明希と利成君。
フローライト第二十八話。
桜も散り、今日は翔太のいるバンドのライブの日だった。一緒に行くと言った利成の言葉を明希は信じてなかったが、利成はわざわざスケジュールを開けていた。おまけにチケットは直接翔太のバンドのsee-throughのボーカルのルイから入手していた。
席は一番前、さすがにこの日は利成も薄い色のサングラスをして変装らしきことはしていたけれど、皆see-throughのファンの人なので、利成にはまったく気づかない様子だった。
ライブが始まる前にバンドの控室に呼ばれた。利成と明希を見ると、メンバーの人が立ち上がって挨拶をした。こないだ偶然に会ったボーカルのルイが笑顔で頭を下げている。
「ほんとに来てくれるなんて、ありがとうございます」と物凄く嬉しそうなルイ。こないだも敬語で目上の人に対してのように言ってたし・・・と明希は思う。
(利成だってsee-throughのバンドとデビューはそこまで変わらないんじゃ・・・?)
同じような時期にデビューしてるはずと、この世界のルールがイマイチよくわからない。
(あ・・・)といきなり翔太と目が合った。けれど翔太がすぐに目をそらす。
(あー・・・そうだよね。利成に私が言ったって思われてるんだろうな・・・)
やっぱりどこか寂しい。翔太と色々話せたらな・・・と思ってからふと顔を上げると利成が言った。
「何かうちの奥さんが夏目君に話があるんだって。夏目君ちょっとだけいい?」
明希は利成の言葉を聞いてぎょっとなった。何でそんなことを?と利成がまったく解せない。翔太も驚いた顔をしている。それから「はい」とまた敬語で答えた。
明希は「利成」と横から少し利成をつついた。すると「明希、良かったね」と笑顔で言われる。
(もうわけがわからないし・・・何か怖い・・・)
控室から翔太と一緒に廊下に出た。
「何?話って」とすぐに翔太に聞かれる。
明希は翔太を見つめた。そして利成の意図を考えてみた。
(もうまったくわからない・・・)と悶絶の気分。
「その・・・利成が勝手に・・・。ごめんなさい」と言ったら翔太が驚いた顔をした。
「何だそれ」
「ごめんね、メールのこと知られちゃったの・・・それで・・・」
「ま、そうだろうとは思ってたよ」
「ん・・・ごめん・・・」
「明希に連絡するにはどうしたらいい?全部あいつに知られちゃうんだろ?」
翔太が利成ことを「あいつ」と言う。
「ん・・・ごめん」
「もう謝るなよ」
「ん・・・」明希はまた「ごめん」と言いそうになって口を閉じた。
「・・・俺たちさ、あの最後にホテルに行ったあの日からずっと中途半端だよな」
「そうだね」
「ずっとすっきりしなくてさ、いつまでも明希のことを思ってるんだよ」
「ん・・・」
「明希はどうなの?俺のこと」
「その・・・どうって・・・」
「俺のことまだ好き?」と翔太が少し周りを見て声を潜めた。
(好き・・・だけど)
でもそれは利成の言う通り、セックスに思いが残ってるだけ?
明希はただうなずいた。好きが何なのかわからない。でも思いが残ってることは確かだった。
「明希・・・俺きっと明希を抱きたいだけなんだ・・・」と翔太が言ったから明希はびっくりして顔を上げた。
「ごめん、変な言い方して。だけどきっとそうなんじゃないかと思って・・・」
「ん・・・変なことじゃないよ」
「きっと俺じゃダメだったんだよね。あいつだから明希も・・・」
明希が思わずうつむいていた顔を上げると、翔太が切なそうにこっちを見ていた。
「翔太・・・私、私ね・・・私も翔太と同じこと思ってる・・・」
そう言ったら翔太が驚いた顔で明希を見た。
「翔太に・・・ほんとは・・・」
その時「夏目くーん」と控室の方から呼ばれた。
「時間だから」とルイが言っている。
翔太がルイの方を見てから明希の方をもう一度見ていった。
「明希、あいつにわからないように必ず何とか連絡する。明希は俺の番号拒否でも何でもして。あいつには完全に切れたように見せて」
「え・・・」
「そうして。いい?また必ず会えるから」
「うん・・・」
「じゃあな」と翔太が明希の手を握った。それから名残惜しそうに手を離して控室の方に走っていった。
(翔太・・・)と明希はその後ろ姿を見送りながら涙が浮かんだ。
それからsee-throughのライブを利成と見た。ライブが始まるとやっぱりみんな総立ちになる中で明希も利成も立ち上がった。さすがに利成は手を叩いていなかった。ただどこか冷めた目で舞台の上を見つめていた。
帰りの車の中、「どうだった?」と利成に聞かれた。
「うん・・・良かったよ。ボーカルの人の声が素敵だね」と言ったら利成がひどく冷めた目をしたのでハッとして明希は運転している利成の横顔を見た。
「それじゃないよ」
(あ・・・)
利成はきっと翔太と話したことを言ってるのだ。
「俺が気を利かせてやって話せたろ?」
「・・・うん・・・」
「彼は何て言った?」
「・・・・・・」
忘れていた、そのことを。利成の意図がわからないままで下手に答えられない。
「当てようか?」
「・・・・・・」
「二人でホテルにでも行く約束したんじゃない?」
明希はうつむいた。何でそんなことをと、少し利成が憎らしかった。
「違うよ」と明希は答えた。
「俺が何でこのライブに来て、わざわざ夏目と話せるチャンスを明希にあげたか・・・ちゃんと俺のフィルターからのぞいてみた?」
(覗いてもわからない・・・まったく)
「・・・わからなかった・・・」
「だろうね。夏目と会ってボーっとしちゃってただけなんだろ?」
「・・・・・・」
「明希」と利成に呼ばれた。車が信号で止まる。
「俺が二人の間を引き裂けば引き裂くほど二人は盛り上がるって気づいてた?」
(え?)と利成を見ると、利成が明希の顔を見て微笑んだ。
「恋愛の原理だね」
「・・・・・・」
「だからもう邪魔しないよ。好きにしていいよ」
「え?」と驚いた時に信号が変わって利成は車を発進させた。
「どういう意味?」
「明希を解放してあげる」
「解放?」
「他の男の匂いがついた女はいらない」
(え?)と明希はびっくりして利成を見た。利成は真っ直ぐに前を向いたまま無表情だった。
(どうしよう・・・)
どうやら利成を本気で怒らせたらしい。明希は必死で考えた。利成のフィルター・・・。
それから(あ・・・)と思った。
あの時、利成が翔太に明希が話があるってと言った時・・・。
(出て行っちゃいけなかったんだ・・・)
あれは利成が自分を試したのだ。なのに私は翔太と話したくて一緒に行ってしまった・・・。
マンションに着くと、利成は何も言わず仕事部屋に入ってしまった。
(どうしよう・・・どうしたら?)
だんだんパニックになってきた。自分の翔太への思い・・・わかってて試されたのだ。許しているわけじゃない。許せないから最後に試したのだ。
(どうしよう・・・)
もう謝っても許してもらえない気がした。
そしてその通り、利成はそれから口も聞いてくれなくなった。あんなに優しかったのに・・・。
三日、四日とただどうしていいかわからないまま時間ばかり過ぎた。明希はだんだん何も手につかなくなった。利成と別れたかったわけじゃないのに・・・自分ってバカだと思った。
(どうすればいいのか・・・)
利成のフィルター・・・。でもわからない・・・。
ぼんやりとバルコニーから夕焼け空を見つめた。
(出て行くべきなのかな・・・)
やっぱり私なんて何の価値もないんだな・・・。翔太にはセックスができなくて振られて、利成にはそんな翔太への思いをいつまでも引きずっていたせいで捨てられる・・・。
二度も死産した・・・。利成には最初から不釣り合いだったのだ。あんなにモテるんだもの・・・きっと他にいい女性がいるはず・・・その女性はきっと私みたいに昔を引きずったりはしない・・・そして子供も産めるのだ。
暗くなっても明希はバルコニーの椅子に座ったまま夜空を見つめた。ここから見る地上には豆粒のような車が見える。
(私が悪かったんだもの・・・)
捨てられて当然・・・。
そんな結論に至った。それが一番正しいような気がした。利成が口をきいてくれなくなって今日で五日目・・・。もう無理なのだ。
部屋に入って自分のかつては仕事部屋だった部屋に入って机の引き出しを開けてみた。何もどうせ持って行くものなんて・・・。
(あ・・・)と思った。それは利成から昔貰った色鉛筆・・・。ずっとまだ大事に持っていた。
明希はそれを手にしてもう一度バルコニーに出た。
(子供の頃に戻りたい・・・)
何も考えずに絵を描いていたあの頃に・・・。
明希はそばにあったスマホを手に取ると思いっきりバルコニーのタイルの上に投げつけた。何故そんなことをしたのだろう。すべての人から離れたかった。
スマホの画面が割れてバウンドしたスマホが転がった。
それからただオレンジ色の色鉛筆を手にしてそのタイルを塗った。人からみたら気が振れたと思われただろう。ただ一心不乱にオレンジ色を塗った。
途中で色が出なくなったので部屋に戻ってカーターナイフを持ってきて削った。そしてそれからまた塗った。
一本目のオレンジ色も鉛筆がなくなると二本目のオレンジ色を使った。
タイルについていた膝がオレンジ色に染まっていった。でもただ無心に色を塗った。二本目のオレンジ色がなくなる。三本目のオレンジ色、そして黄色と使った。
何時になったのかわからなかった。気がついたら利成が横に立っていた。
「明希」と何日かぶりで利成の声を聞いた。
でも明希は顔を上げなかった。もういいのだ、すべて。
すると利成が色鉛筆を手に取った。オレンジ色も黄色もないのに・・・。
利成が水色を手にタイルを塗り始めたので明希は手を止めた。
「ダメよ、水色は」そう言った。
「いいんだよ、色々な色があっても」と利成が言った。
「ううん、ダメだよ。もうオレンジも黄色もないもの。他の色なんて使わないで」と明希は言った。
利成の手が止まる。それから水色の鉛筆を戻した。
「うん、そうだね。他の色なんてつまらない」
利成がそう言って明希を抱きしめてきた。
「明希、ごめん」と利成が謝ったので明希はびっくりした。こんな風に謝られたのは初めてだった。
「もう、いいよ」と利成が明希を抱きしめてくる手に力をこめた。
「ううん・・・いいの」と明希は言った。
気持ちはいつだって割り切れない、すっきりこうだと分けられないのだ。でもそれがこうやって利成を傷つけた・・・。
(あ・・・)と思った。利成のフィルター・・・。
利成は傷ついていたのだ。明希が翔太の影ばかり追う姿を見て・・・。
「利成・・・ごめんね」と明希は言った。傷ついていたのは自分だけだと思っていた。そうじゃない、利成も傷ついていたのだ。
「ん・・・」と利成が更に明希を抱きしめる腕に力をこめてくる。そうしてしばらく二人は抱き合っていた。それからふと利成が明希を抱きしめたまま言った。
「いいバルコニーになったね」
利成の言葉で明希は利成から身体を離し、バルコニーにある小さな明かりに照らされたオレンジ色のタイルを見つめた。
「うん・・・」
「明希もオレンジ色だよ」と利成が明希の膝を見ている。素足の膝がオレンジ色に染まっていた。
「ほんとだ」と利成を見て笑った。すると利成が「バカだな」と笑った。
それから立ち上がり、「あっ」と言った。
「何?」と明希も立ち上がると、利成が少し離れたところにあった明希のスマホを拾い上げた。
「あーあ、どうしたのこれ」
スマホの画面がひどく割れていた。
「あ、えーと・・・」と明希は顔を赤らめて「投げつけちゃった」と肩をすくめた。利成が少し呆れたような顔で明希を見た。
「ごめんなさい」と謝ると、「いいよ。破壊も時にはね」と利成が笑った。
それから「もう入ろ」と利成が言った。
「うん」と明希は色鉛筆を手に持った。部屋に入る時にもう一度バルコニーを振り返ると、明かりの下でオレンジ色が瞬いてた。