第一部:偽りの聖女篇 01. 地獄の終わりと色のない世界
湿った土の匂いで、意識は浮上した。
重いまぶたを押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れない木々の葉が幾重にも重なり合ってできた、緑色の天井だった。葉の隙間から差し込む光が、白い粒子のように乱舞している。頬を撫でる空気はひやりと冷たく、鳥のものらしい鳴き声が、やけに明瞭に鼓膜を揺らした。
『……ここは、どこだ』
にえは、ゆっくりと上半身を起こした。身体に痛みはない。だが、記憶の最後は、アスファルトの上に広がる生温かい感覚と、けたたましいサイレンの音だったはずだ。
自分の身体を見下ろす。着ていたはずのコンビニの制服は、粗末な麻布の貫頭衣のようなものに変わっていた。手足も、心なしか自分のものより小さく、華奢に感じられる。
状況が理解できない。論理が飛躍している。
普通なら、混乱し、パニックに陥る場面なのだろう。だが、にえの心は静かだった。恐怖という感情が湧き上がるはずの脳の回路が、まるで分厚い氷に閉ざされたかのように、ただ静まり返っている。思考は自動的に、生存のための最適な行動分析へと移行した。
『現状把握が最優先。現在地、所持品、そして脅威の有無』
立ち上がろうとした、その瞬間だった。
キィン、と耳鳴りのような高周波音が脳に響いた。それと同時に、右後方の空間が、陽炎のようにぐにゃりと歪む感覚。不快なノイズだ。かつて何度も経験した、理不尽な暴力が振るわれる直前の、あの気配によく似ている。
『……脅威レベル2。接近中』
【絶対精神障壁】が思考をクリアに保ちながら、【危機感応】が危険の存在を告げている。にえは咄嗟に身を伏せ、近くの茂みへと音もなく転がり込んだ。
ほとんど同時に、三人の男が茂みの向こうから姿を現した。使い古された革鎧に、ところどころ錆びの浮いた剣。身のこなしから、野盗か、それに類する者だろうと分析する。
「ちぇっ、見失ったか?」
「いや、この辺にいたはずだ。ガキの足で遠くへは行けねえよ」
男たちが言葉を交わす。その一人一人の輪郭を縁取るように、淀んだオーラがまとわりついているのが、にえにははっきりと視えた。
【心象読解】が、彼らの魂の色を読み解く。
一人は、油断と怠惰を示す、濁った黄土色。もう一人は、下卑た欲望に満ちた、粘つくような紫色。そしてリーダー格らしき男のオーラは、最も濃い。他者への明確な加害性を孕んだ、血のように淀んだ赤色だった。
『脅威レベルを3に修正。敵対は避けられない』
赤いオーラの男が、にえが隠れる茂みの方へと、無遠慮な視線を向けた。
「おい、そこにいるんだろ。出てきな。金目のモンを置いていきゃあ、痛い目は見させねえでいてやるよ」
男がにやつきながら一歩踏み出した瞬間、キィンというノイズの音量が跳ね上がった。空間の歪みが激しくなり、こめかみに鋭い痛みが走る。明確な殺意。純粋な悪意。
恐怖はない。悲鳴も出ない。
ただ、目の前の現象を「脅威」と断定し、それに対処するための選択肢を、にえの思考は冷静に検索し始めていた。
男たちの赤いオーラが、じり、とにえが隠れる茂みへと滲んでくる。まるで、色のない世界にぶちまけられた、不快な絵の具のように。
茂みは、暴力的な手によっていとも簡単に引き裂かれた。
「見つけたぜ、子汚ねえガキが」
濁った黄土色のオーラを放つ男に、にえは腕を掴まれ、乱暴に引きずり出される。抵抗はしない。無駄なエネルギー消費は、生存確率を低下させるだけだ。
リーダー格の男が、血のように赤いオーラを揺らめかせながら、にえの目の前に立った。その顔には、弱者をいたぶる際の、見慣れた愉悦の色が浮かんでいる。
「ほう、泣きもわめきもしねえのか。肝が据わってるじゃねえか」
男の口角が歪み、錆びた剣の切っ先が、にえの喉元に突きつけられた。
『脅威レベル4に上昇。接触による生命活動停止の可能性、38%』
死の可能性が、具体的な数値として脳内で算出される。恐怖という感情は、情報処理のノイズにしかならない。【絶対精神障壁】がそれを完全にフィルタリングし、思考はただクリアに冴えわたっていく。
『思考実験を開始。現状の打破、および生存確率を最大化するための最適解を導出する』
「さあ、金目のもんはどこだ? それとも、その綺麗な肌でも売るか?」
男が下卑た笑いと共に剣を振り上げた。
その瞬間、にえの世界が激しく歪んだ。
【危機感応】が、男の腕の筋肉の収縮、剣が空気を切り裂く軌道、そして自分の身体に到達するまでの時間を、コンマ数秒先の未来として知覚させる。世界がスローモーションになり、無数の予測線の中に、たった一本だけ、安全なラインが浮かび上がった。
にえは、そこに吸い込まれるように、最小限の動きで身体を滑り込ませた。
空を切った剣が、地面をえぐる。男は、いるはずの場所にいない獲物に目を見開いた。
「なっ……!?」
驚愕と苛立ち。男の赤いオーラに、黒い斑点が混じり始めるのを【心象読解】で捉える。他の二人も同様だった。彼らがにえに向けているのは、もはや獲物に対する侮りではない。得体の知れない何かに対する、不気味さと戸惑いの色だった。
『敵の心理的動揺を確認。生存確率、3%上昇』
にえは男たちから距離を取り、身構える。体力、筋力、武器、全てにおいて圧倒的に不利。直接的な戦闘は愚策だ。ならば、利用できるものは何か。
視界の端で、拳大の石が目に留まった。次に、男たちの立ち位置と、背後にある大木の太い枝を分析する。
再び、リーダー格の男が吠えながら斬りかかってきた。歪む世界、安全なライン。今度は回避と同時に、足元にあった石を拾い上げる。
『反撃の最適解、算出完了』
にえは、ただ生き延びるためだけの思考を、淡々と続けていた。まるで、壊れた人形が、与えられた命令を遂行するように。
その瞳に、色はなかった。
赤いオーラの男が、再び斬りかかってくる。その動きは、にえの知覚の中ではひどく緩慢だった。【危機感応】がもたらす空間の歪みは、男の重心、踏み込みの角度、剣を振りかぶる腕の筋肉のわずかな震えさえも、膨大な情報として脳に送り込んでくる。
『予測軌道、三パターン。回避可能領域、七。最適反撃ポイント、一』
にえは、予測された安全地帯へ滑るように移動しながら、右腕をしならせた。手の中にある石の重さ、空気抵抗、そして標的までの距離。全ての変数が瞬時に計算され、最適解が導き出される。
放たれた石は、甲高い音を立てて男の利き腕の手首を正確に撃ち抜いた。
「ぐあっ!?」
男の手から剣が滑り落ちる。信じられない、という表情で手首を押さえる男のオーラが、怒りの赤から驚愕と苦痛を示すどす黒い色へと一瞬で変化した。
「てめえ、このガキ!」
仲間が負傷したのを見て、残る二人が同時に左右から襲い掛かってくる。濁った黄土色と、粘つくような紫色のオーラ。二方向からの挟撃。
『脅威レベル5。同時対処。推奨行動、個体分離および無力化』
にえの思考は、依然として冷静なままだった。
まず、紫色のオーラを放つ男が視界に入る。そのオーラには下卑た欲望と同時に、臆病さを示す青色がわずかに混じっていた。【心象読解】が、彼が虚勢を張っていることを見抜く。
にえは、回避行動の最中、意図的にその男の目の前でぴたりと動きを止めた。そして、無感情な瞳で、ただじっと、男の魂の色を見つめる。
「ひっ……!?」
男の動きが、凍りついたように止まった。にえの瞳の奥に、自分の汚れた魂を直接覗き込まれたような、根源的な恐怖を感じ取ったのだ。紫色のオーラが、恐怖を示す真っ青な色に染まっていく。
その一瞬の硬直が、致命的な隙だった。
にえは、もう一つの石を拾い上げると、今度は黄土色のオーラの男の膝を寸分違わず撃ち抜いた。鈍い骨の感触。男は悲鳴を上げて地面に崩れ落ちた。
これで、脅威となりうる個体は、最初に手首を砕かれたリーダー格の男だけになった。
男は、血走った目で後ずさっていた。赤いオーラはすっかり色褪せ、恐怖と混乱を示す灰色に濁っている。目の前の小さな少女が、もはや自分たちの手に負える存在ではないことを、本能で理解していた。
「ば、化け物……!」
男はそう叫ぶと、負傷した仲間を見捨て、背を向けて森の奥へと逃げ出した。
残された二人も、這うようにしてその後に続く。
あっという間に、森は元の静けさを取り戻した。
にえは、男たちが走り去った方向をしばらく無言で見つめていた。
『脅威の排除を確認。生存確率、98%まで回復』
感情はない。安堵も、達成感もない。
ただ、生き延びるというタスクを完了したという事実だけが、色のない世界に、ぽつんと記録された。
にえは、自分の小さな手を見つめた。この力は、一体何なのだろうか。
その問いにも、心は答えを返さなかった。ただ、深く息を吸い込むと、湿った土と、腐葉土の匂いがした。それが、今自分が「生きている」という、唯一確かな感覚だった。
男たちのオーラが完全に知覚範囲から消え、空間の歪みと不快なノイズが嘘のように途絶えた。脅威は去った。
にえは、その場に数秒間静止し、戦闘の結果を分析する。
『負傷者二名、逃亡者一名。こちらの損害、ゼロ。消費したエネルギーは、石を投げるための筋力と、数度の回避行動に伴うもののみ。極めて効率的な結果だった』
『身体状況の再確認。外傷なし。心拍数、正常。呼吸、安定』
思考は淡々と、機械的にチェックリストを読み上げていく。本来なら、激しい運動の後に訪れるはずの疲労感や空腹感。しかし、にえの身体にはそうした感覚が一切なかった。まるで、この身体が活動するための燃料を必要としていないかのように。
【飢餓・毒物耐性】。ステータスプレートに表示されたその文字が、脳裏をよぎる。これが、そのスキルの効果なのだろうか。
『仮説:この身体は、前世と比較して生命維持に必要なエネルギー効率が著しく高い。行動限界については、現時点ではデータ不足により算出不能』
にえは、思考を打ち切ると、次なる行動に移った。この森に留まり続けるのは危険だ。安全な場所、情報、そして最低限の生活基盤を確保する必要がある。
周囲を見渡す。どちらへ向かうべきか。
にえは、意識を集中させた。【危機感応】の精度を上げ、広範囲に展開するイメージを描く。すると、特定の方向から、先ほどの男たちとは質の違う、微弱ながらも持続的な不快感が伝わってきた。おそらく、危険な肉食獣の縄張りか、毒を持つ植物の群生地だろう。
逆に、不快感の最も少ない方向。そちらが、相対的に安全なルートであると判断できる。
さらに、【心象読解】を周囲の自然へと向けてみる。ほとんどの植物や動物からは、ただ生きているというだけの、淡い緑や茶色のオーラが発せられているだけだ。しかし、時折、ひときわ異彩を放つものがあった。
足元に生えていた、鮮やかな紫色のキノコ。それからは、粘つくような紫色のオーラ――男の一人が放っていたものと同質の、明確な「毒」の気配が立ち上っていた。
『この世界の自然物には、未知の危険因子が多数存在すると仮定。食料調達は、安全が完全に担保されるまで保留すべき』
得られた情報を統合し、進むべき方角を決定する。にえは、安全地帯と判断した方向へ、音を立てずに歩き始めた。
鬱蒼とした森の中を、どれくらい進んだだろうか。体力の消耗は感じない。ただ、同じような景色が続くことに、思考がわずかな停滞を示す。
その時だった。木々の隙間から、これまでとは違う光景が目に飛び込んできた。
森が途切れ、その先には、二本の轍が続く土の道――街道らしきものが見える。
人の生活圏が近い。それは、情報と安全を手に入れる可能性が格段に上がることを意味していた。
にえは、茂みからその街道をしばらく観察した。
『最適行動を更新。目標地点を街道に設定。人間との接触を図る』
色のなかった世界に、初めて「目的」という名の変数が、一つ入力された。にえは、その小さな一歩を、静かに踏み出した。
街道に出たにえは、改めてその道を観察した。轍の深さと幅から、定期的に荷馬車のようなものが往来していると推測できる。道の両脇には、人の手で刈られたような跡があり、森との境界線が明確に引かれていた。
『進行方向の選定。轍の密度が高い方向が、より大きな集落、あるいは都市に繋がる可能性が高い』
にえは地面を分析し、より多くの轍が重なっている方向へと歩き始めた。
太陽の位置から、時刻はおそらく昼過ぎ。このまま歩き続ければ、日没までには何らかの人の痕跡にたどり着けるかもしれない。
淡々と歩を進めるにえの耳が、遠くから聞こえる微かな音を拾った。車輪が土を軋ませる音と、馬のいななき。そして、複数の人間の話し声。
『前方より、複数の個体が接近中』
にえは道の脇に寄り、身を低くしてその正体を見極めようとした。森での経験から、人間が必ずしも安全な存在ではないことは、既に学習済みだ。
やがて、道の向こうから現れたのは、一頭の馬が引く、幌付きの荷馬車だった。御者台には、人の良さそうな中年の男が座っている。彼のオーラは、穏やかな若草色をしていた。【心象読解】が、彼に敵意がないことを即座に判断する。
問題は、荷台の後ろを歩いてついてくる、二人の人間だった。
一人は、軽装の鎧を身に着けた、若い男。そのオーラは、自信とわずかな警戒心を示す、澄んだ青色をしていた。
もう一人は、フード付きのローブを深くかぶった、小柄な人影。性別も年齢も判別できないが、その人物から放たれるオーラは、これまで見たことのない、特殊な色をしていた。
それは、ひどく臆病で、他者を拒絶する深い悲しみの色――暗い藍色だった。しかし、そのオーラの中心には、まるで傷ついた子犬のように震える、温かい橙色の光が、か細く灯っている。
『脅威レベル1。ただし、藍色のオーラの個体は、極度の精神的負荷を抱えていると推測』
にえが分析していると、荷馬車の一行が先にこちらに気づいた。
「おや、こんなところに子供が一人かい?」
御者台の男が、驚いたように声をかけてくる。その声に、幌の中から少女が顔を覗かせた。彼女のオーラもまた、純粋な好奇心を示す、きらきらとした黄色だった。
荷馬車が、にえの数メートル手前で止まる。
青いオーラの若い男が、警戒しながらもにえに近づいてきた。
「君、名前は? どうしてこんな場所に一人でいるんだ。親御さんはどうした?」
矢継ぎ早に投げかけられる質問。しかし、にえは答えない。答えるべき情報を持っていないし、そもそも、見ず知らずの人間に個人情報を開示するのはリスクが高い。
にえが黙っていると、フードの人物が、おずおずと一歩前に出た。
「ガレン、やめて。怯えているわ」
か細く、しかし凛とした声。フードの奥から覗いたのは、大きな翠色の瞳を持つ、にえと同じくらいの年頃の少女だった。彼女こそが、あの藍色と橙色のオーラの主だった。
彼女は、にえの前にそっとしゃがみ込むと、まっすぐに瞳を見つめてきた。
「大丈夫。私たちは、あなたに危害を加えたりしない。……あなたのその瞳、どこか私と似ている気がする」
その言葉と共に、少女の藍色のオーラがわずかに揺らめいた。まるで、にえの無感情な瞳の奥に、同じ種類の孤独を見出したかのように。
にえの脳裏で、何かが計算される。
『対象との接触によるリスク、12%。しかし、情報および安全確保の可能性、65%。接触を推奨』
にえは、沈黙を破り、初めて自分の意志で、この世界の人間と対話することを試みた。
「……名前は、にえ」
かろうじて、声が出た。それは、自分でも驚くほど、か細く、色のない声だった。