10. 忘れられた遺跡
霧の谷に足を踏み入れてから二日が経過した。
一行はにえの索敵を頼りに、危険な魔物を避け、あるいは撃退しながら谷の奥へと慎重に進んでいた。
視界の効かない世界は精神をじわじわと蝕んでいく。ガレンもエリスも、その顔には隠せない疲労の色が浮かんでいた。
だが、にえだけは変わらなかった。
【飢餓・毒物耐性】のスキルは、肉体的な疲労だけでなく精神的な消耗さえも大幅に軽減していた。彼女はただ淡々と周囲の脅威レベルを計測し、安全なルートを提示し続ける精密な機械のようだった。
三日目の昼。
一行は谷の中でもひときわ霧が濃い、巨大な窪地の底にたどり着いた。
その窪地の中央に、それはあった。
霧の中から巨大な石造りの建造物が、ぼんやりとその姿を現したのだ。
それは自然の造形物ではありえなかった。天を突くようにそびえ立つ巨大な塔。その壁には風化してほとんど読み取れなくなってはいるが、精緻な幾何学模様のレリーフがびっしりと刻まれている。
古代文明の遺跡。
「……ここが、霧の谷の心臓部か」
ガレンが息をのむ。
「なんて巨大な……。こんなものが今まで、誰にも知られずに……」
エリスもまた、その圧倒的な存在感を前に言葉を失っていた。
遺跡の入り口と思われる巨大なアーチ状の門は固く閉ざされている。その扉には、この遺跡を建造した古代の民のものだろう、複雑な紋様が描かれていた。
【危機感応】が、その扉から強大な魔力の波動を感知していた。
『警報。扉に高レベルの封印術式を確認。物理的破壊、不可能。解除には特定の条件が必要と予測』
「……どうやら、簡単には入れてもらえないようだな」
ガレンが扉を観察しながら言う。
エリスは古代語で書かれた碑文の解読を試みていた。
「……『太陽が月にその座を譲りし時、賢者の道は開かれん』……? なぞなぞ、かしら」
その時、にえは扉に刻まれた無数の紋様の中に、一つだけ見覚えのある形があることに気がついた。
それは、あの老婆から受け取った羊皮紙に書かれていた詩の一部に酷似していた。
にえは懐からその羊皮紙を取り出した。
そして、扉の紋様と詩の文字列とを見比べる。
間違いない。扉に刻まれているのは、この詩を図形化したものだ。
つまり、この扉を開ける鍵は――。
にえはそっと扉に手を触れた。
そして日本語で、静かにあの詩を詠み上げた。
「――空はなぜ青いのか。花はなぜ咲くのか。答えは、風の中に。答えは、君の中に」
その言葉が紡がれた瞬間。
扉に刻まれた紋様が一斉に淡い光を放ち始めた。
そして、ゴゴゴゴゴ……という地響きのような音と共に、数千年の間閉ざされていた巨大な石の扉が、ゆっくりと内側へと開いていった。
「……嘘だろ」
「扉が……開いた……」
ガレンとエリスが、信じられないといった表情でその光景を見ていた。
にえは確信した。
あの老婆は、この遺跡の秘密を知る一族の末裔だったのだ。そして、にえが「言霊の使い手」であることを見抜き、未来を託したのだ。
扉の向こうは漆黒の闇だった。
だが、にえには視えていた。
その闇の奥で、無数の悲しいオーラが揺らめいているのが。
それはこの遺跡に囚われた、古代の魂たちの声なき声だった。
一体、この遺跡の中で過去に何があったのか。
その答えを求め、三人は固唾を飲んで遺跡の中へと一歩、足を踏み入れた。
遺跡の内部は外観以上に広大だった。
一行は巨大な吹き抜けのホールに立っていた。天井は遥か高く闇に溶けて見えない。壁には松明を灯すための燭台が等間隔に並んでいたが、そこに火はなかった。
ガレンがランタンの光をかざす。その頼りない光が、床に積もった分厚い埃と壁に描かれた色褪せた壁画をぼんやりと照らし出した。
壁画には高度な文明を享受する古代の民の姿が描かれていた。彼らは空飛ぶ船を操り、ゴーレムを従え、豊かな暮らしを送っているように見える。
「……これが古代文明……。伝説は本当だったんだな」
ガレンが感嘆の声を漏らす。
エリスは壁画に描かれた古代の魔法陣に夢中になっていた。
「すごい……。現代の魔法体系とは全く違う、独自の理論で構築されているわ……」
だが、にえは別のものを感じていた。
この遺跡全体に満ちている、深い、深い悲しみのオーラ。それは壁画に描かれた華やかな繁栄とはあまりにもかけ離れていた。
『この場所に何か悲劇があった。それも一つや二つではない。数えきれないほどの絶望が、この遺跡の石に染みついている』
一行はホールの奥へと進んでいった。
すると前方に、巨大な水晶の柱が何本も立っているのが見えた。その水晶は淡い光を放ち、遺跡の内部をぼんやりと照らし出している。
そして一行は、その水晶の中に閉じ込められているものを見てしまった。
それは、古代の民だった。
老人も女も子供も。様々な人間が、まるで時が止まったかのように水晶の中で眠っていた。
その数、数百体。
彼らの魂からは、絶望を示す暗く澱んだオーラがゆらゆらと立ち上っていた。
「……これは、一体……」
エリスが言葉を失う。
その時だった。
水晶の森の奥から、一つの影がゆっくりと姿を現した。
それは一人の若い男だった。古代の民と同じ白い衣服を身につけている。だが、その身体は半分透けていた。
その男のオーラは、この遺跡に満ちるどの魂よりも強く、そして深い絶望の色――底なしの暗黒に染まっていた。
そして、そのオーラの中心で燃えているのは激しい憎悪の炎だった。
男は侵入者である一行を、その虚ろな瞳で捉えた。
そして、その唇が数千年の時を超えて初めて言葉を紡いだ。
「……よくぞ来た。我が同胞たちの眠りを妨げる、愚かなる者たちよ」
その声は直接脳内に響き渡る、精神的な波動だった。
「……ようやく、来たか。ずっと、見ていたぞ」
その、直接脳内に響く声に、ガレンとエリスは驚愕した。
「何だと!? お前は一体……」
男は、ガレンの問いには答えず、その視線を、にえだけに注いだ。
「あの女が、我が遺跡から盗み出した『器』……あの黒い騎士を通してお前のことを見ていた。面白い戦い方をする。……そして、あの女とは違う。真の『言霊の使い手』だ」
にえは、全てを理解した。王都で対峙したあの黒い騎士は、この遺跡に元々存在した守護者の一体。マリアンヌがそれを盗み出し、私利私欲のために使役していたのだ。そして、この怨霊は、その奪われた騎士の視覚を乗っ取るようにして、外の世界を、そして自分たちの動向を、全て監視していたのだ。
「……我が名はカイン。この遺跡と共に朽ちるはずだった……」
カインと名乗った怨霊は、その手を、ゆっくりと、持ち上げた。
「……誰一人として、ここから生かしては還さん。かつて、私が救えなかった者たちと同じように、お前たちも、ここで絶望に沈むがいい!」
それは、守護という名の、歪んだエゴだった。救えなかったことへの逆恨みが、彼を、この地に縛り付ける怨霊へと変えてしまったのだ。
すると彼が立っている床から、無数の黒い影の手がまるで沼から伸びるように出現した。
「……お前たちには我が同胞たちと同じ、永遠の眠りを与えてやろう」
黒い影の手が、一斉に一行へと襲い掛かってきた。
それは魂を直接掴み、引きずり込もうとする悪夢のような攻撃だった。
「くっ……!」
ガレンが盾で影の手を防ぐが、その攻撃は物理的なものではない。盾をすり抜け、彼の魂に直接まとわりついてくる。
エリスもまた聖なる光で影を焼き払おうとするが、影の数はあまりにも多すぎた。
だが、にえはその攻撃の本質を見抜いていた。
これは憎しみと絶望が生み出した幻影だ。
【絶対精神障壁】が完全に砕け散った今、にえの心はもはや鉄壁ではない。だが彼女の魂は、これまでの人生でこれと同質の悪意を嫌というほど浴び続けてきた。
この程度の魂への攻撃で揺らぐほど、やわではない。
にえは白銀の短剣を構えた。
そして日本語で静かに、しかし力強く宣言した。
「――晴れろ」
その一言が言霊となり、光の波となって広間全体に広がっていった。
にえの、理不尽を終わらせるという強い意志。その光がカインの数千年にわたる深い絶望の闇を、優しく照らし出す。
黒い影の手がその光に触れた瞬間、悲鳴のような音を立てて霧散していく。
「なっ……!?」
カインが初めて驚愕の表情を浮かべた。
「……お前、一体何者だ……? その力は……まさか……」
にえは答えない。
ただ、その悲しい魂をまっすぐに見つめ返していた。
にえの放った光の言霊に、カインの作り出した影は完全に消え去った。広間には水晶の柱が放つ淡い光と静寂だけが残される。
カインは呆然とその場に立ち尽くしていた。彼の暗黒のオーラが、信じられないといった様子で激しく揺らめいている。
「……なぜだ。なぜ我が憎しみの力が通じぬ……。お前には、絶望というものがないのか……?」
その問いに、にえは静かに首を横に振った。
「ある」
彼女は短く答えた。
「あなたと同じだ。私も、全てを奪われた」
その言葉に、カインの虚ろな瞳が初めてわずかな光を宿した。
にえは続けた。
「でも、今の私には仲間がいる。未来の約束がある。……だから、私はあなたの絶望には負けない」
にえの言葉に、ガレンとエリスがはっとしたように彼女の背中を見つめた。二人のオーラが、にえを支えるように力強く輝く。
カインは、その光景を信じられないといった表情で見ていた。彼のオーラに憎しみ以外の感情――戸惑いと羨望のような色が、わずかに混じり始める。
「……仲間……だと……? そんなもの、裏切るためだけに存在する……」
「違う」
にえはきっぱりと否定した。
「信じるから、仲間なんだ」
その、あまりに純粋でまっすぐな言葉。それは数千年の憎しみに凝り固まったカインの魂に、小さな、しかし確かな亀裂を入れた。
「……ならば、試させてもらうぞ。お前たちのその『絆』とやらが本物かどうかをな!」
カインが叫ぶと、彼の身体から凄まじい魔力が嵐のように吹き荒れた。遺跡全体が激しく振動する。
水晶の柱が共鳴するようにその輝きを増していく。
そして眠っていたはずの古代の民の魂が、一人、また一人とその瞳を開いていった。
だが、その瞳に理性はなかった。あるのはカインと同じ、憎悪に満ちた赤い光だけだった。
「……まずいぞ! 奴、遺跡の魂たちを操ってやがる!」
ガレンが叫ぶ。
水晶の中から古代の民の魂が幽霊となって抜け出し、一行へと襲い掛かってきた。
その数、数百。
絶望的な数の暴力。
「エリス! 浄化の結界を! 時間を稼ぐんだ!」
「ええ!」
エリスが杖を高く掲げ、広範囲に及ぶ浄化の結界を展開する。聖なる光が幽霊たちの足をわずかに鈍らせた。
ガレンはその隙に、にえの前に立つ。
「にえ! 奴を止められるのはお前だけだ! 俺たちが道を作る!」
ガレンの青いオーラとエリスの橙色のオーラが一つに溶け合い、にえを守るための光の壁となった。
にえは頷いた。
そしてカインだけをまっすぐに見据え、地面を蹴った。
無数の幽霊がその行く手を阻もうとする。だが、にえは止まらない。
白銀の短剣が閃光のように煌めき、道を塞ぐ魂たちを切り裂いていく。
だが、これは斬るだけでは終わらない戦いだ。
彼らはもともと被害者なのだから。
にえは走りながら、日本語で静かに詠唱を始めた。
それはあの老婆が遺した謎の詩だった。
「――空は、なぜ青いのか」
その一言が言霊となり、幽霊たちの魂に染み込んでいく。彼らの憎しみの赤いオーラがわずかに揺らいだ。
「――花は、なぜ咲くのか」
憎しみ以外の何かを思い出そうとするかのように、幽霊たちの動きが鈍る。
「答えは、風の中に」
にえはカインの目の前までたどり着いていた。
カインは憎悪の全てを込めた闇の刃をその手に作り出し、にえへと振り下ろす。
にえはそれを避けなかった。
ただ、その悲しい魂をまっすぐに見つめ返し、詩の最後の句を紡いだ。
「――答えは、君の中に」
その言葉が、カインの魂に直接届いた。
闇の刃が、にえに触れる寸前で霧散する。
カインの瞳から憎しみの赤い光が消えていった。
そして後に残されたのは、ただ涙を流す一人の孤独な青年の魂だけだった。
「……ああ……。そうか……。私は……ただ……」
カインの魂が、数千年の時を超えてようやく本当の自分を取り戻した。
「……ただ、もう一度みんなと笑いたかっただけ、なんだ……」
その魂からの言葉と共に、カインは足元から、ゆっくりと光の粒子となって霧散していった。憎しみの呪縛から解放された彼の魂は、もはやこの地に留まることができず、安らぎの場所へと還ろうとしていた。
完全に消え去る寸前、彼は、最後に、にえに向かって、穏やかに微笑んだ。
『……ありがとう、言霊の使い手よ。……ようやく、彼女の元へ、行ける……』
その言葉を最後に、カインの魂は、完全に光となり、恋人や仲間たちが待つ天へと、昇っていった。
それと同時に、遺跡に囚われていた、全ての魂たちもまた、憎しみの呪縛から解放され、安らかな光となって、カインの魂を追うように、天へと還っていった。
広間には再び静寂が訪れた。
だがそれは、以前のような冷たいものではなかった。
全ての魂が解放された、温かい安らぎに満ちた静寂だった。
にえは、その光景を静かに見上げていた。
【言霊術式】の本当の力。それは破壊ではない。
凍てついた心を溶かし、魂を解放するための癒しの力。
にえは、その力の本当の意味を初めて理解した。
そして自分の魂もまた、少しだけ癒されたような温かい感覚に包まれていた。
全ての魂が天に還り、遺跡には水晶の柱だけが静かに光を放っていた。
ガレンとエリスが、にえの元へと駆け寄ってきた。
「……終わった、のか?」
「ええ……。みんな、安らかに眠りについたわ……」
エリスの瞳には涙が浮かんでいた。それは悲しみの涙ではなく、解放された魂たちへの優しい手向けの涙だった。
その時、カインが消えた場所で一つの小さな光が明滅しているのに、にえは気がついた。
近づいてみると、それは一冊の水晶でできた薄い板だった。古代の技術で作られた記憶媒体のようなものだろう。研究記録が古代語で書かれているようだった。
にえがそれに手を触れると、再びカインの声が脳内に直接響いてきた。
『……ありがとう、言霊の使い手よ。……最後に、この遺跡の真実を伝えよう』
それはカインの最後の記憶だった。
この遺跡はかつて、古代王アルトリウスが設立した魔法の研究都市だった。ここでは世界を豊かにするための様々な魔法が研究されていた。
カインは、その中でも特に優秀な治癒魔法の研究者だった。
だが、ある日、研究は禁忌に触れた。
不老不死。死者蘇生。
その研究の過程で、彼らは偶然、異次元から邪神の欠片――『渇望の石』を召喚してしまったのだ。
石は研究者たちの心を蝕み、彼らを狂気へと陥れた。
カインは最後まで抵抗した。彼は自らの恋人であり、最高の言霊の使い手であった女性と共に、石をこの遺跡の最深部に封印しようとした。
だが力及ばず、恋人は命を落とし、カイン自身もまた石の呪いによって魂をこの地に縛り付けられてしまった。
そして数千年の間、たった一人で絶望と憎しみの中に囚われ続けていたのだ。
「……そうだったのか……」
ガレンが悲痛な声を漏らす。
カインは英雄だったのだ。世界を災厄から守ろうとした最後の抵抗者だった。
カインの最後の声が響く。
『……言霊の使い手よ。……お主のその詩……。それは彼女が最後に私に遺してくれた言葉だ……』
『……頼む。どうか石の完全な封印を……。そして……彼女の分まで……幸せに……』
その言葉を最後に、水晶板の光は完全に消えた。
にえは、その水晶板を静かに懐にしまった。
その時だった。
広間の奥、カインが最後まで守ろうとしていたかのように見えた玉座の後ろの壁が、ゴゴゴ、と音を立てて、ゆっくりとせり上がっていく。
壁の向こうから溢れ出してきたのは、光ではなかった。
それは、静寂だった。
これまで遺跡全体を覆っていた、憎しみや悲しみのオーラさえも、全て飲み込んでしまうかのような、絶対的な**「無」の気配**。
にえの【危機感応】が、これまでのどの脅威とも違う、魂の根源を直接凍てつかせるような、究極の警報を鳴らしていた。
三人は、息をのみ、その、全てを吸い込む漆黒の闇の奥を、見据えた。
カインとその恋人の、数千年にわたる悲しい愛の物語。
その想いを無駄にはしない。
一行は決意を新たに、遺跡のさらに奥深く――『渇望の石』が封印されている最深部へと、歩を進めた。
そこに、この国の全ての謎を解く最後の答えが待っているはずだった。