4話 心配なんだ
第1章-4話
私の名前は錫守 "世界"。
決して錫守 世明なんて人ではありません……
私は心の中で念仏のように唱えながら、下駄箱から世界の上履きを取り出す。
私の普段履いているものとは全く異なるデザインとその清潔さに、私は上履きを履くという単純なことでさえも体が強張ってしまい、9月初旬のまだまだうだるような暑さのせいなのか、緊張のせいなのか、どちらかよくわからない汗が滴る。
……うまくできる気がしない。
私はそう思いつつも、昨晩茜と必死に叩き込んだこの校内の地図の記憶を頼りに、一人トボトボと教室へ向かった。
ーーーーーーー
事の発端は昨晩。
作戦会議と称された夕ご飯の食卓にて。
茜のお手製オムライスを食べながら、彼は一言。
「せっちゃんの学校入れないなら、よっちゃんがせっちゃんの振りして学校に入ればいいんじゃないの?」
「……はぁ??」
私はオムライスを食べ進める手を止め目の前の彼を見ると、彼はその素っ頓狂な言動に対し自信満々な様子で私を見つめていた。
「……本気じゃないよね??」
私が縋るような気持ちでそう言うと、茜は笑顔のままでゆっくりと首を振る。
私は呆れるように大きくため息をついた。
「そもそも、私と世界ってもうそんなに似てないよ? 世界の友達とかにはきっと….…」
私はそう言いつつ、友人と和気あいあいと会話する世界を想像してみる。
「……と、友達はいなくても先生とかには絶対バレる!! 無理!!」
私は立ち上がるような勢いで茜を説得しようとするが、それを見てむしろ茜は呆れたような様子でため息をつく。
「そんなことないよ〜〜よっちゃんとせっちゃんすっごく似てるのに。絶対大丈夫だから!
それに、せっちゃんがどうしてるか、よっちゃんだって心配でしょ?」
そう言う彼の表情はまさに真剣そのものだった。
彼の、私にも世界にも似つかない、まっすぐな意思を持ったその瞳には、ただ困惑した表情の私が写っている。そしてその瞳の中の自分は、真剣な彼の雰囲気に圧倒され何も言えないでいた。
「……わかった! 自信ないけど、やってみよう、かな……」
私は絞り出すようにそう言った。
……かくして私は折れてしまい、世界の格好をして、世界の学校に行くなんてことになってしまったのである。
ーーーーーーー
そして今はその家族、もとい兄妹会議から一夜明けた、9月3日午前10:42。
登校時間としては完璧な遅刻だが、普段私と茜が家を出ててから自室を出る世界が、電車とバスを乗り継いでこの学校に来るには、どんなに早くてもこの時間が限界だろう。という茜の計算のもと、私はここまで学生が一人もいない電車とバスを乗り継いでここまでやってきたのだった。
私と茜が通う徒歩5分の公立中学校とは全く違った、長い通学路と可愛い制服。それに何百年だとかいう歴史のある豪華な校舎はまさに有名進学校そのものと言った雰囲気で、私は廊下を歩いているだけの現時点でかなり緊張していた。
しかし、それはただ学校の雰囲気が違う、ということだけではない。
……実は私は、世界がどんな性格の人間なのかを全くと言っていいほど知らない。
というのも、世界は生まれてこのかたその性格を常に変動し続けてきた。
幼い頃はしっかり者。お母さんが死んでしまった後は、突然それまでの私を模したみたいな明るい性格になった。
そして、ママの死後は何故か私たちを嫌悪するように。
そんな世界の様子に、正直私やお父さんはとっくに慣れてしまったけど、つくづく彼女は変わり者なのだと今さら身を以て実感する。
でもまあ流石に学校でだけは明るく快活というのも考えにくいので、今の所は無口で無愛想なキャラでいこうかな……
私は足を止め、世界のクラスの、教卓側よりは目立たないであろう教室の後ろの、オシャレな木製の引き戸の前に立ち、大きく深呼吸をする。
その教室からはなにかの解説をしているのだろうか、ハキハキと話す先生の声が聞こえるだけで、私の普段通っているお喋りの絶えないクラスとは真逆の雰囲気だった。
「……よし」
私は小さくそう言って、決意を固める。
そして、緊張のあまり震えそうになる手でその扉をゆっくりと開き、白い陽の光が差し込んでいる明るい教室へと足を踏み入れる。
扉の開くその音を聞き、クラス中から集まる視線、視線、視線。
私は世界、私は世界、私は世界、私は世界…
と自分に暗示をかけながら、私はあくまで世界らしく、凛とした態度でその扉を閉める。
それを見たクラスメイトたちは、いつも通りの世界の様子に、再びまた授業に集中し始め……
とはいかず。
「……世界!! おはよー!!」
黒板前に座る女子生徒が、そう声を上げる。
するとほかの生徒たちも同調して、さっきの静けさから一変し口々に私に声をかけ始めたのだ。
「……え?」
私のその驚く声は、クラスメイトたちの大きな挨拶の声にかき消される。
いや、あの、待って。
私は想像と全く違ったその状況に混乱し必死に頭を回転させ、そして
……これはきっと、みんなが社交的で誰にでも挨拶してしまうやつだ。
と若干無理やり結論づけた。
私は小さく深呼吸して、そして一言。
「…おはよう」
と小さく、限りなく小さく、呟く。
すると、私のその行動にクラスメイトは一変し、一斉に黙り込んでしまう。
……もしかして、これは一言も喋らない方が良かったやつ……?
さっきから冷房ガンガンの教室にいるはずなのに、冷や汗がダラダラと滝のように背中を流れる。
そしてみんなが黙り込んだその静寂の中、いてもたってもいられなかった私は、なんとか冷静を装って窓側の列の一番後ろにある、世界の席と思しき空席についた。
その私の行動を見た皆はまだ何かが気になっている様子だが、やはり進学校というわけか皆だんだんと授業に戻り始める。
私はそれに安心しつい大きく息を吐くと、突然、前の席の女子生徒が私の方へ勢いよく振り返ってきた。
私は驚きのあまり声を上げそうになるが、なんとかまた自分に世界暗示をかけその声を飲み込む。
私の方を見つめたまま何も言わないその少女。
よく見ると、その少女はどうやら昨日私と世界を間違えていた人物のようで、私はさらに緊張し息を飲む。
しかし、彼女から出てきた言葉は思ってもいないものだった。
「…まだ、体調悪い??」
彼女はそう囁いて、私を心配そうに見つめた。
「……え??」
私はあまりの驚きにかなり大きい声を上げてしまうが、幸い先生や他の生徒たちの驚異の集中力に救われたようで、私とその少女は同時にホッと息を吐く。
そして少女は周りの様子を伺いつつ話を続けた。
「……だって、世界いっつも遅刻なんてしないし誰よりも明るく挨拶するし。 ていうかクラスみんなで挨拶しようって言い出したの、クラス委員の世界じゃん。だから、調子悪いんでしょ??
一昨日から休んでたし、無理しないでね」
その少女はさも当たり前かのように、その衝撃の言葉を私に投げかける。
そして私はその驚きのあまり、おもむろに立ち上がり一言。
「……先生。体調悪いので保健室行ってきます」
ーーーーーーー
世界とクラス委員長。
間違いなく、日本アンバランス単語組み合わせ大会があればトップ10に入るであろうその言葉。
ふいに、世界の私たちを嫌悪する表情が脳裏をよぎる。
世界がクラス委員長で、明るくて…
「ていうか遅刻しないって、一体どうやって学校来てるの…」
私はその口からこぼれ出た疑問で我に帰り、ばっとベットから起き上がった。
勢いとは言え教室を抜け出したことに満足してちゃいけない。すっかり目的を忘れていた。そういえば私は、この学校に何か世界に繋がる手がかりがないかと探しに来ていたのだ。
世界が明るい、なんて言われてしまったら、流石に容姿が似ているだけでは太刀打ちできない。折角変装した意味がなくなってしまうが、手がかりを探すなら、なるべく人目につかないようにするのが賢明だろう。
私は音を立てぬようにべットを囲む薄いカーテンをめくると、そこには誰かと電話をしているのか、こちらに背を向けた、優しそうなおばあちゃんといった雰囲気の保健医の姿が目に入る。
さすが進学校の保健医はまじめだな、生徒に愚痴を聞かせたりしなそう。だなんてことを思いながら、私は彼女の目を盗みこっそりと保健室から抜け出した。
授業中の校舎は異常なほど静かで、私はついつい、不審者さながらの抜き足差し足で廊下を徘徊してしまう。
昨日茜とこの校舎の地図を叩き込んだとはいえ、実際に歩いて見るとあまりのサイズ感と、歴史ある雰囲気に私は怯んでしまいそうになるが、ふいに今も私に期待を向けているであろう茜の笑顔が頭に浮かび、茜のため、と自分を奮い立たせ捜索を続けた。
……結果として
3時間探しても、何も見つからなかった。
私は保健室の前で大きくため息をついた。
3時間だ。3時間。疲れる。
私はあまりの疲労感にその場に座り込んだ。
実際、このだだっ広い校舎中を歩き回った。ということもそうだが、休み時間ごとに保健室に戻り、眠っているふりをして異常に多い世界の友人達の見舞いや調子を丁寧に聞いてくれる保険医の先生との会話を乗り切り、休み時間が終わればまた捜索というあまりに精神力を削る行動に、私はもう正真正銘の疲労困憊だった。
そんな時、目の前の保健室の扉がおもむろに開く。
やばい、今世界は保健室にいるはずなのに。まだ授業時間だからと油断していた。私は息を飲みながらも、一度座り込んでしまったらこの疲れ切った足ではすぐに逃げることなどできるはずなく、私は諦めるように保健室から差し込むあかりに目を細める。
そして、その中から出てきたのは……
「……大丈夫かい? 世界ちゃん」
いつも茜の面倒をお父さんに代わって見てくれる、イケメン大学教授ちなみにに未だ独身。
……こと、繭純さんだった。
彼はいつもの紳士的な笑顔で、しゃがみ込んだままの私に手を差し伸べた。
ーーーーーーー
「あら茜くん、おはようございます。って、あれ……今日世明ちゃんお休み??
……茜くん、大丈夫??」
「はい!僕は、大丈夫です!」
僕はそう言って一礼をすると、その先生の横を逃げるようにスタスタと通っていく。
まだ校舎に入ってから数分も経っていないにも関わらず本日12回目のその先生達からの言葉に、僕、茜はため息をついた。
けれど、これについてはただただ仕方がない。
バカは風邪ひかない、とか、そんな根拠も何もない言葉が似合う世明の欠席となると、一番に心配されるのは間違いなく僕だろう。
あんな健康優良児が欠席するほどの症状が、あの虚弱な兄弟に移ってはいまいか、と。
僕が教室の扉をガラガラと開くと、そこにはいつもより5人も多く……つまり5人の先生が僕を心待ちにしていたかのように待機していて、僕を見るや否や、僕に駆け寄り、そして一言。
『茜くん大丈夫??』
ーーーーーーー
「おはよー
……錫守お前大丈夫か?」
「先生それわざと言ってるでしょ〜〜」
僕は、始業のチャイムからおよそ5分遅れて教室に入ってきた担任、上手裏先生に向かって言った。
彼は僕の言葉にへいへいと適当な返事をすると、いつものように、はぁと大きなため息をついて教壇に立つ。
「よし、錫守いる。と、
今日も"全員"出席だな〜」
彼は適当にそう言うと、いきなり普段使われることのない僕の横の席に座り、そこに突っ伏すような体制になる。
「……どうしたの? 上手裏先生」
僕がそう言って彼の顔を覗き込むと、彼は目をパッチリと閉じてこちらを見ようともしなかった。
僕は目を細める。
……まただ。
そして、彼はそのまま一言。
「……俺は寝るから、だからお前も寝ろ。」
彼はそういうと、わざとなのかわからないが大きくいびきをかきはじめる。
彼のその行動に僕は大きくため息をつく。そして席を立ち彼に背を向けると、わざとらしく、仕方ないなぁ〜と小さく笑って呟いた。
そして彼のいびきから逃れるように教室を出た瞬間、僕は音を立てないように、教室の扉に寄りかかりながら座り込む。
上手裏先生が居眠りをする時、それは僕の体調が悪い時と決まっていた。けれど、上手裏先生が僕へ直接そう言うことはない。決まっていつも、先生はこんなふうに振る舞う。
それが、僕はずっと嫌だった。
どうしても上手裏先生の前では「良い子の振り」が上手くいかない。
重い頭を垂れ、ため息をつきながら呟く。
「……なんで、バレちゃうんだろう。」
不意に、自分の胸に手を当ててみた。
しかしそこはもはや、痛いのか痛くないのか。苦しいのか苦しくないのか。そんなことさえ分からなくなっていた。
わからない。けれど、すごく辛い。
僕は、実に8年あまりもの間病院で暮らしていた。
やっと退院できたのは半年前。
それだって比較的症状が出なくなってきたというだけで、この心臓の病が完治することはない、と小さい頃から言われていたという。
僕は何度もこの病に殺されそうにもなり、実際この病はママを殺した。
この病気は遺伝するものらしいが、なんのつもりか、これはママを発症からたった1年で殺し、僕を13年も細々と生き長らえさせている。
今更それを恨んだりなんかはしていない。ただ、そんな病気の痛みを感じないなんて。僕はこの病と長く共に過ごしすぎたのだろうか。
……それに僕は、"あれ"とも、長い付き合いになる。
「……病気もあれも、もう僕の一部なんだろうな。」
僕はその場で俯いたまま呟く。
いつのまにか、あのわざとらしいいびきの声は止んでいた。
ーーーーーーー
「世界ちゃん今日の朝は、バスと電車で学校行ったんだね? いつもみたいに迎えに行ったら家にいなくて驚いたよ。
それに、心配して学校行ってみて正解だったね。」
そんな世界の登校の謎が解消された。
ということにも気付かないほどのとんでもない緊張の中、私、こと"世界"は繭純さんの話を聞き続ける。
というのも、今まで早退どころか風邪の一つも引いたことのない私にとって、学校の送り迎えをしてくれる繭純さんのこの高級車に乗るのは人生初の出来事。ついつい肩に力が入ってしまうのだ。
それに加えて、今の私は世界。
世界がどんな風に繭純さんと接していたかなんて全く知らない。ただでさえ学校での様子も予想とかけ離れていたのだ。
……いっそ、めっちゃ明るく振舞った方がいいんじゃ。
と、思ったその時。
「……ところで」
いきなり繭純さんが私に声をかける。
心なしか、その声のトーンは先ほどより低く感じた。
「昨日、うちの研究室が泥棒に入られてしまってね。大事な機材が盗まれてしまったんだ。」
繭純さんは後部座席の私を振り返ることなく、内容とは裏腹に、まるで他愛のない話でもするかのように淡々と話す。
「あのさ、世界ちゃん」
私が何か返事をするのも待たずに、彼は話を続ける。
「日本はこの平和ボケした世界で大きな力を持っている。
それを維持させるために、うちの研究室も、"あれ"も必要になってくるんだ。」
……繭純さんは明らかに何かを怒っていた。
けれど、いきなり日本や権力の話などされても私にはさっぱりで、とりあえず繭純さんでさえ私と世界を完璧に間違えているんだな、ということが確実になっただけだった。
「……だからさ」
信号が赤になり、繭純さんがブレーキを踏んで、私の方に振り返る。
「……返してよ、世界ちゃん。
あの"起爆スイッチ"」
繭純さんが笑顔でそう言った。
けれどその顔は、今まで見たことないくらい冷たく、恐ろしい。
世界が、繭純さんの起爆スイッチを盗んだ。
それはとても突拍子のない、けれど、心当たりのある言葉。
一体何のために。
私はその質問に簡単に答えられる。
私の脳裏には、世界の書き残したあのメモが浮かんでいた。
"世界を滅ぼす"
きっとその起爆スイッチが、世界を滅ぼす何かに繋がる。
私は少し考えて、そして力強く、彼に言った。
「繭純さん。
……私、世明です。」
私がそういうと同時に、信号が青に変わる。
驚いた表情の繭純さんは、そのままゆっくりと前を向きアクセルを踏む。
「……あはは、そうなんだ。全然気がつかなかった。」
その声は、明らかに動揺している。
私は勇気を出して言葉を続ける。
「世界は、一体何を盗んだんですか? 一体、世界は何をするつもりなんですーー」
「全部嘘だよ。」
繭純さんは、私の声を遮るように言った。
振り返らない彼の様子を伺うことはできなかったが、彼の雰囲気は未だにひどく冷たく恐ろしいまま。
「……私がいくらバカでも、それが嘘ってことはわかります。本当のことを教えてください!」
私はつい声を荒げる。
なぜ、繭純さんは教えてくれないのだろう。聞いているのが私だから? それとも聞いているのが子供だから?
焦るような気持ちだけが募り、私はそれ以上言葉は出なかった。
それになんと答えるのかと繭純さんは悩んでいるのか、それとも話す気などないのか、その後私達は何も話すことはなく、ほどなくして車は家に到着してしまう。
「……教えたくない。」
車を止めた繭純さんは振り返る事なく言った。
その言葉は本心であると、直感的に感じる。
と同時に、予想できなかったその心からの言葉に私は動揺してしまう。
彼はそのまま話を続ける。
「君のお父さんにはとてもお世話になってる。
だから私は、こうやって君たちの面倒を見て、彼に恩返しをしてきたつもりだ。」
繭純さんはそう言うと、ゆっくりと私の方へ振り返った。
その真剣な瞳が、私を見つめる。
「だから私は、君たちには何も知らないでいて欲しい。
君たちのお父さんにも、世明ちゃんにも、それに…茜くんにも」
その真剣な眼差しに、私は何か言葉を返すことなどできなかった。
繭純さんは何も言わずにまた前を向くと、ピピッという機械音がして私の横のドアを開ける。
「……送ってくれて、ありがとうございました」
車から降りる前、私は運転席の彼にそう声をかける。しかし、彼が再びこちらを振り返ることも、その返事が返ってくることもなかった。
ーーーーーーー
彼はその少女が玄関に入るのを見届けると、大きなため息をついてハンドルに頭を置いた。
「……まさか、あれが世明ちゃんだとは」
彼はそう呟くと再び大きなため息をつく。
「ここの家族には、何も知らずにいて欲しかったっんだけどな。
……すみません、先輩。」
彼は、"今は亡き彼女"にそっと呟く。
そして、
「……ごめん、茜。」
その息子である、彼にも。
ーーーーーーー
私は繭純さんとの会話に不満を残しつつも、今はどうすることもできまいと玄関のドアノブに手をかける。そしてそのドアはいつも通り小さな電子音を鳴らして鍵を開けた。
そして、私はいつも通りドアノブをひき、玄関へと入る。
が、
そこには、家へ上がろうと靴を脱ぐ、細身の大男の背中。
……つまり、お父さんの姿が私の視界に入ってきたのだ。
「……え??」
「あ、おかえり!せか……世明?」
お父さんは振り返り、驚いた表情で私を見つめる。
この状況は本当にまずい。
時刻は午後2時過ぎ。
私は世界の学校の制服を身につけ、なぜかカツラ収集にハマっていたママから幼い頃にもらった、世界の髪の長さのカツラをつけている。
そして今日、学校を私が欠席していることがバレるのは時間の問題。
つまり、世界が行方不明である事がバレるのも。
……世界の書き置きのことも。
お父さんにあの書き置きのことがバレて仕舞えば、お父さんは必ず警察に届け出るだろう。
お父さんは家族を愛しているが、それ以上に正義感が強く、それで色々な人から信頼され若くして大きな会社を作り上げられたのだといつも自慢げに言うお母さんの声がフラッシュバックする。
“世界が地球を滅ぼす、と書き置きを残して消えた。”
そんなこと、お父さんには絶対に言えない。
なんとか世界を犯罪者にしないために、ずっと色々なことをしたのだ。ここでそれを無駄にするわけには、世界を犯罪者にするわけにはいかない。
「な、なんで世明が世界の制服を?? ていうかこんな時間にどうしたんだ、まだ学校終わってないだろ?」
お父さんは私と目線を合わせるため、中腰になり私の肩に優しく手を置いてそう聞く。
「あ、あはは……あのね、えっと……」
こんな時に限って、良い言い訳が全く思い浮かんでこない。
あまりの焦りからか、なんだか泣きそうになってしまう。
あぁ、なんで私、こんなことになってるんだろう。
それもこれも、全部、全部。
「……世界が悪いんじゃん」
私が小さくそう呟くと、お父さんには聞き取れなかったようで、妙に優しく私に聞き返す。
それがなんとなくしゃくに触って、私はお父さんの手を振り払った。
私と茜は、こんなに世界のことを心配してるのに。
私に至っては、世界に変装して学校に行くだなんてことまでしてるのに。
それなのに一向に世界は見つからない。それどころか、私は世界の今まで知らなかったことに驚いてばかりで。
何のために探してるんだろう。今まで何も言ってくれなかったくせに。
昔から私ばかりがいつも世界の背中を追いかけて、世界は私を見向きもしない。
もしかしてもう、世界と仲直りをするなんて、無理なのかもしれない。
私がどんなに望んでも、世界は私を望んでいないのかもしれない。
私がどれだけこの手を伸ばしても、その手を取ってくれることは、もう二度とないのかもしれない。
これは、全部無駄なことなのかもしれない。
私は、もう疲れてしまった。
「……お父さんには言えない」
私は俯いたまま小さく呟く。
心の内側にある沸々とした感情を、必死に抑えるようにしながら。
「……どうして?」
お父さんは優しく私に問う。
私は何も答えなかった。いや、答えられなかった。
私が今押さえつけている感情は、お父さんには決して関係ない。
それを、お父さんにぶつけてしまわないように。必死に当たり障りのない言葉を足りない頭で探す。
しかしその感情は、お父さん一言で一気に外へ溢れ出てしまう。
「……お父さんは、世明が心配なんだ」
私の心はもう、張り切れてしまった。
「……もうほっといてよ!!!」
私は大声を上げて言う。
こうなってしまっては、もう歯止めがきかない。
土石流のようなこの感情を堰き止める術なんて、私はまだ知らなかった。
「私たちだって色々あるの!!
だけどそれは、そこにいるから話せるんだよ!
お父さんは……お父さんは、心配心配、って言うだけでいっつもいないじゃん!!!
私たちに何もしてくれないなら、もうほっといてよ!」
私は力の限りそう叫ぶと、驚いているお父さんを振り返らず、そこから自分の部屋へと走って行った。
堰を切ったように涙が溢れ、視界が歪む。
お父さんはきっと今、ショックを受けているだろう。
お父さんが家にほとんどいないのは仕方のないことだ。
今日だって、きっと少し立ち寄っただけでまたすぐに出かけなきゃいけないんだろう。だから、私たちに会ってぬか喜びさせぬよう、こんな時間に帰ってきているのだ。
そんなお父さんを、私は。
……ねえ、世界。
これはもう、世界のせいじゃないね。
ーーーーーーー
いつのまにか私は眠ってしまっていたらしい。
私が目を開くと、そこは電気のついてない真っ暗な自室だった。
体を起こすと、部屋の電気が自動で点灯し、更に空腹感からか、お腹が大きな音を立てて鳴る。
「……そういえば、お昼も食べてなかったや」
時計を見ると時刻は6時半。昼ごはんを食べるにはもう遅すぎる時間だ。
そんな時、ベットの横にある部屋のドアが優しくノックされた。
私はすぐにどうぞと言うと、トビラが開き、途端にカレーの良い匂いが部屋中に広がる。
「あ、おはよ〜、よっちゃん」
どうやら、茜が私に夜ご飯を持ってきてくれたらしかった。
茜のいつも通りの笑顔に、なんだかとても安心する。
「寝てると思っててご飯持ってきちゃった。 リビングで食べる??」
「ううん、ありがと。ここで食べるよ」
私はそう言って立ち上がると、茜からカレーを受け取りテーブルに置くや否や、空腹感に抗わずすぐにそれを食べ始める。
「お父さんからね、置き手紙があったんだ」
ふいに、私の後ろのベットに座った茜が言った言葉に、私のカレーを食べる手が止まる。
「明日の夜には帰る。と、よっちゃんにごめん。だって。
……喧嘩とかしちゃった?」
「……ご名答」
私がこの上なく言いづらそうにそう呟くと、茜は吹き出して笑い始める。
「もーー!笑わないで!!」
私はスプーンを置き、ベットに座る彼の元へ近寄ると、彼にデコピンをお見舞いする。すると茜は声を上げ、見事にくるりんと回りベットの方に寝転んだ。
その回りっぷりが妙におかしくて、私は声をあげて笑ってしまう。
それに茜もつられてなのか、起き上がると私と一緒に笑い出す。
そしてひとしきり笑った後、私たちは目を合わせて言った。
『今日も聞くか!』
ーーーーーーー
『お父さんはね、めんどくさいよ』
そう断言するママの声に、私と茜はいつものように同時に吹き出す。
身支度を済ませ、パジャマに着替えた私たちは、私の部屋のベットの上で一緒に横になりながら、ママの「お父さんと喧嘩した時」を聞いていた。
以前は世界と二人で寝ていたベットということもあり、このベットは茜と二人で寝ていても窮屈にはならない。
私と茜の間に茜のタブレットを置き、私たちは二人とも天井を見つめそれを聞いていた。
考えるのは、世界のこと。
世界が居なくなって、今日で3日になる。
一体いつになったら帰ってくるのだろう。
世界を滅ぼすだなんて、本気なのだろうか。
世界は学校では明るいのに、なんで私たちをあんなに嫌っているのだろうか。
疑問は絶えない。
けれど、今の私たちにできることなどないのだと、私はなんとなく感じていた。
今までずっと遠くにいた世界は、本当に私たちの手の届かないところに行ってしまったのだ。
明日お父さんが帰ってきたら、世界のことを話そう。
きっとお父さんは世界のことも、それを秘密にしてた私達のこともすごく怒るだろうね。
そう茜に言おうと横を向いた時、すでに茜は安らかな寝息を立て眠ってしまっていた。
「……おやすみ」
私はママの音声を止めそう呟き、私も目を瞑った。
世界はもう帰ってこないのではないか。
寝入る直前、そんな考えが頭に浮かぶ。
もし、帰ってこなかったら。そうなったら、私は一体、どうすれば良かったのだろう。
……その時の私は、そんなことよりも、もっと考えなければいけないことがあるのに気がつかなかった。
明日、世界が終わってしまうかもしれないということを。
すぐ隣で眠る、"茜"のことを。
ーーーーーーー
翌朝、私が目を覚ますと、一枚の紙が枕元に置いてある。
そして、
……茜はどこにもいなかった。
☆世界が滅亡するーー?まで:あと0日
1日1更新辞めてみました、3日目にして。