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02. 見えない祝福

「にえ……」

フードの少女が、その名を小さく反芻した。彼女の藍色のオーラに、戸惑いと、わずかな共感が入り混じったような複雑な色が浮かぶのを、【心象読解】は捉えていた。

「私はエリス。こっちはガレンと、荷馬車のマーカスさん。私たちは、近くの町まで戻るところだったんだけど……あなたさえ良ければ、町まで一緒に乗っていく?」

エリスと名乗った少女の申し出。それは、にえにとって生存確率を飛躍的に向上させる提案だった。断る理由はない。

にえが小さく頷くと、ガレンと呼ばれた青いオーラの男が、警戒を解いて息をついた。

「そうか、良かった。こんな森の近くに一人だなんて、心配で放っておけないからな」

ガレンのオーラは、実直さと責任感を示す、安定した青色を保っている。彼らの言葉に嘘はないと判断できた。

荷台に乗るよう促され、にえは無言でそれに従った。幌の中は、薬草の匂いが満ちていた。エリスが治癒師か、それに類する職業であると推測する。

荷馬車が再びゆっくりと動き出す。

幌の中から、最初に顔を覗かせた少女――マーカスの娘らしい――が、興味津々といった黄色のオーラを揺らしながら、にえに話しかけてきた。

「ねえ、お名前、にえちゃんって言うの? 私はリリィ! エリスお姉ちゃんたちと、薬草を採りに来てたんだよ!」

リリィは屈託がない。そのオーラには、一点の曇りもなかった。にえは、ただ黙ってリリィを見つめる。どう反応していいのか、過去のデータに適切な事例が存在しない。

『対人コミュニケーションの最適解、検索中……エラー。該当パターンなし』

にえが沈黙していると、エリスがリリィを優しく制した。

「リリィ、にえさんは疲れているのかもしれないわ。少し、静かにしてあげましょう」

エリスの藍色のオーラが、にえを庇うように揺れる。そのオーラの中心にある橙色の光が、先ほどよりも少しだけ、強く輝いた気がした。

ガレンが、荷台の隅に置かれていた水袋と、干し肉をにえに差し出した。

「腹が減っているだろう。食べるといい」

『……空腹感、なし。しかし、栄養補給は生命維持に必要』

にえは、差し出された干し肉を一口だけ、機械的に咀嚼した。硬く、塩辛い。美味しいという感覚はない。ただ、身体に必要なエネルギー源として情報を処理する。

ガタガタと揺れる荷馬車の中、にえはただ静かに座っていた。

リリィの純粋な黄色のオーラ。ガレンの誠実な青色。そして、エリスの悲しみを帯びた藍色と、その奥で震える温かい橙色。

様々な色のオーラに囲まれるという経験は、にえにとって初めてのことだった。これまでの世界は、無機質な灰色か、暴力的な赤黒い色しか存在しなかったからだ。

不意に、荷馬車が大きく揺れた。その衝撃で、にえの腕が荷台の木枠に強く打ち付けられる。皮膚が擦りむけ、じわりと血が滲んだ。

痛みは感じない。しかし、その赤い血を見たエリスが、はっと息をのんだ。

「怪我を……! すぐに治すから、じっとしていて」

エリスが慌ててにえの腕を取り、その傷口にそっと手をかざす。すると、彼女の手のひらから、淡く、温かい光が溢れ出した。

それは、エリスのオーラの中心で輝いていた、あの橙色の光と同じ色をしていた。

温かい光に包まれた傷口が、まるで時間を巻き戻すかのように、瞬く間に塞がっていく。

魔法。

この世界には、魔法が存在する。

その事実が、驚きという感情を伴わずに、ただのデータとして、にえの脳にインプットされた。そして同時に、ある仮説が、思考の海に静かに浮かび上がった。

『仮説:この世界において、私の持つ異常な知覚能力もまた、「魔法」あるいはそれに類する「スキル」として分類される可能性がある』

にえは、自分の傷を癒したエリスの顔を、じっと見つめ返した。

その瞳に、初めて、色のない世界を解き明かすための「好奇心」という光が、微かに宿った。

荷馬車に揺られること、約二時間。森を抜け、視界が開けると、石造りの壁に囲まれた町が見えてきた。町の名前は「ロンド」というらしい。

壁の高さ、門の大きさ、往来する人々の服装や荷物から、この町が一定規模の交易拠点として機能していることが推測された。

町の中は、活気に満ちていた。石畳の道を人々が行き交い、様々な店先から威勢のいい声が飛んでくる。多種多様な人間のオーラが混じり合い、にえの【心象読解】には、まるで万華鏡のような光の洪水として知覚された。そのほとんどは、生活に根差した穏やかな色だったが、中には盗賊たちのそれに似た、淀んだ色のオーラも散見された。

『この環境は、情報収集には適しているが、同時に脅威レベルも高い。警戒を継続』

荷馬車は、町の中心にある広場で止まった。

「さて、着いたぞ。にえちゃん、これからどうするんだい?」

御者台のマーカスが、心配そうな若草色のオーラで尋ねてくる。

にえには、行くあても、金もない。唯一あるのは、この特異な知覚能力だけだ。

『最適行動:この能力を生存資源に変換する方法を探す』

にえが思考していると、ガレンが口を開いた。

「俺たちは、今日の依頼の報告に冒険者ギルドへ向かう。……君さえよければ、ギルドまで一緒に行ってみるか? 何か、身の振り方のヒントくらいは見つかるかもしれない」

冒険者ギルド。その単語に、にえの思考が反応した。森で遭遇した盗賊、そして目の前のガレンとエリス。この世界には、「戦闘」や「探索」を職業とする者たちがいる。そして、それを斡旋する組織がある。それは、にえの持つ能力が、「資源」として最も評価されやすい場所である可能性が高い。

にえは、無言で頷いた。

案内されたのは、町の広場に面した、ひときわ大きな木造の建物だった。扉の上には、交差する剣と盾をかたどった看板が掲げられている。

中に入ると、酒と汗と鉄の匂いが混じり合った、むっとするような熱気が一行を迎えた。屈強な戦士たちが酒を酌み交わし、壁には様々な紙がびっしりと貼られている。その紙には、魔物の絵や、依頼内容らしきものが書かれていた。

「ここで依頼を受けたり、情報を交換したりするんだ」

ガレンが説明してくれる。その間も、にえの【危機感応】は、ギルド内に渦巻く微弱な敵意や殺気を、絶えずノイズとして拾い続けていた。ほとんどは、ただの酔っぱらいの虚勢だろう。しかし、中には本物の、血の匂いを纏ったオーラを放つ者もいる。

『ここは、力の優劣が生存に直結する場所。油断はできない』

エリスは、そんなギルドの空気が苦手なのか、藍色のオーラをさらに深く沈ませ、ガレンの後ろに隠れるようにしていた。

一行が奥のカウンターへ向かうと、快活そうな受付嬢が笑顔で迎えた。

「あら、ガレンさんにエリスさん、お帰りなさい。依頼のオークの牙は?」

「ああ、無事に。それと、道中でこの子を保護したんだが……」

ガレンが事情を説明する。受付嬢は、にえに同情的な視線を向けた。彼女のオーラは、職務に忠実な、澄んだ水色だった。

「それは大変でしたね……。でも、身元が分からないとなると、まずは孤児院に連絡するのが筋ですが……」

孤児院。その言葉に、にえの思考が凍りついた。前世の記憶はない。しかし、魂の奥底に刻まれた何かが、その単語に対して強烈な拒絶反応を示していた。

『拒絶。許容できない選択肢』

にえは、受付嬢の言葉を遮るように、カウンターに貼られていた一枚の紙を、指さした。

それは、子供でも読めるように簡単な文字で書かれた、ギルドの鑑定サービスに関する案内だった。

「ステータス……鑑定?」

受付嬢が、にえの指さした先を見て、訝しげに呟いた。

「ええ、そうですが……これは、自分のスキルやレベルを知るためのものですよ。登録冒険者か、それなりの料金を払える人でないと……」

にえは、受付嬢の目をじっと見つめ返した。そして、もう一度、はっきりと指をさす。

自分の能力の正体を知る。それが、この世界で生き抜くための、最初のステップだと直感していたからだ。

その、あまりに強い意志を感じさせるにえの瞳に、受付嬢だけでなく、ガレンとエリスもまた、言葉を失っていた。

にえの無言の圧力に、受付嬢は困惑した表情を浮かべた。彼女の水色のオーラが、規則とイレギュラーの間で揺れている。

「しかし、鑑定には銀貨が一枚必要です。あなた、お金は……」

その言葉を遮ったのは、ガレンだった。彼はため息一つとともに、腰の袋から銀貨を取り出し、カウンターに置いた。

「……貸しだぞ、嬢ちゃん。出世払いで返してもらうからな」

その言葉とは裏腹に、彼の青いオーラには、面倒見の良さを示す温かい色が混じっていた。

「ガレンさん……」

エリスが心配そうに呟くが、ガレンは「いいんだ」と首を振る。

受付嬢は、ガレンとエリスの顔を交互に見て、やがて諦めたように頷いた。

「分かりました。特例です。こちらへどうぞ」

案内されたのは、カウンターの奥にある小さな個室だった。部屋の中央には、黒水晶でできた台座が置かれている。

「この水晶に、両手を置いてください。あなたの魂の情報が、こちらの魔導紙に転写されます」

にえは言われた通り、黒水晶にそっと手を置いた。ひやりとした感触。水晶に手を置いた瞬間、脳の奥で、今まで経験したことのない奇妙な感覚が走った。

『魂の根幹情報へのアクセスを検知。情報走査を開始』

【絶対精神障壁】が、外部からの干渉に対して自動的に防御壁を展開する。だが、その干渉に悪意はないと判断したのか、壁はすぐに解除された。

受付嬢が、台座の横に置かれた羊皮紙にインクを垂らす。すると、インクは自ら動き出し、羊皮紙の上に文字を紡ぎ始めた。

ガレンとエリスが、固唾を飲んでその様子を見守っている。

やがて、文字の記述が止まった。受付嬢が、その魔導紙を手に取り、読み上げる。

「えーっと……名前、にえ。レベル1。職業、なし……ここまでは普通ですね。さて、スキルは……」

受付嬢の声が、そこでぴたりと止まった。

彼女の顔から、血の気が引いていくのが分かった。水色だったオーラは、信じられないものを見た時の、混乱と驚愕を示す激しい紫色に染まっている。

「ど、どうしたんだ?」

ガレンが訝しげに尋ねる。

受付嬢は、震える手で魔導紙をガレンに手渡した。それを受け取ったガレンも、エリスも、内容を読んだ瞬間に絶句した。

二人のオーラが、受付嬢と同じように激しく揺らめく。

『対象個体の心理的動揺、最大レベル。原因を分析』

にえは、彼らの様子を冷静に観察しながら、ガレンの手にある魔導紙を覗き込んだ。

そこに書かれていたのは、にえ自身にも読めない、この世界の文字だった。しかし、その単語の羅列は、なぜか、にえの脳内で自動的に、見慣れた言語へと翻訳されていく。

日本語だ。

【スキル】

ユニークスキル:

【危機感応 / Sixth Sense】

【絶対精神障壁 / Painless Veil】

【心象読解 / Aura Reading】

【飢餓・毒物耐性 / Iron Stomach】

【言霊術式:日本語 / Kotodama Script】

【称号】

【魂の放浪者】

【理不尽を歩む者】

【境界を越えし者】

スキルと称号。その項目が、羊皮紙の半分以上を埋め尽くしていた。

「……スキルが、五つ……? しかも、全部がユニークスキル……?」

ガレンが、信じられないといった声で呻く。

「通常、人が生まれ持つスキルは、一つか、多くても二つ。それも、ほとんどはコモンスキルのはずだ。こんなステータス、聞いたことがない……」

「それに、この称号……」

エリスが、青ざめた顔で呟く。

受付嬢は、ようやく我に返ると、慌てて魔導紙をにえの手からひったくるように取り上げた。

「こ、これは、何かの間違いです! 鑑定水晶の不調でしょう! 今日のことは、他言無用でお願いします!」

彼女はそう言うと、半ば強引に一行を個室から追い出した。そのオーラは、厄介事に関わりたくないという、明確な拒絶の色に変わっていた。

ギルドの喧騒の中に戻り、三人はしばらく無言だった。

やがて、ガレンが重い口を開いた。

「……嬢ちゃん。お前、一体何者なんだ?」

その問いに、にえは答えられない。自分でも、自分が何者なのか、分からなかったからだ。

ただ、一つだけ確かなことがあった。

この世界で、自分は「普通」ではない。そして、その「普通ではない力」が、生き延びるための唯一の武器になる。

にえは、カウンターの壁に貼られた依頼書の一枚を、再びじっと見つめた。

そこには、「ゴブリン討伐」の文字が書かれていた。

ガレンの問いかけに、ギルド内の視線がいくつかこちらへ集まるのを感じた。【危機感応】が、好奇や侮りを含んだ複数のオーラを感知する。ここは長居すべき場所ではない。

にえは、返答の代わりに、ゴブリン討伐の依頼書を指さした。

『最適行動:自身の有用性を証明し、安全な協力関係を構築する』

その意図を正確に読み取ったのは、意外にもエリスだった。

「……試して、みる? その力が、本物かどうか」

彼女の藍色のオーラが、わずかに決意の色を帯びて揺れる。ガレンは、腕を組んでしばらく考え込んでいたが、やがて大きく息を吐いた。

「……分かった。だが、無茶はするなよ。俺の目の届く範囲で動け。これは、お前を試すための、あくまでテストだ」

彼の青いオーラは、保護者としての責任感と、にえの未知の力への興味が混じり合った複雑な色合いを見せていた。

受付嬢にゴブリン討伐の依頼書を提出すると、彼女は引きつった笑顔でそれを受理した。にえたちがギルドを出るまで、その視線が背中に突き刺さっていた。

町を出て、東の森へ向かう。そこが、ゴブリンの目撃情報が最も多い場所らしい。

森の中は、ギルドの喧騒とは打って変わって静かだった。ガレンを先頭に、にえ、エリスが続く隊列を組む。

「ゴブリンは単体では弱いが、集団で襲ってくることが多い。油断するな」

ガレンが、低い声で注意を促す。その言葉に、エリスの藍色のオーラが緊張でわずかに収縮した。

一方、にえの心は、森に入った時から静まり返っていた。【絶対精神障壁】が、未知の環境に対する不安や恐怖を完全に遮断している。彼女にとって、この森はただの三次元マップであり、木々や草は障害物オブジェクトに過ぎない。

しばらく進むと、【危機感応】が明確な反応を捉えた。

『前方、三十メートル。茂みの奥に、敵性個体、五。脅威レベル2』

空間が、不快なノイズと共に歪み始める。

にえは、無言で立ち止まり、ガレンの服の裾を引いた。そして、敵のいる方向を指さす。

「ん? どうした……いや、待て」

ガレンは最初、訝しげな顔をしたが、にえのあまりに確信に満ちた様子に、剣の柄に手をかけた。彼は目を凝らすが、茂みの奥には何も見えない。

「……何もいないように見えるが」

「いる」

にえは、短く断言した。

その直後だった。茂みが大きく揺れ、五体のゴブリンが、奇声を上げながら飛び出してきた。緑色の肌、手には粗末な棍棒。そのオーラは、単純な凶暴性を示す、濁った赤色をしていた。

「なっ……! 本当にいやがった!」

ガレンが驚愕の声を上げ、即座に剣を抜く。エリスも杖を構え、詠唱の準備を始めた。

だが、にえは、そのどちらよりも速く動いていた。

ゴブリンの一体が、にえめがけて棍棒を振り下ろす。歪む世界、予測される軌道。にえは、最小限の動きでそれを回避すると、足元の石を拾い上げ、投擲する。

石は、ゴブリンの眉間に正確に命中した。短い悲鳴を上げ、一体が地面に倒れる。

『敵個体、一体無力化。残り四』

その、あまりに冷静で、効率的すぎる戦闘行動に、ガレンもエリスも息をのんだ。感情のない瞳で、ただ淡々と脅威を排除していく少女の姿は、戦いというよりも、精密な作業を見ているかのようだった。

ガレンが二体のゴブリンを切り伏せ、エリスが魔法の光で一体を怯ませる。

残る一体が、恐怖からか、背を向けて逃げようとした。

その背中に、にえが投げた二つ目の石が突き刺さる。ゴブリンは前のめりに倒れ、動かなくなった。

戦いは、一分もかからずに終わった。

戦場には、色のない静寂だけが残される。

ガレンは、剣を握りしめたまま、呆然とつぶやいた。

「……お前のその力は、一体……」

にえは答えず、ただ、倒したゴブリンの死体を見下ろしていた。

『脅威排除完了。有用性の証明、達成率30%』

その瞳には、何の感情も映っていなかった。まるで、壊れた人形が、プログラムされたタスクを終えただけのように。

ゴブリンの死体が転がる中、ガレンはまだ目の前の光景が信じられないといった様子で立ち尽くしていた。彼の青いオーラは、驚きと混乱、そしてにえに対する畏怖のような感情が混じり合い、複雑に揺らめいている。

「……索敵能力だけじゃない。あの回避と、正確すぎる投擲……素人ができる動きじゃない」

エリスもまた、杖を握りしめたまま、言葉を失っていた。彼女の藍色のオーラは、恐怖とは違う、何か得体の知れないものに触れた時のように、静かに震えている。

にえは、二人の反応を意に介さず、淡々と戦闘結果を分析していた。

『ゴブリン五体の無力化に成功。連携行動により、消費エネルギーを最小限に抑制。今後の戦闘においても、協力者の存在は生存確率を向上させる有効な変数と判断』

その時だった。

森の奥から、これまでとは比較にならないほど、強烈で不快なノイズが迸った。

キィィィィィン!

脳を直接かき混ぜられるような激しい音と共に、周囲の空間がぐにゃりと大きく歪む。それは、ただの敵意ではない。魂そのものに干渉しようとする、悪意に満ちた波動だった。

『警報。脅威レベル7。高位の精神攻撃を伴う敵性個体が接近中』

【絶対精神障壁】が、最大出力で稼働する。脳内を駆け巡る不快な波動が、まるで分厚い鉛の壁に阻まれるかのように、にえの意識の手前で霧散していく。

しかし、にえは平気でも、他の二人は違った。

「う……ぐっ……!?」

「頭が……割れる……!」

ガレンとエリスが、同時に頭を押さえて膝から崩れ落ちた。二人のオーラが、苦痛を示す黒いノイズに覆われていく。特に、元々精神が不安定なエリスの藍色のオーラは、今にも消え入りそうにか細く点滅していた。

『協力者の戦闘能力、ゼロに低下。保護対象に移行』

にえは、即座に判断を切り替えると、二人の前に立ちはだかり、波動の発生源を睨みつけた。

茂みの奥から、ゆっくりと姿を現したのは、一体のゴブリンだった。だが、先ほどの個体とは明らかに違う。身体は一回り大きく、その手には骨でできた禍々しい杖が握られていた。そして何より、その瞳が、知性と狡猾さを示す、不気味な赤色に輝いている。

ゴブリンシャーマン。ゴブリンの群れを統率し、原始的な魔法を操る上位種だ。

シャーマンの濁った赤いオーラの中には、他者の苦痛を愉しむ、粘つくような紫色の光が混じっていた。

「ギギ……ギ……」

シャーマンは、精神攻撃が効かないにえを見て、驚きと苛立ちの声を上げる。そして、杖をにえに向けた。

『敵性個体、次の行動を予測。魔法詠唱。攻撃属性、物理あるいは毒』

にえは、地面を蹴った。一直線にシャーマンへと突進する。詠唱を完了させてはならない。

シャーマンは、予想外の行動に反応が遅れた。慌てて詠唱を中断し、杖で殴りかかってくる。

だが、その動きは、にえの【危機感応】の前では、あまりに単純すぎた。

歪む世界、予測される軌道。にえは、紙一重で杖を回避すると、シャーマンの懐に潜り込む。そして、拾い上げていた最後の石を、ゼロ距離でシャーマンの顔面に叩きつけた。

鈍い音と共に、シャーマンが体勢を崩す。

にえは、その一瞬の隙を逃さなかった。

倒れたガレンの腰にある剣帯から、鞘に収まったままの短剣を引き抜く。そして、よろめくシャーマンの心臓部へ、全体重を乗せて、それを突き立てた。

「ギ……!?」

シャーマンは、信じられないといった表情で、自分の胸に突き刺さる短剣を見下ろし、やがて動かなくなった。

シャーマンが倒れると、森を覆っていた不快な波動が、嘘のように消え去った。

ガレンとエリスの苦悶の声も止み、荒い呼吸だけが聞こえる。

にえは、シャーマンの死体から短剣を引き抜くと、それを元の鞘に静かに戻した。

返り血一つ浴びていない、色のない少女が、そこに立っていた。

背後で、ようやく意識を取り戻したエリスが、震える声で呟いた。

「……私たちの、魂を……守って、くれた……?」

その言葉の意味を、にえはまだ理解できなかった。ただ、自分に課せられた「生存」というタスクを、また一つ完了しただけだった。

森の静寂の中、ガレンが呻きながらゆっくりと身を起こした。彼のオーラはまだ混乱の色を帯びていたが、その視線は、シャーマンの死体と、その傍らに立つにえとを交互に捉え、やがて一つの確信へと収束していく。

「……あの精神攻撃を防いだのか。俺たちを守りながら、シャーマンまで一人で……」

その声には、もはや単なる驚きではなく、畏怖の念がはっきりと込められていた。彼の青いオーラに、尊敬を示す白銀の光がわずかに混じり始めるのを【心象読解】は捉える。

エリスもまた、ガレンに支えられながら立ち上がった。彼女は、自分の胸に手を当て、まだ速い鼓動を鎮めようとしている。

「魂が、直接握りつぶされるような感覚だった……。あれは、ただの魔法じゃない」

彼女の藍色のオーラは、先ほどまでの恐怖とは違う、何か根源的なものに触れた後のような、静かな動揺に満ちていた。そして、にえに向ける視線から、以前のような怯えは消え、代わりに未知への戸惑いと、救われたことへの感謝が入り混じった複雑な色が浮かんでいた。

『協力者からの信頼度、45%上昇。敵意の消失を確認。安全な協力関係の構築、第一段階完了』

にえは、二人の様子を分析し、淡々と結論を下す。

ガレンは、ふらつく足でシャーマンの死体に近づき、その心臓に突き立てられた傷を一瞥した。

「一撃で、正確に心臓を……。戦闘技術だけを見ても、そこらの傭兵より上だ。嬢ちゃん、あんた、一体どこでこんな戦い方を覚えたんだ」

その問いに、にえは答えなかった。自分でも、分からないからだ。ただ、身体が最適解を知っていて、それに従って動いているだけだ。

『情報開示のリスクとリターンを計算。現時点では、沈黙が最善と判断』

にえが黙っていると、ガレンはそれ以上追及せず、代わりに深く息を吐いた。

「……まあいい。理由はどうあれ、俺たちはあんたに命を救われた。これは、紛れもない事実だ」

彼はそう言うと、にえの前に向き直り、騎士のそれのように、軽く頭を下げた。

「礼を言う。あんたがいなければ、俺たちは今頃、あのシャーマンに魂を喰われていただろう。ギルドで銀貨一枚を貸したと言ったが……とんでもない。こちらが、とてつもなく大きな借りを作っちまったな」

ガレンの青いオーラが、誠実さを示す、一点の曇りもない色に変わる。

エリスも、おずおずとガレンの隣に並び、小さな声で言った。

「……ありがとう、にえ。あなたが、守ってくれなかったら……」

言葉の代わりに、彼女のオーラの中心にある橙色の光が、感謝の気持ちを伝えるかのように、ぽっと明るく灯った。

『対象からの好意を確認。今後の協力関係において、有利な変数となる』

にえの思考は、あくまで冷静だった。だが、目の前で揺れる、二つの温かい色のオーラを視た時、ほんのわずかに、脳の計算にエラーが生じた。

温かいオーラ。それは、これまでの人生で、一度も向けられたことのないものだった。

その未知のデータに、にえの思考は、ほんの一瞬だけ、停止した。

ガレンは、ゴブリンたちの耳を証拠として切り取ると、一行に声をかけた。

「さて、長居は無用だ。ギルドに戻って報告するぞ。……にえ、お前もそれでいいな?」

にえは、思考を再起動させ、小さく頷いた。

帰り道、三人の間には奇妙な沈黙が流れていた。しかし、それは森へ向かう時の緊張感に満ちたものとは明らかに違っていた。

ガレンは時折、にえの歩調を気遣うように振り返り、エリスは、少しだけ、にえの近くを歩くようになった。

彼女たちのオーラが、にえの色のない世界に、二つの小さな温かい光を灯している。

それは、にえの人生にとって、全く新しい、予測不能な変数だった。

そしてその変数が、これから自分の運命をどう変えていくのか。

にえには、まだ知る由もなかった。


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