い出していた。

「守りたい」という、温かい感情を。

「――聖なる光よ、彼の魂に安らぎを!」

エリスの杖の先から、浄化の光が放たれた。それは、スケルトンの一体を包み込み、その骨を聖なる炎で焼き尽くす。

彼女の顔には、もう怯えはなかった。

そのオーラは、悲しみの藍色と、決意の橙色が混じり合った、美しい夜明けのような色に、変わっていた。

エリスが戦線に復帰したことで、戦況は一変した。

ガレンが、持ち前の剣技で前衛としてスケルトンの攻撃を受け止め、数を減らす。

にえは、その援護を受けながら、遊撃手として敵の陣形をかき乱し、的確に一体ずつ無力化していく。

そして、後衛に位置するエリスが、杖から放つ聖なる光で、残ったスケルトンを一体ずつ浄化していく。

三人の間に、言葉はない。だが、それぞれの役割が、まるで以前からそうであったかのように、完璧に噛み合っていた。

ガレンの青いオーラは、信頼できる仲間を得た喜びで、力強く輝いている。

エリスのオーラは、もう悲しみの藍色ではなかった。仲間を守るという強い意志を示す、燃えるような橙色に染まっていた。

そして、にえは、その二つの温かい色のオーラに囲まれながら、ただ淡々と、脅威を排除し続けていた。

『連携戦闘における生存確率、99.8%に上昇。極めて有効な戦術と判断』

やがて、最後のスケルトンが、エリスの光に包まれて塵へと還った時、広場には再び静寂が訪れた。

ガレンは、荒い息をつきながらも、満足げな笑みを浮かべていた。

「……はっ、やったな! お前たち、最高のチームだ!」

その言葉に、エリスも、疲労の中にかすかな笑みを浮かべる。

だが、にえは、警戒を解いていなかった。

【危機感応】が、まだ終わっていないと告げている。ノイズは消えていない。それどころか、この広場の奥、暗闇の中から、さらに強大で、邪悪な気配が迫ってきていた。

『警報。脅威レベル8。高位のアンデッド個体、一体。接近中』

「まだ、来る」

にえが短く呟くと、ガレンとエリスの表情が引き締まった。

暗闇の奥から、ゆっくりと姿を現したのは、一体のスケルトンだった。だが、先ほどの個体とは、その存在感がまるで違う。

身体は一回り大きく、その骨は黒ずんだ鉄のような光沢を放っている。ボロボロの甲冑を身にまとい、その手には、両刃の巨大な戦斧が握られていた。

そして何より、その眼窩に宿る光が、これまでの個体のような空虚な赤色ではなく、明確な知性と、生者への憎悪を宿した、どす黒い紫色に輝いていた。

スケルトンナイト。強力な魔力によって動く、アンデッドの上位種だ。

「……まずいな。あいつは、そこらのスケルトンとは訳が違う」

ガレンが、喉を鳴らす。彼の青いオーラに、初めて緊張の色が走った。

スケルトンナイトは、一行を視界に捉えると、雄叫びともとれる、骨が軋む不気味な音を上げた。そして、その巨大な戦斧を振り上げ、一直線に突進してくる。

その標的は、この場で最も聖なる気を放つ、治癒師エリスだった。

「エリス、下がれ!」

ガレンが叫び、盾を構えて前に出る。だが、スケルトンナイトの突進は、あまりに重く、速い。ガレンの盾が戦斧を受け止めた瞬間、凄まじい衝撃音が響き渡り、ガレンの身体が数メートル後方まで吹き飛ばされた。

「ガレン!」

エリスが悲鳴を上げる。

ガレンは、壁に叩きつけられ、動けない。彼の青いオーラが、苦痛で激しく乱れている。

もはや、盾はいない。

スケルトンナイトが、再び戦斧を振り上げ、無防備なエリスへと迫る。

絶望的な状況。

その時、エリスは、自分の前に小さな背中が立ちはだかったのに気づいた。

にえだった。

彼女は、巨大なスケルトンナイトを前にしても、その表情一つ変えず、ただ静かに、短剣を構えていた。

『脅威レベル、最大。ガレン、戦闘不能。エリス、防御手段なし。単独での迎撃は、生存確率3%。……だが』

にえの思考が、初めて、確率論ではない、別の何かによって動かされた。

目の前で、恐怖に震える、橙色のオーラ。自分をパーティに誘ってくれた、温かい光。

前世では、誰も自分を守ってはくれなかった。誰も、自分の前に立ってはくれなかった。

だから、自分は、この光を守る。

『……最適解、更新』

にえは、後ろにいるエリスに、初めて、自分の意志で、命令を発した。

「エリス。私の右手に、あなたの光を」

その言葉は、命令というより、ほとんど呟きに近かった。だが、エリスには、その意味が正確に伝わった。

「……うん!」

エリスは、涙をこらえながら、力強く頷いた。そして、震える手で杖を構え、にえの右腕、短剣を握るその手に、自身の聖なる魔力の全てを集中させる。

「聖なる祈りを、この手に宿して――ホーリー・エンチャント!」

エリスの橙色のオーラが、眩いばかりに輝き、その光が、にえの短剣へと注ぎ込まれていく。

鉄の短剣が、まばゆい光を放ち始めた。それは、アンデッドの骨を砕くための、聖なる刃。

スケルトンナイトの戦斧が、にえの頭上めがけて振り下ろされる。

【危機感応】が、その軌道を完璧に読み切る。

にえは、その攻撃を紙一重で回避すると、光り輝く短剣を握りしめ、巨大な敵の懐へと、迷いなく飛び込んでいった。

それは、二人の魂が、初めて一つになった瞬間だった。

聖なる光をまとった短剣は、もはやただの鉄塊ではなかった。それは、にえの右腕そのものが光の剣と化したかのような、凄まじい熱量と浄化の力を宿していた。

スケルトンナイトが振り下ろした戦斧を、にえは最小限の動きで回避する。その巨大な質量が生み出す風圧が、髪を激しく揺らした。だが、にえの瞳は、揺らぐことなく敵の急所だけを見据えている。

『敵の行動パターン、分析完了。攻撃後の硬直時間、1.2秒。反撃の最適タイミング、現在』

懐に飛び込んだにえは、スケルトンナイトの鎧の隙間――脇の下から剥き出しになった肋骨へと、光の刃を突き立てた。

ジュッ、という肉の焼けるような音。聖なる力は、アンデッドの邪悪な魔力を中和し、その骨を内側から焼き尽くしていく。

「グォォォオオオ!」

スケルトンナイトが、初めて苦痛の雄叫びを上げた。その眼窩に宿る紫色の光が、憎悪と苦悶で激しく明滅する。

体勢を立て直した巨体が、にえを振り払おうと暴れ狂う。だが、にえは、まるで身体の一部であるかのように、敵に張り付いたまま離れない。

前世で、父親のジャイアントスイングに耐えた経験が、この異常な平衡感覚を生み出していた。【絶対的平衡感覚と反射神経】が、荒れ狂う敵の動きに完璧に同調する。

『敵の抵抗を確認。次の攻撃パターンを予測。左腕による薙ぎ払い。回避後、第二の弱点、膝関節を狙う』

思考は、どこまでも冷静に、次の行動を指示する。

スケルトンナイトの左腕が、薙ぎ払うように振るわれる。にえは、その動きを読んで身体を沈めると、光の刃を肋骨から引き抜き、そのまま流れるような動きで、敵の膝の関節へと深々と突き刺した。

ゴキャッ、という鈍い音と共に、スケルトンナイトの右足が砕け散る。

巨大な身体が、バランスを失って大きく傾いだ。

勝機。

にえは、地面を蹴り、傾いだ敵の身体を駆け上がった。そして、最後の急所――憎悪の光を放つ頭蓋骨へと、聖なる刃を振り下ろす。

その時、にえの脳裏に、全く関係のない光景が、ノイズのようにフラッシュバックした。

――17階の窓から、逆さ吊りにされる感覚。

――滑り台から突き落とされ、背中を強打した時の衝撃。

――見ず知らずの男たちに、なすすべもなく囲まれた、あの屈辱。

理不尽な暴力。奪われ続けた人生。

『……なぜ、私は、いつも……』

思考に、初めて、論理ではない、感情的な問いが混じる。

【絶対精神障壁】が、そのノイズを消去しようと稼働する。だが、エリスから流れ込む、温かい橙色のオーラが、その壁を優しく溶かしていく。

壁に、小さな亀裂が入った。

その隙間から、これまで押し殺し続けてきた、膨大な感情の奔流が、一滴だけ、漏れ出した。

にえの瞳から、一筋の雫が、静かにこぼれ落ちた。

それは、悲しみではなかった。怒りでもなかった。

ただ、生まれて初めて、自分の意志で、理不尽な暴力に「否」を突きつけたことへの、魂の震え。

その色のない涙が、光の刃に落ちた瞬間、短剣の輝きが爆発的に増大した。

「――壊れろ」

日本語で、そう呟いた。

【言霊術式】と、エリスの聖なる力、そして、にえが初めて流した涙。その三つが融合し、聖なる刃は、スケルトンナイトの頭蓋骨を、憎悪の光ごと、完全に両断した。

邪悪な光が消え、巨大な骨の身体は、ゆっくりと塵へと還っていく。

後に残されたのは、静寂と、短剣を握りしめたまま、呆然と立ち尽くす一人の少女だけだった。

壁際で、その光景の一部始終を見ていたガレンが、震える声で呟いた。

「……聖女、だ……」

エリスもまた、涙を流していた。それは、悲しみの藍色ではなく、希望と再生を示す、温かい橙色の涙だった。

にえは、自分の頬を伝う、一筋の雫の感触に、戸惑っていた。

これが、「涙」というものなのか。

温かいような、冷たいような、不思議な感覚。

色のない世界に、また一つ、未知の変数が、静かに、しかし確かに、加えられた瞬間だった。


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