3話 あなたの幸せは私の幸せ
第2章-2話
私が育った海沿いの町に、私は実に12年ぶりに帰ってきた。
けれど、今日から住むのは昔みたいに子供でいっぱいの一軒家ではない。私と茜、2人きりの1LDKのマンションだ。
布団のうえで眠る茜を見つめる。
部屋には穏やかな茜の寝息と、歩いてすぐのところにある海の波音が響いていた。
茜はつい2日前、”核爆弾”を移植する手術を終えた。
それ以来眠ったままなのは、その手術を施した研究所の場所を茜に悟らせないためだという。
この子が、歩みを止めたこの世界の科学を救う存在になる。茜が何の問題もなく、普通の人として生きることができたなら。それはこの世界を必ず前に進める。
そのことは初めから理解していた。けれど、茜は私の子供で、茜が一人の人間であることには、つい1か月前になってやっと気が付いた。
私は自分のひざを抱き留めるように、茜の横に座る。
私は、自分のことを賢いと思っていた。
飛び級生で、海外で学び、国家機密の研究にも参加した。
けれど私は、ただ勉強をしただけだったのだ。
実際の私は、私が毛嫌いしていた私の母と何も変わらなかったのだ。母と同じ、嫌、母以上に私は馬鹿で弱かった。しかもそのことに一つも気が付いていなかった。
きっと母も、幸せに生きるために自分より不幸な子供をそばに置いたことを、賢い生き方だと考えていたのだろう。それが今の私には痛いほどわかるし、それがどれほど最低なことかも今ならわかる。
ふいに、茜が身じろぎをする。
そしてその大きな瞳が、ゆっくりと開いた。
「……おはよう。」
私は小さくつぶやく。
茜は寝起きのせいか、ぼんやりとしたまま私を見つめる。
しかし
「……っ!」
茜は息を飲むと、力の入らない体で、ゆっくりと後ずさる。
一瞬で、心臓が冷える。
しかしすぐに、私ははっとした。
当たり前だ。今まで自分を管で縛ってガラスの中に閉じ込めていた人間の一人だ。それが優しく声をかけてきたところですぐに甘えてくるなんてありえない話だ。
私は目の前で怯えた表情をする茜を見つめる。
彼は、どんな声をしているのだろうか。どんな表情で笑うのだろうか。
母親なんて名乗る資格がないくらいに、私は茜のことを知らない。
けれど、やり直すと決めたのだ。
少しずつでも、どれだけ時間がかかっても。
私は、茜を幸せにする。
ーーーーーーー
「茜、今日一緒に海まで散歩してみない?」
私はしゃがんで目線を合わせ、なるべく小さな声でそういう。すると部屋の隅で縮こまる茜は、動揺したように瞳を揺らしながら、どうするべきかと逡巡して布団をぎゅっと抱きしめる。
ここまで来るのに、1か月かかった。
初めは私が話しかけるだけで、この世の終わりかのように青白い顔をしていたのが、今ではどうするべきかと悩むまでになり、先週からはなんと私の作ったご飯を食べるようになったのだ。
既製品の食べ物では飽きてしまっただけなのかもしれない。けれど嬉しかった。
しかし、やはり私たちが親子になるまでの道のりは長い。けれど、諦める気なんてない。いつか茜が幸せになるためには。
茜は少しの間きょろきょろとしていたが、困ったように下を向いたままになる。今日はここまでのようだ。
「……ごめんね、無理を言っちゃって。茜は、茜がしたいと思ったことだけすれば良いからね。」
私はそう言って茜に微笑み、立ち上がる。
すると、やはり、私の視界は真っ暗になる。
最近どうも血の巡りが悪いらしい。どうも立ち眩みや貧血が多かった。
けれど、それは一過性のものですぐに元に戻る。
はずだった。
「……あれ、?」
体が、傾く。
重力に逆らえなくて、体がそのまま沈む。
いつも聞こえる波の音が、やけに遠くに聞こえる。
誰かの声が聞こえた。
悲しそうな声。けれどどうにもぼんやりとしか聞こえず、それがなんて言っているのかはわからない。
意識が、段々と遠のいていく。
後から思えば、これが私が初めて聞いた茜の声だったのだ。
ーーーーーーー
私は、ゆっくりと目を開く。
頭が酷く重い。瞼も重く、気を抜けばすぐにまた眠ってしまいそうだったが、何とか現状を理解しようと周囲を見渡す。
どうやら、私は病院のベットで眠らされているらしい。やはり私は先ほど倒れてしまったらしい。窓を見ると太陽はまだ高く、先ほどからそこまで時間は立っていないようだった。
茜の妊娠を知った日のことを思い出す。
ふいに、考える。
あの幸せだった日々は、どうして手に入らなかったのだろう。
「目を覚ましましたか、喜梨博士。」
ふいに声を掛けられ、私がそちらを向くと、そこには白衣を着た見たことのある男性がいた。
「お久しぶりです、日ノ輪先生。」
私は力ない声で言う。
彼は”核爆弾”の研究に携わる医師だ。この町で暮らしていく茜のために、この町で働く優秀な医者に研究への協力を仰いだ結果、この町で一番大きい病院の院長である彼がこれからの茜の経過などを見ることとなった。
そんな彼がここにいることの意味を、重たい頭で必死に考える。
「日ノ輪先生がいらっしゃるということは、茜になにか……?」
「いえ、茜君は少しパニック気味ですが元気です。なにせここまで連絡してくれたのも彼ですからね。とても賢い子ですよ。」
そう言われてほっと息をつく。しかし、彼は深刻な表情で話をつづけた。
「問題は、あなたです。喜梨博士。」
「え……?」
小さな声でつぶやく。
その反応に、彼は意を決したように私のベットサイドの椅子座る。
「よく聞いてください。
あなたの心臓に、異常が見つかりました。
昨年の健康診断では見つからなかったのに、ここまで進んでしまっている。
……おそらく、もって1年かと。」
頭の中が真っ白になった。
目の前の彼の言っていることが理解できない。
今、目の前に突き付けられた事実が、事実だなんて思えない。
「……いち、ねん…………?」
私が呟くと、彼は申し訳なさそうな表情で視線を逸らす。しかしすぐにへと視線を戻すと、絞り出すように話を続けた。
「とても珍しい疾患です。それに、こんなに若い方が発症するということも、こんなに進行が早いことも。
詳しい病状はまた改めて説明しますが、早急に、お話しなければいけないことがあります。」
私は、動揺しながらも日ノ輪先生を見つめ、彼の次の言葉を待つ。
「茜君は、1歳になる前から少し心電図に異常が見られたと聞きました。」
「………はい、少し駆出圧が弱い、と。問題にするほどではなかったそう、ですが。」
私は、絞り出すように言う。
なぜ、今、茜の話なのか。
胸がざわついた。
「………喜梨さん。この病気は、遺伝性のものです。しかも、世代を経るごとにその発症は早くなる、表現促進と言われる性質を持っています。
あなたはこの病気を、26歳で発症された。だからー-」
「……茜がすでに発症していても、おかしくないということですか?」
否定してほしかった。
こんな悲しいこと、あってはならない。
私はどうなったって良い。死んでしまったって良い。たくさん悪いことをした。その罰はいくらでも受ける。
けれど、あの子は。あの子が一体何をしたというのか。
あの子は、幸せにならないといけないのだ。
「……はい、おそらく。」
彼のその言葉から、私はもう、何も言えなくなった。
やっと、少しずつ幸せを始められたらと思っていたのに。
私の力では、茜を幸せにできない。
それどころか、茜は、幸せになれずに、死んでしまったら。
ベットに座って、横の窓を見つめる。
………これは、私の罰なのだろうか。
全てから逃げた私が、今さら求めた結果なのだろうか。
だとしたら、本当にそうなのだとしたら。
「………こんな世界、おかしい、でしょ。」
その声は、人気のない病室で消える。はずだった。
「………っ。」
小さく、息を飲む声が聞こえる。
私はそれにはっとし、すぐにその声の方へと振り返った。
そこには、茜の姿があった。
「………死んじゃうん、です、か?」
茜は、一言一言、手探るようにつぶやく。
茜の声をしっかりと聞くのは、これが初めてだった。
その瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
茜は、私が死ぬと知ったら、どう思うのだろうか。
いや、いつまでも自分に構ってくる奴がいなくなると知ったら、きっと茜だってせいせいするはず。
それに、1か月で私たちの関係はここまでしか進まなかったのだ。
あと一年で、どうにかなるものじゃない。
私は、諦めなければいけないのだ。
「………うん、死ぬみたいだよ。」
私は、そう言って茜に微笑む。
どれだけ時間がかかっても、絶対成し遂げると決めたのにな。
無理やり微笑んだ口元が震える。
何もうまくいかない。愛した人は目の前からいなくなって、愛する人とはもう1年しかいられなくて、その愛する人すら、長くないのかもしれない。
悔しくて、悲しくて、こんなこと、受け入れられない。
そんな時だった。
「………嫌、です。」
茜は、そう呟いた。
意外なその言葉に、私はつい声が漏れる。
茜はやはり、一言ずつ探るように、けれど一生懸命、言葉を紡ぐ。
「………ぼく、もっと、良い子、に、なります。が、頑張って、怖い、けど……動き、ます。…………だから。」
茜の瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「………死なないで。」
私はベットから飛び出し、茜を抱きしめる。
「ごめん、ごめん茜……ごめん……私じゃ、茜を、幸せにはできないみたいだ……」
茜の背中へ顔を埋めるように泣く。
それに比例するように、茜の肩も震える。
一頻り、ただただ泣いた。
気がつけば、窓の外には夕焼けが拡がっていた。
「……あなたを」
ベッドの上、隣に座る茜が呟く。
「僕が……あなたを、幸せにする、には……どうすれ、ば。」
「私を?」
意外な言葉に私がつい茜の顔を覗き込むと、彼は彼で私が何故不思議そうな表情をしているのかがわからないようだった。
「えっと……僕を、幸せに、できない、なら……僕が、幸せに、すれば……幸せ?が、1に、なるので。
足りるかなって、考え、ました。」
かなり緊張した様子で言う彼に、つい笑ってしまいそうになるのを必死で堪える。
なるほど、そういう風に捉えたのか。
「……そうだな。私の幸せは、多分茜が幸せになる事、かな。」
私が咄嗟にそう答えると、茜は難しそうな顔でなるほど、と呟く。
咄嗟に言ったことにそんな難しそうな顔をされては恥ずかしいような気持ちになるが、思えばなんて意地悪な言葉だろう。茜は私を幸せにしたいと言ったのに、私では茜を幸せにできないのだから、私が幸せになることはないじゃないか。
そんな自分が嫌になりつつも、これで気がついた。
幸せにする事は難しくとも、私が茜に教えなければいけない事はたくさんある。
立ち止まってはいられないようだった。
「……じゃあ」
不意に、茜が私の方を向く。
「幸せ、と、いうのは、幸せな人が近くにいたら、それは……周りみんなも幸せにできる、という、ことですか……?」
その言葉に、私は息を呑む。
それはきっと、私がもっと早く見つけなくちゃいけない言葉だったはずだから。
人と比べて、まだ自分の方が幸せ、なんてことは間違ってる。
周りの人が、大切な人が、幸せから。それが自分の幸せ。
もっと早く気がつけばよかった。
「……そうだね。
私たちも、自分の幸せを、家族の幸せにしなくちゃね。」
「……はい!」
茜はそう言って大きく頷いた。
ーーーーーーー
「久しぶり、円。実際会うのはもう12年ぶりになるのかな?」
「え、あ、久しぶり。ソラ。」
私は動揺しながらもそう声を上げた。何せ、目の前の男、私の施設時代の友人である錫守宙は、12年前から40cmは伸びたのではないかも思えるほどの高身長になっていたのだ。
とはいえ、12年だ。それくらい大きな変化があって然るべき時間だろう。
「それじゃあ、早速本題入るけど。この間メールしたこと覚えてる?」
「勿論。円と、あと息子さんの病気のこと。」
ソラには、核爆弾のことを話すつもりはない。というかそもそも、空がそれを聞いてしまったら、すぐさま私は警察へと連行されることになるだろう。彼には、そんな芯があった。
「……単刀直入に言うと、再婚してほしい。」
少しは予想していたのか、その言葉にソラが動揺することはなかった。
昨年、未知が交通事故で亡くなった。
若くして結婚した未知とソラの間には、双子の姉妹がいるという。それをソラは今、男手一つで育てていた。
そして、その真っ直ぐな性格。
私の死後、茜を任せたい人だと、1番に思った。
「……To be honest,(実はね)」
突然、口を開いてそう言ったソラに驚く。けれどすぐに、彼が伝えたい内容を察し、私は何も言わずに頷いた。
私とソラが英語を話す時、それは、本当のことを話す時。
「What have I want since I was young is my whereabouts I can stay absolutely.
(僕が小さい時から欲しかったものは、絶対に失われない居場所だった。)」
そう言ってソラははにかみ、話を続ける。
「Then, I made my status useing Michi when we in orphanage. It was me who made michi weak to make my whereabout strengthen。
(だから施設にいた時、自分の地位を作るため未知を利用した。自分の居場所を強固にするため、未知の弱さを作ったのは僕だ。)」
意外な言葉に、私はつい息を呑む。
ソラは、心の底から誠実な人だと思っていたし、おそらく実際に誠実なのだろう。
けれど、彼にも欲はあったのだ。
「良いよ、再婚しよう。」
そう言って、彼は私へと手を伸ばす。
なるほど、協力体制ということだ。
私と茜が家族に加わることで、ソラの家族という居場所は強固になる。一方で私は、私の死後茜を託すことができる。
「私たち、何となく似ているのかもね。」
「間違いない、僕らは2人とも勝手だ。」
そうして、わがままな2人はお互いの都合のために再婚を約束した。
ーーーーーーー
ソラの子供たちに初めて会う日、私は茜と、高台から海を見つめていた。
すぐ横には、この海を見下ろす高台の名物だというクリスタルピアノが置かれ、キラキラと輝いている。
人は、私たちしかいないようだった。
私は、茜に全て教えた。
核爆弾も、この再婚の意味も、私の病気も、茜の病気も、数学も、理科も、私の知ってることを。
私は、茜を幸せにできない分、沢山の知識と真実だけは知っているから。
そして私は今日、茜を幸せにする役割を3人に託す。私では全うできないその仕事を、果たしてくれると信じて。
「……茜。」
海を見つめながら、私は小さくつぶやいた。
「……何ですか?」
相変わらず、茜は2人きりのとき敬語で話す。それはまるで、私が母の、家族の役割を放棄すると決めたことを、きちんと理解しているようだった。
結局私は、本当の意味での母親にはなれなかったと思う。
「……ごめんね、本当にごめんね、茜。
……あなたを、私の子にしてしまって。」
茜の手を、優しく握った。
その彼の手が、先の入院で少し細くなってしまったような気がして、握る手の力が強くなった。
「……私の子に生まれてこなかったら、幸せになるのなんてきっと簡単だった。
私の子に生まれてこなかったら、こんな実験の被験者になることはなかった。
私の子に生まれてこなかったら、病気になることも、なかった。
だからーー」
「あなたは、」
私の言葉を遮って、茜は口を開く。
「僕の母親になって、幸せですか?」
茜の瞳が、真っ直ぐ私を見つめる。
こんな瞳はきっと、私も、上手裏くんもできないだろう。
茜は、こんなに真っ直ぐに人を見ることができる子に生まれてきてくれた。
茜は、私にも上手裏くんにも似ないでくれた。
「……こんな良い子の母親なんて、幸せに決まってるでしょ。」
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
なにせ今から私たちがするのは普通の親子だ。こんな所で泣いていたら、せっかくの計画も台無しになってしまう。
私は、涙が溢れないよう目を瞑った。
そして、そのすぐ隣。
小さな声が、波と共に響いた。
「なら、僕だって幸せです。家族だから。」
1日1更新に戻しました。もう少しで完結ですが、最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。