精液フェスティバル。あるいは「本格ファンタジー」論争に寄せて。
昔だれかにベル子ちゃんの文章ってなんか「にゅるにゅる」してるねって言われたことがあって、わたしはビックリするとともにちょっと納得してしまった。
――言葉は精液だ。
そういうと、悪意が含まれてしまうかもしれない。多くの人は精液をおぞましいものとして捉えるだろうから、〇〇は精液じゃんって言うと、〇〇を揶揄してることになってしまう。
――そう。精液は穢れている。
生物学的な女も男も他人の精液はキタナイと感じるだろう。
べつに精液が顔にこびりつこうが、その人の生理的機能が害されるわけではない。けれど、少なくとも日本では犯罪である。
精液が穢れているのは、精液に自己同一化作用があるからだ。
わたしをあなたにしてしまう作用がある。これはわたしという自我にとってはまぎれもなく侵害である。
だから、精液はキタナイと感じる。
もちろん、愛し合ってるどうしが、相手方の精液をキタナくないと感じるのは、自己同一化作用を受け入れているからだ。あなたとわたしが混ぜあってひとつになるのが嬉しいからだ。
言葉も同じだと思った。
言葉は他者に対してぶっかけるという使い方が通常である。
誰にも伝わらない言葉をただ紡ぐという使い方もあるが、他者がいて初めて言葉は本懐を遂げる。言葉は編みこまれて作品になり、作品は作者の思い描く主義・思想等の観念連合を相手方に否応なく叩きつけてしまう。
ここには読み手への侵害行為が存在する。
こびりついた精液はそもそも穢れているのであるから、故意の有無は問題にならない。作者が自覚をもって書いてたにしろ、無自覚だったにしろ、言葉を相手に投げかけた時点で、侵害は有ると言えるからだ。
いやしかし、ここで多かれ少なかれそういった侵害があるにせよ、世の多くの人間は言葉を投げかけられたからといってそれを侵害とは捉えないじゃないか。
そんな反論もありえるかもしれない。
それは多くの人間が、言葉によってほとんど同一の規格を持っているからだと思う。つまり、侵害とは、自己同一性の危機だったわけだが、言葉を発する者が受け取る側と同一規格であるなら、そこまで危機とならないからだ。
同じ言葉でも同一規格か否かで結論はまったく変わってくるだろう。
カルト宗教から勧誘を受けたとき、多くの人は怖いだろう。洗脳される。異質なものに同化されるという恐怖があるから。
そうではなく、多くの人間が共有している平凡な日本人像、あるいは日本人的な思考は平準化され、統一化されている。
その平均台の上に乗っている限り、わたしの言葉はあなたの言葉になる。
そういった次第で侵害にならないのではないか。
※にゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅる※
わたしの言葉がにゅるにゅるしているのは、精液くさいからだろう。
つまり、わたしの言葉に日本人の精神の平均台、標準規格からはずれた部分があるから、その人は自己同一性の危機をわずかながらも感じ取ったのではないだろうか。
作者としては、精液くささをある程度はコントロールすべきであろうし、趣味人の域を越えてプロフェッショナルになるなら、なおのことそうするべきだと思う。
正直なところ告白すると、精液くさい作品って言われて嬉しかったりはした。
なぜって、にゅるにゅるって、たぶんいわゆる文学性のことなんじゃないかと思うからだ。
そういうと、文学を権威として捉えてしまってる層からは、ベル子ちゃんはお高くまとっちゃってるとか言われそうだが、ここはバランスの問題で、多くの人は「文学」や「芸術」という言葉に高尚なイメージを持ってるから、そう思ってしまうのである。
要するに文学コンプレックスなのだ。ただ、わたしも文学コンプレックスなところはあるかもしれない。それは否定しない。
――なろう小説は、文学じゃない。
と、言い切ると、少し怖いところがあるが、カテゴリ的に考えてもなろう小説はライトノベルの小カテゴリであろうし、ライトノベルは純文とは対立している概念だから、なろう小説は文学ではないということになる。
もう少し付言すると、ライトノベルにしろなろう小説にしろ、読み手は作者とほとんど同一の存在である。つまり両者は同人的コミュニティを形成し、両者間で伝わるプロトコルで作品を共有している。
わたしという絶対的他者から他人の精液をぶっかけられるのではなく、みんなで楽しく精液フェスティバルを繰り広げているのである。
つまり、なろう小説の言葉は厳密には言葉ではなく精液でもない。
よって、なろう小説は文学じゃない。
文学って何とかなろう小説は何とかいう定義は必要だろうか。
エッセイだし、ま、いっか。
※にゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅる※
なろう小説が文学ではないとしても、それが下劣とか文学より下位という意味にはならない。思うに、文学が権威主義的にもてはやされるのは、時代を越えた垂直的価値を持つからである。
人間が人間であるという前提から生じるケガレを表現したものだからだ。
つまり、理論上、文学は人間が絶滅しない限り死なないと言えるから、時の流れに耐えやすい。
対して、なろう小説はその時代の読み手の平均台に乗っかっている。わかりやすく言えば、時代的な空気感からはずれることがなく、多数の共感を得やすいといえる。
これは、時代を越えて読まれる可能性が高い垂直方向の文学と、
ある時代において水平的に多数の者に読まれやすい水平方向のなろう小説、
というふうに言えるのではないか。
何も難しく考える必要はない。
空間的広がりは垂直方向だろうが水平方向だろうが変わらないのだから、なろう小説が下劣とか下位というふうにはならないと考えているのである。
※にゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅるにゅる※
なろう小説をひとしきり擁護したところで「ふぅ……」。
本格ファンタジーについて少し考えたところを述べたい。
小論として考えた場合、「本格」を定義づけるというのは、数理的にわかりやすくてよいと思うのだが、果たして文理解釈だけでよいのかというのが少し考えたところである。
なろうの強みは同人的コミュニティを形成するところにあると考えているわたしからすると、なろう小説をなろう小説たらしめているのは同時代的に通用する精神の平均台みたいなものである。
枝葉の部分には、ざまぁとかチートとか、来るんだろうけど、その根底にはなろう読者の多くはこう考えるだろう的な無意識的な合意が存在する。
もちろん、作者にはその合意をうまくすくいとれるか否かという上手い下手というのは存在するだろうが、なろう小説的な手触り、わたしたちがなろう小説をなろう小説と認識しているのは、この合意の存在が大きい。
――まあ、一言でいえば精液くさくない。
ってことなんだけど。いや、なろう小説は言い方を変えれば、読者と作者が同一化されているがゆえに、精液が精液として機能せず、精液フェスティバルで精液風呂に浸かってる状態と言えなくもないんだけど、まあともかく、その「にゅるにゅる」な手触り感が従来のライトノベルともまた違ったのだよね。
ライトノベルはこういう定義であり、なろうはこういう定義だから、違うんだという主張もわかるよ。でも、それより、精液の粘着具合がリアルで違う。
それってあなたの感想でしょうと言われれば、そのとおりなのだが、なろう小説が合意を根底にしているという仮説をもとにすると、精液の粘着具合のほうが本質なんじゃないかと考えるのである。
その考えをもとにすれば、ライトノベルは文学ほどにゅるにゅるしてないが、なろうよりはにゅるにゅるしてる感じ。
そういったジャンル分けに意味があるのかという問いには、あるんじゃないかなと答える。
なろう小説がなろう小説として名づけられたのは、ライトノベルとは異なる質感があったからでしょう。
つまり、ラベルを貼る価値があったから名づけられたわけだ。
同様に、本格ファンタジーなるものも言葉の定義ではなく、わたしが何度も述べたように、にゅるにゅる感、手触り、質感、時代的な合意といった言葉によって名づける価値があるか判断される。
要するに、これはなろうとは違う! 目新しい!
と思う読者層が一定以上いれば、本格ファンタジーなるジャンルも定着するし、
そうでないなら、結局はなろうと変わらないでしょという捉え方になるのではないか。
なんか三行くらいで終わることを長々と書いちゃったな。
だから、ベル子ちゃんはにゅるにゅるな文章って言われるんだろうな。
精液いっぱい書けてベル子は満足です。けぷっ。
おまえもにゅるにゅるにしてやろうか!




