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13. 泥に咲く蓮

王の私室で、三人はそれぞれの未来を選択した。

ガレンは過去の贖罪ではなく未来を守るための力を求め、新しい盾と冒険の資金を。

エリスは故郷を再建し人々を癒すための、希望の種となる資金を。

そして、にえは地位も名誉も望まず、ただ仲間と共に生きる「自由」という名の未来を。

王は、その三つの願いを厳粛に聞き届けた。

「……分かった。そなたたちの気高い魂に、改めて敬意を表する」

王はそう言うと、傍らに控えていたアレンに目配せをした。

アレンが、一つの小さな箱をにえの前に差し出した。

中に入っていたのは、一枚の身分証明書だった。

そこにはこう書かれていた。

名前:にえ

身分:自由民

特記事項:王国の恩人

「これは、そなたがこの世界に確かに存在するという証だ」

王が静かに言った。

「宰相アレンより、そなたには、その出自を記す書も、幼き日を懐かしむ品も、何一つないと聞いた。ならばこれからの人生を、そなた自身の物語を、この一枚から始めてはくれぬか」

にえは、その身分証明書を震える手で受け取った。

薄っぺらな一枚の羊皮紙。

だがそれは、これまでの人生で誰からも与えられることのなかった、自分という存在を世界が認めてくれた初めての「証明」だった。

にえの瞳から再び温かい涙が、とめどなく溢れ出した。

それはもう、色のない涙ではなかった。

悲しみと苦しみの記憶を全て洗い流し、新しい未来への希望に満ちた、透明で輝く涙だった。

王都を発つ日の朝。

三人が滞在していた邸宅の扉が控えめにノックされた。

扉を開けると、そこに立っていたのはアンナと『救済の家』から解放された子供たちだった。彼らはもはや感情のない人形ではない。その瞳には子供らしい好奇心と少しの寂しさ、そして確かな感謝の光が宿っていた。

「……これ、にえお姉ちゃんに」

アンナが少し照れながら、一つの花の冠をにえに差し出した。それは子供たちの小さな手で編まれた、少し不格好な、だが心のこもった野の花の冠だった。

にえは戸惑いながらも、その花の冠をそっと受け取った。花の甘い香りがした。

「あのね」

アンナはまっすぐににえの目を見つめて言った。

「私、決めたんだ。大きくなったらエリスお姉ちゃんみたいな立派な治癒師になる。そしてガレンさんみたいに強くなって、にえお姉ちゃんみたいに誰かを守れる人になるって」

その言葉は、にえの心にこれまで感じたことのない温かい衝撃を与えた。

自分が、誰かの未来の道標になった。

自分が繋いだ命が、新しい希望となってここに芽吹いている。

その事実に、にえは言葉を失った。ただ子供たちの、それぞれの色で輝く純粋なオーラを眩しそうに見つめ返すだけだった。

旅立ちの直前、にえが一人で中庭を眺めていると、脳内に懐かしい声が響いた。

守護者だった。

『――言霊の使い手よ。……いや、にえよ。旅立ちの時が来たようだな』

その声は以前のような厳かなものではなく、どこか穏やかで優しい響きを持っていた。

『――お主が手にした『真理の刃』は、今や完全にお主の魂と一つになった。それはもはやただの武器ではない。お主の魂の一部だ。大切にするがよい』

『……そして忘れるな。世界の理はまだ多くの謎を秘めている。いつか再びお主の力が必要になる時が来るやもしれぬ。その時まで、仲間たちと幸多かれと祈っている』

その言葉を最後に、守護者の声は静かに消えていった。

にえは空を見上げた。空はどこまでも青かった。

王都アークライトに新しい季節が訪れようとしていた。

偽りの聖女が遺した混乱は、王と宰相アレンの尽力により、少しずつ、穏やかな日常へと収束しつつある。後にアレンから聞いた話では、「記憶を失った、奇妙な貌の女が一人、王都の雑踏に消えていった」との報告があったきり、その後の足取りは誰も知らないという。民衆は、まだ戸惑いの中にありながらも、自分たちの手で国を再建するという、新しい希望に、ざわめき始めていた。

にえ、ガレン、エリスの三人は、そんな王都の片隅にあるアレンが用意した小さな邸宅で、旅立ちの準備を完全に終えていた。

ガレンはミスリル銀製のピカピカの新しい盾を満足げに背負っている。

エリスは故郷の村の再建計画をアレンに託し、その顔には一点の曇りもなかった。

そして、にえは。

彼女は、邸宅の庭を一人、静かに散策していた。王都の喧騒から切り離されたそこは、穏やかな空気に満ちていた。庭の片隅に、小さな池があるのに気がついた。

その水面を覆っていたのは、蓮の花だった。泥の中からまっすぐに茎を伸ばし、気高い花を咲かせるその姿。あるものは満開に咲き誇り、あるものは固い蕾のまま、静かにその時を待っている。

にえが、その花をじっと見つめていると、不意に、背後から穏やかな声がした。

「美しいでしょう。蓮は、我が国の国花なのです」

振り返ると、そこに立っていたのは、宰相アレンだった。彼は、公務の合間に、様子を見に来てくれたらしい。

アレンは、にえの隣に立つと、池を見つめながら、静かに言った。

「どんなに水が濁り、底が泥にまみれていようとも、そこから、これほどまでに清らかで、美しい花が咲く。……だからこそ、蓮は、我らの国にとって、希望と再生の象徴なのです」

彼の紺色のオーラが、国の未来を憂い、そして信じる、深い色に揺れる。

「今のこの国は、まだ、泥の中かもしれません。ですが、私たちは信じている。いつか、あなた方のような、新しい花が、この国を再び、美しく咲かせてくれると」

にえは、答えなかった。

ただ、泥の中から咲く、一輪の蓮の花に、自分の魂の姿を、静かに、重ねていた。

後日、彼女は子供たちからもらった花の冠を大切に荷物の中にしまい、懐には一枚の身分証明書が入った袋を確かめるように仕舞っていた。

邸宅の玄関では、ガレンが大きな荷物を背負って待っていた。

「よし、全員揃ったな。……行くか」

三人は顔を見合わせ、頷き合った。

彼らが目指すのは北の地、ロンドの町。

そしてその先にある、まだ見ぬ冒険の日々。

王都の門の前で、一人見送りに来た人物がいた。宰相アレンだった。

「……本当に行ってしまうのですね。正直、あなたのような逸材をこのまま手放すのは、国にとって大きな損失ですが」

アレンは寂しそうに、しかし晴れやかな笑顔で言った。彼の紺色のオーラは、三人の未来を心から祝福している色をしていた。

「だが、あなたの人生はあなたのものです。誰にもそれを縛る権利はない」

アレンはにえの前に、そっと一つの小さな袋を差し出した。

中にはたくさんの花の種が入っていた。

「……これは?」

「先日、池のほとりで話したでしょう。我らが国の、希望の種です」

アレンは、穏やかに微笑んだ。

「あなたの人生が、これからも、そうあらんことを、願って」

にえは、その花の種を、そっと受け取った。

泥の中から、咲く花。

あの日、池で見た光景と、アレンの言葉が、鮮やかに蘇る。

それは、自分の人生そのものであり、そして、これから自分が歩んでいく、未来そのもののようだと、思った。

「……ありがとう」

にえは心からの感謝の言葉を口にした。

「さあ、行こう」

ガレンが空を見上げて言った。

空はどこまでも青く澄み渡っていた。

三人はアレンに背を向け、新しい世界へと続く街道を歩き始めた。

もう、にえの瞳に迷いはなかった。

失われた過去は戻らない。刻まれた傷が完全に消えることもないだろう。

だが、温かい仲間がいる。守りたい約束がある。そして、これから自分の物語を刻んでいく、まっさらな未来がある。

にえは隣を歩くガレンとエリスの顔を見上げた。

そして生まれて初めて、自分の意志で心の底から穏やかに微笑んだ。

それは、ただ嬉しい、楽しいという単純な感情ではなかった。

過去の痛みも、仲間の温かさも、これから待つであろう困難も。その全てを受け入れた上で、それでも「生きていくことは悪くない」と魂の底から感じることができた、静かで力強い微笑み。

その笑顔は、まるで泥の中からようやく咲いた、一輪の美しい蓮の花のようだった。

(了)



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