2話 円周率と素数
第3章-2話
2話 円周率と素数
「特別支援学級、ですか。」
「うん、来年度のね。聞いた話だと、その子入院中に積分の問題を解いてたなんて言うんだから、ぜひ数学科の上手裏先生にお願いしたいと思って。」
そう言う教頭の言葉に、俺は頭をくしゃくしゃと掻く。
「いや、俺は良いですけど……逆に良いんですか? 資格があるだけで特別支援学級なんてやったことないし、それこそ俺じゃ数学以外大したこと教えられないですよ?
それこそ、そんな賢い子ならもっと適任がいるんじゃ……」
俺がそう言うと、教頭は少し言い淀みながら言葉を続ける。
「その子の親御さんからね、好きなことだけやらせてあげてほしいと言われてるんだ。
……その子が、元気なうちにね。」
「……そうですか」
俺はその教頭の言葉に全てを察する。
つまり、その子の『学校に通った』という思い出作りなのだろう。
ふいに考えた。
もし、俺がその子に良い思い出を作ってあげられたら。
そうしたら、俺が道を踏み外してきたことにも、何か意味があるのではないか。
「……わかりました、俺がやります。」
ーーーーーーー
9/5、土曜日の午後3時。今日は、本来であれば学校は休みのはずの日。
けれど私は今日、特別支援学級の教室で、私と少しばかりの事情を知っている結先生、そして、素数先生とで集まっていた。
緊張で、心臓がバクバクするのが聞こえる。けれどこれは、私達家族だけの話じゃない。
これは、茜とその父親の問題だから。
「……素数先生は、茜の、お父さんだよ。」
私は、目の前の素数先生を見つめて、そう言った。
素数先生は、目を見開いていた。明らかに、動揺していた。
正直私は、ママと素数先生の間に何があったかは知らない。
けれど、素数先生は『後悔している』と言っていた。自分が逃げたことを。
少なくとも、今の茜の現状が、先生が逃げた結果であるのは明らかだった。
もし、ママのそばに素数先生がいたら。きっと茜が、「核爆弾」になるなんてことはなかったはずなのだから。
沈黙の時間が、永遠にも感じられる。
けれど、その静寂を破ったのは、意外な人物だった。
「……錫守さんは、“核爆弾”のことは知ってるの?」
そう言ったのは、結先生だった。
私は、驚きのあまり息を呑む。
「……何で、結先生が、その、こと。私、まだ何も言ってない……」
私がそう言うと、結先生はうつむき悩むように眉を顰める。しかし数秒後、意を決したように顔を上げると、素数先生へと向き直る。
「上手裏先生。錫守君の心臓の右心房上部23mmの所には、小型の核爆弾が埋め込まれています。
私の父は医師としてその研究に協力し、そして私は……学校での錫守君、被検体1-AKの保護監査係です。」
結先生はそう言うと、今度は私へと振り返り、再び口を開く。
「錫守さん。私ね、楽しかった。
初めは父に頼まれて、それが偶然、ずっと憧れていた人が勤めてる学校だから引き受けたってだけで。
錫守くんのことも、錫守さんのことも、ただの仕事に必要な人間関係だと思ってた。
けれど、2人と色々話すようになって。部活なんか手伝っちゃって、それが日常になって。
……だから、言えなかった。錫守くんのこと、知ってたのに。ずっと黙って、それで良いと思ってた。」
そこまで言うと、結先生は私と素数先生へと、深く頭を下げる。
「2人にとっての大切な人を利用していたこと、それを隠してきたこと。本当にごめんなさい。
どうか、私の事を許さないで欲しい。今ではもう、遅すぎるから……でも。」
そう言って、結先生はまだ混乱している私を再び見つめる。
「今さっき、錫守君が目を覚ましたって連絡が来た。きっとこれから、錫守君の家族にも連絡が行くと思う。
だから、錫守さん。
どうか、後悔しないで欲しい。
私や上手裏先生みたいに、後悔を抱えて生きていく大人にならないで欲しい。
……後は、私が上手裏先生に伝えておく。だから……お願い」
そう言って、結先生は私へと微笑む。その瞳に薄ら滲んだものは、私の目の前で溢れるまいと、ゆらゆらとその瞳の中でゆらぐ。
私の体は、考える間も無く結先生の手を握っていた。
結先生は、驚いたような表情で私を見つめる。
「……私、あんまり難しいことはよくわからないけど。一つ確かなことがあるんだ。」
そう言って、私は微笑む。
「……後悔したくない。私ができる事、何でもしたい。
素数先生、結先生、ありがとう。2人がどんな後悔をしていても、これは、2人から教えてもらったことだよ。」
そうとだけ言って、私は結先生の手を放し、急いでこの教室を後にした。
ーーーーーーー
9/6、午前10時。
僕の病室のの扉が、小さくノックされる。
その音に、来たんだな、と思った。
「入って良いよ。」
ベッドの上で寝たままそう言う
自分が思っていたより、無感情な声だった。
その声から一寸置いて、病室の扉が開く。
「こんにちは、上手裏先生。」
そう言う僕に、目の前の、上手裏先生は驚いたように息を呑む。
それは、痩せてしまった僕にだろうか。僕に繋がれた、昨日よりも増えた管のせいだろうか。
病室に、ただ沈黙が広がる。
「……何しに来たの?」
一向に口を開く様子の無い彼に、僕は痺れを切らしてそう言う。
「ねえ、黙っていたってわからないよ。」
目の前で僕を見つめる彼を追い詰めるようにそう意地悪な言葉を言っても、目の前の彼が動くことはなかった。
それにただ、腹が立った。
目の前のこの男は、本当に何をしに来たのか。
ただただ黙って突っ立っている。ママにも、僕にも謝りもしないで。
「……帰って。」
怒りを押し殺して、そうとだけ言う。
それにも、目の前の彼は何も言わなかった。
「何も言う気が無いなら、もう帰ってよ。」
声に怒気が混じり出すのを、もう自分では抑えられなかった。
ただ、そんな時。
ようやく、目の前の彼は口を開いた。
「……俺は、何も言わない。」
そう言って、彼は入口から僕の寝るベッドへと歩み寄る。
そして、口を開く。
「……お前が、言ってくれ。何でも、言いたいこと。」
つい、笑い声が漏れ出た。
そうだった、上手裏先生はそう言う人だった。
いつも僕は、この人の前では『良い子』でいられない。
今だって、彼は本当の僕を引き出そうとしてくる。
ママは、この人の前なら本当の自分を出せるとでも思ったのだろうか。そんなところが好きだったりしたのだろうか。
本当の自分。
そんなの、見せたく無い。
僕が本当は良い子でも何でもなくて、よっちゃんやせっちゃん、お父さん、皆んなの優しさを利用して、けれどそれでしか生きられない、悪い子、だったなんて。
隠し通していたかった。なのに。
「……嫌い。」
口から言葉が漏れ出した。そうなればもう、止められなかった。
「上手裏先生のこと……前から、嫌いだった。」
彼は、僕のことをいつものように見つめていた。
「先生が、いたせいだよ。僕は……僕はもっと、頑張れた、のに。」
自分の気持ちを、こんな正直話すなんていつぶりだろう。
小さい頃から自分のことを話すのは苦手だった。
………何故か、涙が溢れてしまうから。
「それが……父親? 」
目から溢れる涙を、この管だらけの腕では拭うことすらできない。
「……全部……全部、先生が、逃げたせいだよ。」
ママの姿を思い出す。
僕の知らない父親を、ママはずっと想っていた。
ママが、僕がこんなふうになったのは、全部父親のせいなはずなのに。
何故ママはそんな奴を許せたのか、ずっと、ずっと僕にはわからない。
「先生が……ちゃんと、逃げずに、ママのそばに……いてくれてたら。
こんなことになるなら、僕は……」
これを言うのは、初めてだった。
けれどずっと、僕の頭にこびりついていたこと。
「……僕は、生まれてきたくなかった。」
突然、上手裏先生が僕を抱きしめる。
それがあまりにも突然で、僕は目を丸くする。
上半身がベッドから浮き上がるほど、身動きも取れないほど、上手裏先生は僕を強く抱きしめる。
そして僕も抱きしめられたまま、何も言えなかった。
「……一つだけ、言わせて欲しい。」
僕を抱きしめたまま、先生は小さい声でそう呟く。
雲に隠れていたはずの太陽の光が、窓から病室を照らした。
そうして、上手裏先生は声を絞り出す。
その声が少し鼻声だったことには、気づかないふりをしておいてあげよう。
「……今まで、ずっと、頑張り続けてくれて、ありがとう。」
こうして僕の努力は、初めて報われた。
ーーーーーーー
「……茜、起きて」
私が静かにそう声をかけると、茜はゆっくりと目を開く。
眠たそうな彼を無理矢理起こすことは少し申し訳なかったが、目を覚ました茜を見て、私と、私の横に立つ世界は頷きあった。
9/6、裏口から忍び込んだ深夜の病室。世界曰く、なるべく早い方が良いらしい。
「あのね、茜。よく聞いて。」
世界がそう言うと、私と世界はベッドの上にそれを置く。
それは、『起爆スイッチ』だった。
それを見て、ぼんやりとしていた茜も目を丸くする。
「多分、研究所の人達は停止コードの解除に心当たりがあるみたい。
それが初期化か何なのかはわからないけど、このスイッチはもう要らないみたいだったから、こっそりあたしが回収しておいた。」
世界がそう説明するが、やはりまだ茜はこの状況を飲み込めていないようで、視線を私や世界、起爆スイッチへとキョロキョロ動かす。
「あのね、茜。世界がね、わかったんだって。
……あの停止コードの解除方法。」
私がそこまで言うと、茜は全てを察したのか、ベッドサイドの小さな灯りに照らされたその表情が、少し困ったような表情へと変わった。
「……RSA暗号?」
茜は、小さな声でそう呟く。私にはそれが何かわからなかったが、それを聞いた世界は驚いているようだった。
「茜、知ってたの?」
「……ううん。」
茜はそうとだけ言うと、何もわかっていない私を見つめる。その表情は、昨日の夕方見たものとは全く異なっていた。
「……けど、よっちゃんが覚えてくれてた数が、全然素数だったから。」
「確かに、ママが考えそうなことね。」
そう言って2人は笑う。
よくわからないけど、どうやら私が覚えていた数が役に立ったらしい。私も控えめに笑っておいた。
「……爆発させるの?」
茜は、世界へとそう尋ねる。穏やか声だった。
「うん。あたしも世明も、そうしたいと思ってる。」
そう言って世界は私を見る。世界の表情に、恐怖や迷いは無かった。
「確かに、家族のことは大好きだし、友達だっている。
けどその毎日が、茜の、家族の……好きな人の犠牲の上で成り立っていたらと思うと、嫌だ。
でも、茜の気持ちもわかる。
……だから、こんな世界、ぶっ壊しちゃおうよ。」
世界はそう言って、茜へと微笑んだ。清々しい笑顔だった。それに、私も何だか安心する。
しかし
「……それは、できないかな。」
茜はそう呟く。
正直、茜はそう言うだろう、と覚悟はしていた。
「……どうして?」
世界は、悲しそうな顔をして茜を見つめる
「……言ったでしょ?
僕は、2人には死んでほしくないんだよ。」
「でも!」
世界がそう声を荒げるのを、彼女の手を握ってすぐに止める。病院の人たちに気づかれてしまったら元も子もないのだ。
「………やめてよ、茜。」
世界は、そう言うと私の手を握り返す。彼女の目には、零れまいとする涙が溜まっていた。
「……そうやって、良い子のふりするのやめてよ。
自分より人の気持ち優先してばっかりじゃん。
なんで? あたしも世明も、この世界を滅ぼして復讐したいって、言ってるんだよ?
もっと我儘言ってよ。あたし達と同じ目線で、自分勝手に我儘言ってよ。」
そこまで言って、耐えきれなくなった世界はポロポロと涙をこぼす。私はそんな世界を抱きしめた。
……けどね、世界。私も考えてみて、わかったんだ。
これが、茜の我儘なんだよ。
自分の死の間際になっても、茜は人の事を優先した。
だってそれが、茜だから。
『家族が幸せなら、自分も幸せ。』
それを私に教えてくれたのは、紛れもなく、茜なのだから。
「……これが、僕の我儘なんだよ。
家族には幸せになってほしい。そして僕は、最期までそんな家族にとっての良い子でいたい。
お願い、せっちゃん。最期のわがまま。
僕は、ママにとっての、よっちゃん、せっちゃん、お父さん、先生。みんなの『良い子』でいようと、今までずっと頑張ってきた。
……それを、無駄にさせないでほしい。」
そう言われれば、世界に言い返すことなんて出来なかった。
茜がこの話には乗らない、なんてことは、正直分かりきっていたことだった。もしかしたら、それを勧める当の本人でさえも。
けれどこれはきっと、世界にとって必要な段階だったのだと思う。
世界が、後悔しないために。
世界が、茜がいなくなった後の世界で、何も背負わず生きるために。
そして、それは私にもあった。
「……ねぇ、茜。」
私は、小さな声でそう呟く。
けれど、それに迷いはなかった。
「……私も、試してみたいことがある。」
そう言うと、私は背負ったリュックの中を探る。そしてその中から、一つのものを取り出した。
それは、タブレットだった。
茜も世界も初めこそ驚くが、すぐに昔を懐かしむような、穏やかな表情に変わっていく。
口には出さないけど、きっと2人とも、私らしい考えだ、と思っているのだろう。
「……私たちがどうすればいいかわからない時、いっつも、ママが助けてくれた。
ママは、バラバラな家族を、いつも家族の形にしてくれていた。」
そう言って私はタブレットを開き、いつものようにママの収録した音声ファイルの数々を眺める。
「正直、私は、あんまり難しいことはわからない。
自分が何をしたいのかも、よくわからない。
世界と茜、どっちが正しいのかもわからない。
何が幸せか、私にはわかんない。
けど、それでも。
……私は、家族には幸せになってほしいんだ。
だから私は、家族に頼ってみたい。」
そう言って、私は茜と世界を見て微笑むと、一つの音声ファイルを再生した。
優しい、ママの声が聞こえる。
『ーーよく聞いて、今から作戦を説明する。』
次回最終回です。よろしくお願いします。